【ひとこと日記2】

(2023/8~12)

 

 

 ポール・セリュジエ「雨傘をさした飴売り女」がどうしてもパッと見SIREN2の闇人に見えてしまう。

 

 

 ビーバドゥービーが奈良美智の作品を手にしており、いい夏。

 

 

 『ハートストッパー』シーズン2見終わったけどタオエルの可愛さほんっと……あそこで戻らず最高の友情のままというのも良いと思ったけど、エルのことを何度も「最高の女性」ときっぱり言うタオ、嬉しすぎて奇妙な小躍りを部屋でしてたらママに見つかって一緒に大喜びするタオ、散髪後が明らかにキュートで良いのにエルだけには不評だったタオ、いつもチャーリーの最高の親友でいてくれるタオ、全てがいい子すぎて本当によかった。ニコニコ。アイザックがアセクシャルの本をそっと取って抱きしめるシーンで泣きそうになった。アロマアセクキャラを描いてくれて嬉しいのと、でもアイザックというキャラクター像がザ・アロマアセクキャラのステレオタイプだからもっと羽ばたいてくれても…という気持ち。とにかく全体的に恋愛至上主義的すぎてウッ……となったのは事実だったので、s3ではアイザック中心にもうちょっとそのあたりへの理解があるといいです。

 

 主人公カップルがベッドに倒れたときさすがに「えっ、えっ? ハートストッパーでこの先を?!」と焦ったけど当然性的同意確認シーンが入りまだ心の準備が……と、とどまったので私の焦りもとどまった。それに比べてヤングロイヤルズは(またヤングロイヤルズの話してる

 

 

 ホソクさん(兵役中の推し)元気そうでよかった。日焼けしていた肌にものを考える。自分が参加したフィーチャリング曲が歌われているのにステージに上がれないこと、例年より強く「核抑止」論を批判した広島県知事、オッペンハイマーとバービーミームの炎上と米の対応、そもそもユンギさんが「ソロ」でワールドツアーをやったということ。全て繋がっている8月6日。

 

 

 自分の感情を信じたほうがいい、自分の感情の価値を認めたほうがいいし、自分の感情を理性でコントロールしすぎても危険である。

 

 

 シオラン『悪しき造物主』、出会えてよかった。新装版『生誕の災厄』をすぐに購入した。しばらくシオランを読み漁るターンになりそうだ。

 

 

 関東大震災時下での朝鮮人虐殺についての記事をたくさん読んで感情がとても重くなっている。松野官房長官や小池都知事に憤る九月始め。そんな中、推しが犬の保護フィルターへの支援を兵役中の今も継続的に行っていると目にして頭が上がらない。ここしばらく飲み会や遊びばかりの金曜日が続いていたので今夜はゆっくり本を読む。風が出てきた。秋の気配を一生懸命に探っている。

 

 

 “Your silence is deathening(あなたの沈黙は死を招く)”

 

 

 以前は「これを着ると痩せて見える」「これを履くと背が高くなっていい」と他人目線で判断して服を選んでいたけれど、「これを着ると心地良くて気張らずにいられる」「これを履くと筋肉が疲労しすぎなくていい」と自分基準に着たり履いたりするようになってから暮らしやすい。メイクもそうで、「肌を綺麗に見せなきゃ」より「肌が苦しいのは嫌」が勝つとファンデーションは塗らなくなるし、「この色だと好印象のはず」より「この色だとテンション上がる」になると好きなアイシャドウを選べる。この先も後者であり続けるために思考をやめず責任を負いたい。

 

 

 コロナの味覚異常、なんの味も感じないから適当でいいやと思ってお蕎麦を水とかで食べようとするとちゃんとまずいの何。

 

 

 アボット・ハンダーソン・セイヤーの誕生日か。「コーニッシュ岬」で心掴まれたけれど肖像画も好きだ。

 

 

 千葉雅也さんが言及されていた森博嗣『小説家という職業』を読んだ。千葉さんの発言を見てすぐ図書館で予約して昨日取りに行ったのだけど、絶対に同じこと考えてる人いるだろうと思ってウェブで見たらやっぱりもう次の予約が入っていた。すぐに返却します。か~なりおもしろかった。線引きたいので買います。

 

 

 最近見かけていいなと思ったもの。スーツ姿でカップ焼きそばを食べながら横断歩道を渡っていた人、庭先でデカめの口笛を吹きながら洗車していた人、ピアノリサイタル会場で興奮気味に「こんなに素敵な機会、来ない手はないわよね。とっても楽しかったわ」と小説の台詞のように美しく話していた人、タメ語で注文した客に対して「水はセルフだよー」と返していた店員。

 

 

