春鳴(2019)

 

 拍手が鎮められる。

 軍団は息を止めた。

 舞台に座る誰もが皆、伸ばした背筋は宙を突き刺した指揮棒の先端を見つめていた。鋭利なそのさきっぽには無数の照明が当たり、反射し、まるで魔法使いが掲げる魔法の杖の先のように、白く眩い玉が輝いていた。

 直射に顔を照り付ける照明は暑い。手に汗が浮き、構えている楽器が掌から滑り落ちそうになった。首の裏が、高熱がある晩の如くじりじり痛い。

 空気が動いた。

 始まる。もうこの世界では、魔法使いの命令は絶対だ。

 視界の端で、彼の後ろ姿が鍵盤に指を添え用意して、主人の命を仰ぐ弟子のように恭しく頭を持ち上げたのが見えた。

 ホールにいる誰もが皆、息をつめて耳を澄ました。

 指揮者が魔術の呪文を唱えるように頷いた。すると、海原のように広く天空のように高いホールに、教会に響くパイプオルガンのように地を震わせる重低音が、ボーンと伸び広がった。

 最後の宴が始まった。

 舞台の上で初めて感じる絶望は、甘くほろ苦く胸を締め付けた。

 

 春

 

 春は桜が舞っていて、やっと足を踏み入れることが叶った堂々たるキャンパスの、正門から奥へと導く通りを薄い桃色にさあっと染め上げていた。

 入学式とは静かに厳かに行われるものと想像していたのだが、実際に経験するそれはもっと喧しく忙しなく、とにかく一歩進むごとにサークル活動への勧誘に遭い続けた。新入生を一人でも多く獲得しようと躍起になっているのは、テニスサークルやら軽音楽部やらプロレス同好会やら、大体が体育会系で華のある熱狂的な組織のものだった。

 はなから下を向いて早足で人込みを掻き分けながら、引き攣った笑顔でただただ断り続ける。

 しかし、お目当ての単語が聞こえた途端、間宮悠はパッと顔を上げた。

「オーケストラですか?」

 今年も目星の付く人数しか集まらないだろうと、もうほとんど諦めていた団員の青年は、持っていたフルートを危うく地面に落とすところだった。

 真っ先にオーケストラを目指して来る人は、まあ割と珍しいものだった。大概がどこか他のサークルと迷って――隣の吹奏楽団や室内楽団と天秤にかけられることが多い――最初のうちは見学に来てくれるものの、最後の決断ではお祈りされてしまうことが常なのだ。

 そんな中、悠は迷わずここだけを狙って現れた。

「何か楽器の経験はある?」

 部室へ案内される途中そう聞かれると、悠は待ってましたとばかりに顔中でにっこりした。

「バスーンをずっとやってました。ファゴット」

 予想していなかった答えに、フルートの青年は面食らう。

 それはあまりメジャーでない楽器の名前だった。おそらく、ある程度オーケストラやクラシック音楽に興味のある人でないと、その名とその楽器の姿は結びつかないだろう。

 オーケストラでは活躍の場面は多いものの、日本の一般的な小中学校の吹奏楽部なんかではめったに見ない。例えパートがあっても、チューバやユーフォニウムと音符のかぶる目立たない中低音をやらされるため、ホールの客席に座ってぼうっと演奏を楽しんだら、音さえ追えない。

 そのような調子のマイナーな楽器の経験者というと、相当貴重な存在だった。団員としてはなんとも獲得したい。

「あこがサークル棟だよ」

 フルートの青年は、やがて目の前に見えてきた、キャンパスの正門から遠い奥にのっそりと建っている三階建ての建物を指差した。前に申し訳程度に整備されている駐車場には、数えられるほどの自動車と大量の自転車が置いてある。

「ちょっと古い建物で防音とかもついてないんだけど、今は吹奏楽が二階、合唱と室内楽が三階を使ってるんだ。うちら管弦楽団は一階。下駄箱は共同だから汚いけど、我慢ね」

 フルートの青年は入口を開けながら振り返り、悠に言った。

「遅くなったけど、俺、フルートパートリーダーの浅川。皆ジョン先輩って呼んでるから、それでいいよ」

 彼はとてもそんな横文字の名前をしているような彫りの深い顔はしていなかったが、何かしらの流れでそんなあだ名がついたのだろう。悠は彼をその名で覚えた。

「今日吹いていく? 実はうち今、ファゴットが一人しかいないから、その人から色々借りることになると思うけど」

「あ、ストラップとリードは自分の持ってきたんで大丈夫です。楽器だけ借りられれば」

 悠はやる気満々だった。疲れた黒いリュックから同じく黒いポーチを取り出すと、中をあさり首にかける紐状のものと革製のケースを見せた。ジョン先輩はにやりとする。これは結構な新入りが襲撃してきたぞ。

