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 周囲の人達がAという話題で盛り上がっているとき、大抵の私はAという物事を知らない。Aはいいですよね、こうこうこうだから。でも最近Aはこんなこともありましたよ。そうスイスイと話されているのを聞きながら、私は、Aという事柄についてどう思うか話を振られたらどう答えるべきか考える。知らないと告げるにも理由がいる。例えばAを包括するA’というカテゴリについては疎くてよく知らないんですとか、Aは苦手だけどBなら好きですとか、なにかしら背景の付け足しをもって柔らかにしないと会話というものは凍ってしまう。いっそAを知っている風に装ったほうが流せるだろうか。しかし詳細を問われたら困ってしまうし。目の前で繰り広げられるAの話題に曖昧に相槌を繰り返しながら、私はただAの話が終わるかこの場が解散になるかを期待して待っている。  自分がどうしてこんなに常識を知らないのかわからない。皆が当たり前に知っていることを知らない。全国チェーンのファミリーレストランのメニューとか、道路の呼び名とか、有名人の熱愛報道とか、どこどこの名産物とか、隣のチームがやっている仕事の詳細とか。それが常識だろうと周知の事実だろうと、興味のないことや関係の薄いことはあらかじめ脳内メモリから削除しておかないと、それを自分の中に置いておく圧迫に気が滅入ってしまって日常生活が送れなくなってしまうので、覚えておけない。単純に馬鹿なのかなと思って、ほらそうやって卑下する言葉を自分にかけるのは良くないよと戒めて、でも他の人は皆知っているのに私だけわかっていない場面があまりにも多すぎて、自分自身の異質感にときおり泣きそうになる。  生きるのがへたくそだなあ。政治とか人権とかの話がしたいなあと思うけど、人はみんな時間潰しの立ち話に政治や人権の話題を選ばない。今日は花粉がひどいですねみたいに政権交代待ったなしですねと言いたい。異質になるので言えない。でもAについてはなにも知らない。その場限りの会話をうまくすり抜ける方法ばっかり上手になる。早く帰りたい。  テンポよく会話を回してひと笑い掴みにいくことも得意じゃない。冗談を振られてもほうっておいてくれよと思うし、運良く難なく笑いを起こせても緊張が解けたときのほっと感しか胸中にない。ノリのよさだけで成り立っている会話は飲み会に多い。でも私は、あなたが普段どんなことを考えているのかとか、どんなときに嬉しくなって悲しくなったらどうケアしているのかとか、そういう話をゆっくりしたい。言葉をじっくり搾って向かい合ったテーブルの上にしっかり置いていくような、そういう会話を楽しみたい。でも無理矢理笑う必要のないお酒の席は夫と以外にない。その場限りの会話を笑って過ごす方法ばっかり上手になる。帰ったら、頭からシャワーを浴びながら今日の自分の振る舞いについて反省会をするくせに。  社交的にならないとだめだと思っていた時期があった。社交的じゃないことを受け入れてそれでいいんだと認められた瞬間から、ずいぶんと楽になった。それでも、疲労と反省に蝕まれながら今日も会話をしてきた。社交的で会話が上手でないと異端になるのはどうして? こめかみの上あたりが重い。早くねむろう。文通とかしてみたい。