 読みたい本がまだある、あの壁画をこの目で見るまで死ねない、見たい映画がまだある、あの景色に立たないことには死ねない、あの画家の絵に向き合うまで生きたい、あの作家が今執筆しているという短編を読まないと、なにより、私自身がもっとやりたいことがある。そんな執念だけで生きてる醜いいきものだよ。活力は怒り。「This hell is better with you」の誰かがいないと歩いてもゆけない無力ないきもの。そもそも力ってなんだと。

 

 

 『赤と白とロイヤルブルー』は想像より遥かにコメディ寄りのロマンスで楽しかった。評価を見ていたので王室の存在については触れないくらいなのかなと思っていたけどそんなことはなく。でも原作はもっと深く触れているらしい、気になる(天皇制を抱えている日本国民としてそこのスタンスは重要なので)。同性の恋人がいてバイであるとカミングアウトした息子をピザで祝い、二言目にはバイセクシュアルの不可視化に触れて性感染症予防を説いた米大統領にもっていかれた。サンキュー……。

 

 

 『ウーマントーキング』を見て胸が痛い。自然音だけの静かなエンドロールの最中ずっと涙が止まらなかった。文学に触れているときのような感覚になる映画で、忘れたくない言葉が丁寧に散りばめられていてワンシーンごとを反芻しなくてはいけない使命感と、深く見に覚えのある絶望と恐怖と、沸き立つような希望と。確実に今年出会えた映画作品のトップに入るが、直接的な暴力の描写はないもののかなり、かなり胸が痛い。きつい。だって私達はみんな毎日あの場で一緒に座って話してるから。人と、あるいは自分自身と。出会えてよかった。こんな作品を生み出してくれてありがとう。「悪い赦すもあるの?」「それは時に許可とも取られる」の会話や、赦しの誤用、去ることは逃げではなく前進であること、構造の視点。フェミニズムを勉強していて出会った「知った後には戻れない」という言葉が何度か頭をよぎった。語り手が少女であるという部分も意味がある。

 

 

 中山可穂『マラケシュ心中』を読み終わった直後の背中がべっとりと汗で滲むようなむさ苦しさとそのべっとりの中に血も混ざっているような重くむんとした罪悪感が忘れられない。死ぬみたいなセックスって愛なのかな。

 

 

 フレックス制で働き出してこれまでより一時間早く起きるようになってから、なぜか夢を見るようになってしまって結構きつい。もともと夢見が悪いので。泣きながら起きるなんてあまりにもよくあることだし、殺したり殺されたり落ちたり怒鳴ったりなにかの衝撃で心臓バクバクいわせながら起きるとかもよくあるし、フレックス制、それだけがいやだ(フレックス制自体に罪はなさすぎる)。

 

 

 ハマスホイが好きすぎて最近勉強しているが、彼に影響を与えたと言われるホイッスラーもよく見てみれば非常に惹かれるものがあり、好きな人の好きな人というのはやはり大体間違えない。だから私はまだ三島の『金閣寺』が読めていないのだが。

 

 

 「推し」という文化について、近年出ている文献とか研究を詳しく読んでいない状態で自分の経験からのみで考えると、私の記憶が間違っていなければ「推し」という言葉をよく聞くようになったのはAKBとかの大人数アイドルが流行し出した頃からで、そのたくさんいるメンバーのうち自分が最も他者に推薦したい人、という意味合いで「推しメンバー」略して「推しメン」が使われ出したような気がする。私は中学生の頃からグループのアイドル活動を応援していたこともあって、幼い頃もどこどこのグループの誰々が特に好き、という状態はあったけれど、それを「推しメンバー」と表現していた覚えはない(周囲の人も含めて)。いわゆる坂道グループが流行し始めてからその表現が広がった感触があるので、”グループメンバーのうちの推薦メンバー”という意味ではない「推し」という言葉を聞くようになった当初は使い方に違和感を覚えていたな。例えば「推しファッション」と好みを言い表したり、「最近の推しアプリ」とマイブームを言ったり、恋愛感情を持っているわけではないが憧れている先輩のことを「推し」と呼んだり、そういった表現には今でもピクリとくるものがある。

 以上の経験上、私にとって「推し」という言葉には、少なからずクオリティや好みや信頼を判断材料にした序列、勝負、他の人物との比較があるので、比較対象や単位がはっきりしていない場で「推し」という言葉を使われると違和感があるし、そもそも比較を想定していなかった場面で「推し」という言葉を使われると拒絶がある。自分で「推し」という言葉を使う場面でも、私の中で勝手に他者と他者を比較して勝手に「こっちの人のほうがなお"推せる"!」と優劣をつけている自覚があるので、多少慎重にこの表現を使っているし使う場面は選んでいる。逆に、例えば私生活で後輩に「あなたが推しです」などと言われると非常に警戒してしまう。だってそれはその人の中で私より劣ると判断された誰かがいるということだから……比較され評価されているという不本意な目線も恐怖だし、こちらはその自覚も覚悟もないのに消費されている気持ちになるし、その「評価」になぜかどこかで緊張して「この人を失望させたらこの人の中で私は”推し”ではなくなるのか」という持たなくていい不安も持ってしまう。まるで私という商品を品定めされ、存在理由に点数をつけられているような。