 部室はがやがやと動き回っていた。すでに何人か連れて(捕まえて)きた新入生を相手に、初心者なら興味のある楽器を、経験者なら経験のある楽器を、とりあえず触らせている様子だ。

 ジョン先輩は、部屋の隅にあるボロのソファーにもたれかかりすっかり寛いでいる女性を手招きし、声をかけた。

「もつ煮、新入生の相手よろしく! ファゴット経験者!」

 もつ煮と呼ばれたその女性は目を丸くし、持っていた謎のおもちゃを手にしたままずんずん駆けて来た。信じられないものを見る目できょとんとしている悠を確認し、興奮したようにふっくらした頬を紅潮させる。

「ファゴット? 君、ファゴット吹きたいの? ほんと?」

「はい、ぜひ」

「ほんと? やったー!」

 もつ煮先輩は飛び上がって喜んだ。その頃には周囲も気付き始め、団員はみな、真っ先にファゴットを志願してきた新入生を物珍しい顔で窺いに来た。

 悠はその視線に慣れていた。田舎の学校を出てきたので、中学の頃も、高校の頃も、ステージに上がると物珍しい目で観察され、「あの学校ファゴットあるよ」「え、なんでだろ、借り物?」「いいな、うちにも欲しい」などと噂話をされていた。悠は実は、その扱いをされることが結構好きだった。

「まみやゆうっていうんだ。なんか可愛い名前だね」

「そうですか?」

「うん、なんか、丸い感じの音」

 もつ煮先輩は始終にこにこしていた。ふかふかした彼女の体型の影響もあるのかもしれないが、そのにこにこの印象もあり、彼女は日曜日の午前中のオレンジ色の日差しのような女性だった。

「ところで、ちょっと失礼なことを聞くかもしれないけど」

 もつ煮先輩が言う。

「間宮……悠、なのかな? それとも悠?」

 悠はにこりとした。

 その問いにはもうすっかり慣れていた。

「どちらでも、好きなほうで呼んでください」

「え?」

「音楽をするのに性別は関係ないですから」

 その年は悠の他に二十名程度の入団があったが、どんなに音楽に慣れていない耳が聞いても、どんなに視力に難ある目が見ても、悠は頭一つ飛び出て「優れて」いた。

 優しい焦茶の猫毛から覗くいたずらっ子のような真ん丸い瞳が、華奢なその体よりも重いのではないかと思わせるような楽器を抱きしめるように構え、おどけたような、春の鶯の声のように暖かい音色で、譜面をさらさらするすると撫でていく。悠の女性とも男性とも取れる中性的で見惚れる外見は、紛れもなく、その奏でる音に鮮やかな色を加える役割を担っていた。

「すごいねえ、すごいねえ」

 もつ煮先輩はすっかり悠のファンになっていた。

「定期演奏会、悠ちゃんと一緒に乗りたいなあ」

 演奏者としてステージに上がることを「乗る」と言う。

 冬の定期演奏会は、団員にとって大きなひとつの節目だった。

 

 夏

 

 サークル棟の冷房はいつも全力で稼働していたので、団員は夏休みの間に仕上げなければならないレポートや研究報告書などを部室で片付けていた。ひいひい言いながらペンを走らせたりキーボードを叩いたりする中に、悠の姿もあった。

 そこに唐突に、ふわ、と、垢抜けた空気が舞い込んできたのを頬に感じ、悠は顔を上げた。

 たまたま手前にしまってあった服を何も考えずに着てきたような学生がたまっている中、この猛暑だというのにストライプのジャケットに身を包んだ男性が、しゃんと背筋を伸ばして立っている。スーツにはシワひとつない。爽やかな黒髪は自然な形にセットされている。話している相手は管弦楽団長であるパーカッションパートの先輩で、何やら世間話でもしているのか、周囲には朗らかな空気が漂っていた。