 ※本編終了後、数年後の話   一  向日葵と菊...
 雪が降った。リビングのソファに横になってしばらく眺めていた。さっきまで見ていたJ・A・バヨナ監督『雪山の絆』を思い出した。寒い中避難所や避難所じゃないところにいる能登の人々を思った。瓦礫の白い粉で顔を汚すガザの人々を思った。雪が降る時間を静かだと思うのは、私達がそこに音があるはずと思い込んでいるからだ。質量が落ちてきているのに落下音がない、音があるのを基準にしているから、ないことが特に静かだと感じる。  孤独は一人では感じられない。インターネット上では誰もが繋がっているように錯覚するが自分の声が反響しているだけかもしれない。他人を見てこの人はあっち側、あの人はこっち側と分類するのをやめたい。いつ読み返しても森鴎外は良い。あと、友達がほしい。転職を考える。  日記(兼エッセイ)を書いている「しずかなインターネット」に感想レターが時折届いていてすごく嬉しいです、ありがとう。しずかなインターネットはイイネ機能も他人に見えるコメント欄もないし、記事ごとの閲覧数集計もないので過度にインプレッションを気にしなくて済むし、時間の流れがゆるやかなようで心地良い。気楽に開ける。場の提供に大感謝している。   さて、暴力的なまでもの薄情さがはびこる2024年、倫理や道徳よりも利益や地位が優先される2024年、こんな始まりにするつもりは2024年側だってなかったはずだけど、こんな世界にしてしまった責任を背負いながら明日も戦ってゆくために、今はただどうにか生きていきます。国会議員が違法行為をしても掴まらない国。震災の被災者救済もせずに原発を続けようとする国。著名人が性暴力を行なっても守られる国。地方自治体の声を無視して海を埋め立てる国。どうしてこんなことが許されるのか。こんな国に誰がした? あなたが。私が。  信じられないけど私たちって多分間違っていない。証明されるのが何十年後になるのかさっぱりわからないけど、そのときこの国ってまだあるのかわからないけど、きっとああよかったそうだよねこれこそ善だよねって、フェアネスが守られた社会でやっときっと息ができるようになる。今はただ毎日苦しくて、悔しくて、悲しくて、腹立たしくて、無力感に陥りそうになるけど、もう無闇にその「いつか」を願って信じて生き抜くしかないのかもしれない。  仕事先の新年会で六十近い男性上司に「その髪(ベリーショートに切った髪)、どうしたの。旦那さんと何かあったの?」と言われて意味がわからなくて返事に困った。別の五十五くらいの男性上司はずっと近くの席にいてずっとこっちの気を引くのに躍起になっていた。飲み会での疲れは大体が怒りだ。女というだけで別物扱いしてくる奴はみんな嫌い。気持ち悪い目線を上書きして忘れたくて本を読む。  祈るような日々です。どうやって心を守っていますか。

 お風呂が湧くまでの時間に洗面所にしゃがんで本を読む。二階から夫のくしゃみが聞こえてくる。目の前にあるドラム式洗濯機に、家用眼鏡をかけた私の姿が少し歪曲して写っている。...
 カヌレのことを、なに? と思っている。お菓子、いや食べ物の中で今のところ唯一、なに?...

 夢を見る。一時期、いくら寝ても全く夢を見ない(または見たけど忘れている)状態がしばらく続いていたが、最近は起床時の気分に響くほどしっかりと夢を見る。...
 年の瀬ですね。エッセイではないが記録しておきたくて、ここに記します。 本【小説】 1 ファン・ジョンウン『百の影』 2 トーン・テレヘン『きげんのいいリス』 3 李屏瑤『向日性植物』 4 高瀬 隼子『いい子のあくび』 5 チョ・ウリ『私の彼女と女友達』 (意識的にか無意識か女性作家の作品を手に取ることが多かった) 本【小説以外】...