 頬を撫でた先ほどの気流は、彼の香水かワックスかの匂いが、開いた扉から吹き込んできた風に押されて届いたものらしかった。隣にぎゅうぎゅうに座る同級生が悠のレポートを勝手に覗き込んでいる横で、悠だけが鼻を利かせる。

 知っている香りだ。

 彼がそこに立っているだけで、右端のほうのピアノの鍵盤がひとつポーンと叩かれたような、景色の抜ける趣があった。彼の周囲のみ彩度が上がり、コントラストまでハッキリしている。長期休暇中に旅先のフィレンツェ・ウフィツィ美術館でお目当ての絵画を見つけた、あの輝かしい瞬間に似ていた。

 捕らわれたように一点を見つめる悠の様子に、通りすがりのもつ煮先輩がちょうど気付き、声をかけた。

「あぁ、あの人はね、うちの専属のピアニストだよ。専属って言っても、今年で終わりなんだけど」

「ピアニスト」

「うん。今はまだ都内の大学で院生やってるから本格的に演奏家の活動はしてないけど、今年の冬で修了してプロになるんだって。ほんとすっごい上手いよ、絶対将来有名になると思う」

 彼の名は結城はじめという。冬の定期演奏会ではピアノ協奏曲を演奏する際にピアノを担当するらしく、それに伴って挨拶に来たようだった。

 改めて団員に向き合った彼は見るからに端正な顔つきをしていて、彫が深い鼻筋の横に覗く目はいたずらっ子のようにきらきらきらきら、口角の上がった唇は薄く、大学生活で見かけるどの男性よりも洗練された華を備えていた。アーティスト向きのオーラだ。

 彼に初めてお目にかかる新入生達はもちろん、わっと姿勢を正した。悠の隣にいた女子は、しきりに前髪を撫でつけ始めた。

「結城さんが来たってことは、今年のメインはピアノ協奏曲なんですか?」

 ジョン先輩がフルート片手に聞くと、結城の隣にいた指揮者の三年生がにっこりして答えた。

「そうなの。ラフ二をやるわよ」

 団員から歓声が上がった。

 ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第二番」。言わずと知れた人気曲で、時代を超えて愛される美しいピアノ協奏曲だ。世界中でこの曲をモチーフにした楽曲も発表されている。日本でも、映像化もされた漫画『のだめカンタービレ』で指揮者・千秋が学園祭で振った曲として起用され、クラシックにさほど詳しくない人でも耳にしたことがあるかもしれない音楽となった。もちろん、当団でも以前から「演奏したい」という声があった。

 ラフマニノフの出世作でもあるが、彼の作曲したほとんどのピアノ曲と同様に、ピアニストにとっては難曲でもある。

「ここで弾くのが最後になるのは寂しいけど、最後の曲がラフ二なのは嬉しいです」

 結城は飄々としたまま話した。

「よろしくお願いします。素敵な演奏会にしましょう」

 無駄のない動きで下げられた頭に、団員はあたふたと礼を返した。

 顔を上げ、人好きのする笑顔を見せた結城と、一人だけ礼をしていなかった悠の目が合った。

 

 秋

 

 夏が終わると、いよいよ定期演奏会に向けての練習が本格的に始まった。キャンパス内の木々は赤や黄色に色づき始め、どこからともなく金木犀の匂いが漂ってくる。

 悠がサークル棟のドアを開けると、団員はすでにほぼ全員が揃っていた。慌ててもつ煮先輩の隣に座り、みなの前に立っていた団長のほうを見上げた。

「大体みんな揃ったかな?」

 ひとつ、咳払い。

「じゃ、定演のメンバーを発表します。まずメインのラフ二。指揮はもちろん彩奈先輩、ファーストバイオリンはコンマスの親知らず先輩、あと――」

 やがてファゴットの番がきた。

 悠はこっそりとポケットの中で手を合わせる。

「ファゴットはもつ煮と悠。ファーストかセカンド、どっちがどっちをやるかは二人で話し合って決めてくれ」

 もつ煮先輩と悠はハイタッチをして喜んだ。二人で乗ることができる。

 そして、と一緒に、演奏することができるのだ。悠は思わず部室の隅に大人しく置かれているピアノを振り返った。今日はそこに座るべき人は来ていない(彼の本業は大学院生なので、オケのみでなくピアノも入れた全体合奏が予定されている日しか顔を出さないのだ)。

 それでも悠はにっこりした。

 

 それからしばらく経ったある秋の夜のことだった。悠はその日、午前の授業に出た後にまっすぐサークル棟へ向かい、くたくたになるまで練習に励んだ。あまりに長時間集中して練習していたので珍しく疲れ果て、サークル仲間からラーメンを食べに行こうと誘われた声にも断りを入れてしまった。

 外気はすっかり冷え込んでいた。十二時近いので、辺りは真っ暗だ。もう冬の到来を思わせるほどだった。悠はキャンパスを横切り、一人暮らしをしているアパートへの近道を通るため音楽棟の方向へ歩いた。

 音楽棟は主に音楽学科の学生が使っている完全防音の場所で、練習棟のほうでは三十ほどある個室に一つずつピアノや譜面台、メトロノームなど一式が設置されており、たまに管弦楽団員が練習に借りることもある。本来は音楽学科の学生証を持つ者しか通れないのだが、悠はジョン先輩からこっそり譲り受けた音楽学科の学生証(誰の物だったのかはわからない。古いものではあるが、そう遠い昔の物ではなさそうだ。かつてこの大学の音楽学科にいた誰かの物を、ジョン先輩がもらっていたのだろう)を持っていたので、すんなり通ることができた。

 ここを通り抜けるとアパートへの近道になるうえ、たまにピアノを拝借して、ひととおり弾いて遊んでから帰宅することもあった。楽器を持っている時にはファゴットも吹いた。

 その夜は深夜だというのに人の気配があり、どうやら先客がいるようだったので、悠はそのまま黙って通り過ぎようと思っていた。疲れているし、早くあたたかいお風呂に浸かりたい。

 しかし、うっすら聞こえてきたピアノの音色に足が止まった。

 ずらりと練習室が並ぶ長い廊下に、手前の一つの個室から漏れる灯りが静かに伸びていた。耳を傾ければ、音楽が譜面になって脳に浮かんでくる。

 バラキレフの東洋風幻想曲「イスラメイ」だ。

 悠は興味をひかれ、忍び足でその個室へと近付いていった。

 扉の上部についている小窓からそろりと中を覗くと、見慣れない背中がピアノの前で揺れていた。ストライプ柄のスーツに、しっとり整えられた黒い髪。少しまくられた腕は細く、骨ばっていた。

 結城はじめだ。

 悠は、吸い寄せられるように扉の小窓に鼻を押し付けた。この高度な技巧を求められる見事な難曲を、こんなにも爽快に弾きこなす人物を初めて見た。この肉眼で。この鼓膜で。怒るように、しかし心底楽しんで、短い音符がぽんぽん飛ぶ。軽快に、しかし熱狂的に。

 ワックスで整えた髪型が多少崩れるのもお構いなしに、彼は一心に「イスラメイ」に向き合っていた。

 譜面の動きに合わせて揺れる横顔は軽く上気している。スッと通った鼻筋から白と黒の鍵盤まで、見えない糸で繋がっているかのような一体感だ。ピアノに抱き込められているようで、ピアノを抱き締めているようで、悠は見てはいけないものを覗き見ている背徳的な気分になった。白いこめかみから一筋の汗が流れる。いっそ妖艶でもあった。

 近寄ってはいけない、で完成された世界を邪魔してはいけない、と抑止する理性を押しのけて、もっと近付きたい、この防音効果のある壁を取っ払って隣で聞きたい、という欲望が湧き上がってきた。しかし、やがて、悠がノックをしようとした直前に演奏は中断されてしまい、落胆に肩を落とす羽目になった。

 音楽棟が水を打ったように静かになった。不意に結城が扉の方向を振り向き、その向こうに隠れていた悠に微笑んでみせた。

「立ち聞きなんて悪趣味だね」

 どっきりして、心臓が口から出るかと思った。悠は渋々扉を開けた。

「すみません。とても素敵な演奏だったので、つい」

 素直に言うと、結城は意外にも大きく笑い、悠を中に招き入れた。

 中は暖房がほどよく効いていて非常に居心地が良かった。ずいぶん長いことここで弾いていたのかもしれない。テーブルには、空のミネラルウォーターのペットボトルが二本置いてあった。