 都会の喧噪に疲れて逃げ込む本屋とか、大人数での食事のあとにシャワーを頭から浴びて目をつむる夜のように、ひとりだ、と感じて心から安堵してその場が居場所になる瞬間がある。私にとってインターネットというプラットフォームは長らくそんなような形をしていて、逃げ出したい家庭や忘れたい現実から自分の心を一時的に守る場所だった。そこはいつでも寛容で、味方が多くて、なにかを零せばなにかが返ってくる期待が持てたホームだった。事実、私生活では誰にも話せないような悩みや趣味を共有できる仲間に出会えたり、承認を得て精神面が救われた過去がある。  でも結局それは虚構であると、インターネットはリアルライフではなくリアルなライフを模して机上に組み立てたデジタル都市みたいなイメージをしたほうがより正確だと、実感としてそれを飲み込んだ頃には世界はすっかり様変わりしていた。いや、様変わりしたのは世界ではなく私のほうだ。私は、ネット世界に落ち着きを抱いていた頃の自分よりもずっと、社会人としての自分の自我を見つめたいと思うようになっていた。  小学生の頃、私のその後の人生を変えることになる傑作フィクションに出会った。『ハリー・ポッター』シリーズを読み始めたのは(元)父親の勧めで、最近は原作者のトランス差別があまりにも酷くて距離を置いているけれど、私の人格形成の基盤になったとも言えるほど影響力が大きかった。私はあれをあくまで創作された物語として受け取っていたが、ここ数年思うことは、あそこで書かれていた「思想や言動が差別的で悪質な魔法使いが魔法界をどんどん侵食していき最終的には大きな戦争になる」という流れが、私が属しているこの社会でまさに今行われているという実感があることだ。例えばプロパガンダや陰謀論の蔓延。国民の主張を聞かない与党。ヘイトスピーチの放置。公文書の改ざん。行き過ぎた忖度。メディアや教育の場を支配する政権。差別撤廃のために動く者を冷笑する風潮。学校や病院等の施設の破壊。政治家の差別発言や暴力とそれに然るべき処分をしない首長。……  かつて私が見ていたインターネットの世界に、これらのような非道で感情を荒らすものは存在していなかった。見ようとしていなかったのだ。フィルターバブル、エコーチェンバーという言葉がある。過去の私は社会と向き合うためにインターネットを使っていたわけではなかったから、結果的に自分が安心できる、心が荒れずに済む居場所ができあがっていて、そこを心地良いと感じていたのだ。その上、無意識にそこを全世界だと思い込んでいた。  今はインターネットを居場所とは感じない。SNSをほとんどやっておらず、特に人との交流という意味ではほぼゼロに近い状態だから余計にそう感じるのだろうけれど、この私の手の中のデジタル空間を操作するべきは私自身と思うようになってから、姿勢が変化したように思う。今になって思い返してみれば、どうしてかつての私はあそこまで何も見ずに何も得ずにひとつの世界に閉じこもって、世界は平和だ日本は平和だなどと思えていたのだろう。自分の人生は自分でどうにかすべきもので、生活のありようも自己責任だと思っていた。趣味だけやっていればそのままずっと楽しく過ごすことができると思っていた。  この間、人と喋っているときに冗談っぽく「野球と政治の話は人にしちゃいけない」と言っている人を見て、数秒間固まってしまった。皆、あまりにも政治の話をしなさすぎやしないか。世界の時事問題から目を反らしすぎではないか。職業上、オフィスでは毎日政治の話をするけれども、友達と会ったり他のコミュニティに行ったときに政治の話を持ち出すとほとんどの人が「でも自分の生活を大切にしないとね」などと言ったり話題を変えようとしたりする。いや、その「自分の生活」に政治は直結しているのだが? と思うが、例えそう返しても手応えのある返事は期待できない。どれくらいの日本人がパレスチナの状況を把握しようとしているだろうか。どれくらいの有権者が与党の暴挙を追って選挙に行くだろうか。どれくらいの大人がデモの情報を集めて参加したり、官邸へ意見を送ったり、情報の拡散や署名や寄付をしたりしているだろうか。  今、私はそんな現実社会のためにインターネットを利用している。もうここは逃げ場ではない。生活のためのひとつのツールとして付き合っていきたい。現実を見つめて社会と繋がって、自分の言葉で声を出すための手法のひとつとして、インターネットに帰ってくる。  最近はインターネットに触れていると疲れる。もう子どもの死体も記者の遺体も爆撃もリンもなにも見たくない、核の話だとか赤ちゃんもテロ組織員だとか本当に馬鹿げているし、こんな状況を止められない世代に生きていることの絶望で押し潰されそうだ。先日はネットで収集した情報を見てデモに参加してきた。友人の結婚式のあとにもデモに行ってきた。どれにしてどれにしていないかわからないくらいオンライン署名もしている。毎日のように政府に意見も出している。インターネットでもはや戦っているようだ。安らぎをと思い好きなアーティストの情報を追うと、そこでも人種差別や女性差別にぶち当たり、性暴力に対処しない会社にも向き合うことになる。疲れる。ボロボロだ。かつてはあんなに楽しかったインターネットで、現在の私は日々疲労と無力感に苛まれながらどうにか立っている。  ハーマイオニー・グレンジャーという登場人物が大好きだった。言わずもがな『ハリー・ポッター』シリーズのキャラクターで、主人公ハリーの親友だが、彼女は作中の後半ずっと「屋敷しもべ妖精解放運動」を一人で行っていた。これは、与えられるべき給与や休暇が与えられずに過酷な労働をさせられている屋敷しもべ妖精に権利を戻そうという運動(ざっくり)で、映画版ではぞっそりカットされていたが、原作小説だとハーマイオニーのアクティビストとしての印象を強くするエピソードである。彼女の解放運動の方法そのものを評価することはしないが、私は、古くから社会の中に構造として存在している差別や偏見から目を反らさず闘おうとする彼女の人柄が大好きで、尊敬している。ハーマイオニーなら原作者のトランス差別も絶対に真っ向から批判するはずと確信している。そしてハーマイオニーなら、インターネットを上手く利用して現実社会に向き合っていくはずと確信している。  インターネットは騒がしい。なぜなら模倣元の現実社会が騒がしいからだ。インターネットが騒がしくない人は、一度顔を上げてみたほうがいいかもしれない。そしてこのプラットフォームは「しずかなインターネット」というようだ(「しずかなインターネット」に同じ記事を掲載しています)。名前に惹かれて機能を見てみた私がさっそく飛び込んでみるまでに時間はかからなかった。インターネットそのものではなく、インターネットのどこかにしずかな場所を作れるのであれば、それは現実を生きる私の助けになるだろう。

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