「君は?」

「管弦の者です。ラフ二、自分も乗ります」

 悠が答えると、結城は嬉しそうに破顔した。

「あ、そうなんだ。早く全体合奏に混ざりたくてさ、さっきまでラフ二弾いてたんだけど、飽きちゃって」

 そこまで言うと、はっと口をつぐむ。

「飽きるって悪い意味じゃないよ」

「わかってます」

 あなたはそんな人じゃないから。悠は心の中で付け加えた。

 結城は伸びをしてから椅子に座り直した。そして思いついたように鍵盤に指を添え、流れるように演奏を始める。

「君は何の楽器をやってるの?」

 ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番、第二楽章のピアノパート。話しながら穏やかにアルペッジョを奏でる結城を眺めながら、悠は魂が抜けたように床にぺたんと座った。

「ファゴットやってます。ずっと」

「へえ、珍しいね。俺、ファゴットの音ってすごく好きだな」

「……そうですか」

 第二楽章のあまりに甘く美しいピアノの旋律が、寂しげに個室の空気を撫でる。合奏をすればそこに乗ってくるはずのフルートの音色が、空から聞こえてくるようだ。

 悠は、この音を独り占めしている状況に泥酔してしまいそうだった。

「二年前、あなたのクリスマスリサイタルに行きました」

 ぼそぼそと話し始める。

「え、本当に? ありがとう」

「あなたは間宮悠を覚えてますか」

 そう問うと、結城はゆっくりと演奏を止めた。

 そして悠を見て、思い出を辿るような表情をした。

「まみやゆう」

「そうです」

「……うん、覚えてる。覚えてるよ」

 結城はそっと話し続けた。

「もしかして、君、」

「間宮悠です」

 名乗る。結城は一つ、長い溜め息を鼻から伸ばした。

 

 冬

 

 二年前のクリスマス、悠は、次の年にくる大学受験のため予備校に通い始めたものの、志望校が決まらず悩んでいた。大学へ進学するかと漠然と考えてはいるが、特にやりたい学問があるわけでも、就きたい職業があるわけでもない。このまま流れに身を任せてとりあえず大学へ行ってもつまらない気もするし、まあ楽しめそうな気もする。予備校の帰り道、マフラーで顔を口まで覆いながら帰路をぼんやり歩いていると、昨年できたばかりのコンサートホールの前に差しかかった。華やかなポスターが目に留まり、悠は立ち止まった。ピアノのリサイタルが間もなく開演するらしい。興味本位で覗いたそれが、結城はじめとの出会いだった。

 悠は一晩にして結城はじめの虜になった。

 ひとこと「あなたは素晴らしい」と伝えたいがためだけに、悠は公演後こっそり舞台袖からホールの内部に侵入し、結城の控室のドアをノックしようとした。その時、中から微かに漏れていたピアノの旋律がぶっつり、途切れた。

 誰ですか、と呼びかけてくる声がする。

 彼は恐ろしく耳が良かった。

 悠は結城の目の前で結城を褒めちぎったが、返ってきた反応は決して芳しいものではなかった。そりゃあ突然知らない人間が――それも高校生が――やって来て、あなたの演奏は素晴らしい、あなたは素晴らしいと訴えてきても、心に響くものは少ないかもしれないが、その時の悠はとにかく必死だった。何周目かのあなたは素晴らしいを言ったあと、いっそあなたになれたらいいのに、と言うと、結城は初めて表情を和らげた。

「愛の告白みたいだね」

 後日聞いた話によると、そのクリスマスリサイタルの出来は、結城自身にとっては納得のいくものではなかったらしい。それでもそんな余計な話はせず、結城はファンに優しかった。

「ありがとう。君、名前は?」

「間宮です。間宮悠」

「まみやゆうくん。いい音だ」

「僕、本当にあなたのことが好きかもしれない。こんな感情は初めてです。あなたの演奏が素晴らしくて、素晴らしすぎて、あなたごとどこかにしまい込んでしまいたい。あなたごと僕のものになったらいいのに。あなたは本当に――」

 熱に浮かれたまままくし立てる悠に、結城は笑った。彼の音色のように朗らかな笑い方だった。

「一時の興奮と愛を勘違いしちゃいけない」

「でも」

「ごめんね。俺、婚約者がいるんだ。プロになれたら結婚する約束をしてる」

 悠はぱちくりした。

「け、結婚。プロになったら?」

「そう」

「それ、は……きっと素敵な人なんでしょうね」

「うん。世界一の女性だよ」

 微笑む結城が、悠の目には宗教画に描かれたキリストのように見えた。

「あなたは、本当にすごいですね。僕、こんな見た目だから、初対面の人からは大体女子に間違えられるんです。それなのにすぐ"くん"って言った」

「あぁ、声がね」

「声?」

「男性と女性だと声帯の造りが違うから、響き方が違うだろ?」

 やはり彼は恐ろしく耳が良い。

「まあ、どっちだろうと、ね。音楽をするのに性別は関係ない」

 結城はすでに玄人の顔をしていた。

 悠はそんな彼を見、じんわりと切なくなった。

「あなたは絶対にスターになる。その前に一緒に演奏ができたら良かったのに」

 悠が高校の吹奏楽部に所属していることを伝え、しゅんと表情を暗くすると、結城は、現在母校の大学の管弦楽団で専属のピアニストをやっていることを教えてくれた。縁があれば一緒に何か演奏できるかもしれないね、と、提言する。

「何の楽器をやってるの?」

「ファゴットやってます。ずっと」

「へえ、珍しいね。俺、ファゴットの音ってすごく好きだな」

 結城は突然ピアノに向き直り、並ぶ鍵盤の左のほうに身を寄せ、地響きのような低い音を轟かせた。ゴーン。その音の掛け合いは徐々に大きくなり、助走をするような動きを聞かせた直後、濁流が流れる風景を思い起こさせる連符へと変化した。ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番、第一楽章の出だしの部分だ。

 悠は鳥肌が収まらない腕を押さえた。走っているわけでもないのに、呼吸が荒くなる。濁流に溺れさせられぬよう、必死に足を踏ん張った。

 指を動かしたまま結城は振り向き、言った。

「ラフ二の二楽章、わかる?」

 激しい一楽章に飲み込まれないよう、悠は声を張り上げた。

「わかります!」

「俺はこの一楽章も好きだけどね、二楽章のファゴットとピアノのかけ合いも好きなんだ。ファゴットの音質を巧く使った、あの天から降ってくるような音の動き。あの音がピアノの線に絡みつくみたいに、かけ合う感じがさ、好きだな」

 自分がファゴットを吹き、彼がピアノを弾いている舞台を想像した。

 身震いがした。

「一緒に演奏できたらいいね」

 ファンサービスでも良かった。そう言ってくれたキリストの言葉が忘れられず、信者は追いかけてきたのだった。

「一緒に演奏できます」

 故障でもしたのか、いつの間にか切れていた暖房のせいで、音楽棟の練習室はすっかり冷えてしまっていた。時計の針は十二時を回っている。悠はどばどばと流れる涙を止めることもできず、立ち上がり、恐る恐る結城に近付いていった。

「あなたが今回のラフ二を最後に遠くへ行ってしまうことはわかっています。あなたは絶対にスターになる。この冬、最初で最後、あなたと演奏できる」

「君、もしかして、俺と演奏するためだけにこの大学に来たの? この大学の管弦に?」

 愚問だった。

 

 例年より遥かにチケットのはけが良かったのは、選曲の影響もあるだろうが、最も大きな原因はやはりピアニストにあるようだった。結城はじめという名は音楽業界でもすでに知れ渡っていて、会場に座る人々の中には明らかに、メディアの人間や音楽の人間も混ざっていた。

 ホールの外では粉雪がしんしんと舞っていた。

 団員は舞台袖で静かに待機し、寒さと緊張で震えながら開演の時間を待っていた。団長や指揮者は団員一人一人に、特に演奏会を初めて経験する一年生に、励ましの声をかけてなんとか緊張をほぐそうと努めていた。

「悠ちゃん、大丈夫?」

 もつ煮先輩が声をかける。

 どちらかというと彼女のほうが緊張して見えた。

「大丈夫です」

 答え、悠は肩越しにそっとピアニストを振り返った。

 彼は普段通りの落ち着いた雰囲気で、それでも隠し切れないカリスマ性を纏いながら、黙々と準備をしていた。顔を上げ、ガラスに映った自分の姿を確かめながら前髪をちょいちょいといじったとき、悠と視線が絡んだ。

 結城はにっと微笑み、悠に向かって親指を立てた。

 悠は胸を押さえた。憧憬なのか、恋慕なのか、信仰なのか、なにものなのか正体のわからないこの熱は、この冬でちゃんと消えてくれるのだろうか。

「結城はじめさん、先に舞台へ」

 誘導係に声をかけられ、結城はついに眩いステージに向かって歩き出した。

「その後から、団員の皆さんも続いてください」

 結城の背中がスポットライトの光に包まれ、見えなくなった。

 悠も歩き出した。