 

 

 「あ、共感とかじゃなくて。」展は、アイムヒアプロジェクトと渡辺篤さんを知ることができたのが一番よかった。ひきこもりという光の時代は私にも経験があり思うことが山ほどあり、当事者の写真を見てはつい"共感"する。太陽光の差すカーテン、正午前の時計、幼い柄のテーブルに並べたご飯、空き缶、今にも崩れそうな本の山、……今にも家族が階段を上ってくる足音が聞こえてきそうで。私はそこの空気を知っている(と認識してしまっている)。認識という行為そのものを疑ってかかる姿勢。

 

 

 昨夜一人で『バービー』を観に行ったものの、あまりにもよくできたザ・フェミニズム入門みたいなブチ上がり映画だったため今日は夫を誘って鑑賞。そのあとイタリアンを食べに行って爽快だったシーンをひとつひとつおさらいしながら笑って、いや~この映画、一体日本でどんな風に記憶されていくのだろうね?と。フェミニズムの基盤がある程度できているアメリカだからこそのヒットだとは思うが、初めてフェミニズムに触れますみたいな日本人にもわかりやすいコメディであり、もう9割皮肉やブラックジョークなんじゃ?というくらい笑えるし、映画館を出るときには自己認識を見つめ直して心が揺れる。この映画が発表される時代にたまたま生きていられた運の良さに感謝。でも、アジアンフェミニストのみんな、「手を取り合おう」ね。私達は疎外されたままでいい存在なんかじゃないからね。

 

 『バービー』冒頭の『2001年宇宙の旅』オマージュシーンの、主体性を持った女性であるバービー人形の台頭によりごっこ遊びの時点からすでにケアを一挙にさせられていたという気付きと怒りをもって赤ん坊人形を叩きつける、という描写は、あれのオマージュでなかったとしても納得のいく「過激さ」だと解釈していたが、なるほどリーン・イン・フェミニズムの視点だと専業主婦/職業女性という対立を生むとも取れるのか。私はあのシーン見てまずマーサ・ロスラー「キッチンの記号論理学」を思い浮かべた。キッチンに閉じ込められた女性の怒りや殺意は許されるべきだ。でも一方で家父長制を否定しながらキッチンに自ら立つという選択肢も許されるべきであって。学ぶことばかりだ。

 

 

 起き抜けしっかりめに家の掃除をして、コロナ明け二週間ぶりにジムに行ったが体力は落ちていなさそうでひとまず安心。久しぶりに前髪を作った。いつもお世話になっている美容師さんが夫のことを「夫さん」と呼んでくださり大変満足。今夜はレイトショーを見に行く。それまで図書館で予約していた本を読んで過ごす。

 

 

 幼くまだ実家にいた頃の夏は、雨がもっと柔らかく長く、襖を開けて扇風機の首を回しておけば昼寝も叶い、ご近所さんを呼んで庭で流しそうめんやかき氷を楽しむ余裕があった。気候的にも経済的にも今よりずっと穏やかであり、政治家もまだ表情があり、暮らしにもっと活気があった。見えていなかったものを含めてもそうかはわからないが、少なくともあの頃の雨は好きだった。

 

 

 仕事先などの他愛のない会話で「趣味は? へーどんな本読むの?」「最近なんの映画見た?」「好きな話題とか嫌いなものとかってあるの?」みたいなことを話すのが最高に面倒臭い。「今は山口智美さん斉藤正美さんの共著で津田さんのポリタスTV編の『宗教右派とフェミニズム』を読んでます」とか「最近は映画館でなら『バービー』、オンラインなら『ウーマントーキング』です。フェミニストとして必見と思いまして」とか「好きな話題は政治の話、嫌いなものは差別と暴力と家父長制です」なんて言ったらさらに面倒になりそうだし。

 

 

 政治の話をするのが好きだしスカートは一生履く気ない。

 女ってだけで何かを前提にして話振ってくんのやめろ。

 

 

 あんなに好きだった夏のことを今はただ早く終われと思っている。猛暑。からりとした肌涼しい早朝とラジオ体操、昼下がりの坂道に落ちる自転車をこぐ濃い影、冷やしすぎた図書館から見上げる白絵具の入道雲、柔らかくて静かな夕立ち、いじけた程度の雷、プールの授業のあとの眠気と消毒液のにおい、首をまわす扇風機と祖母の昼寝姿、夏夜の虫の声にかぶさる電車の音、……全部が懐かしい。平成の夏。

 

 

 戦争反対さえ声高に言えずなにが兵役悲しいだ。

 

 

 「自分に被害が及ぶか」という尺度でしか物事を判断できない大人は愚かだ。忖度しかできない大人はもっと愚かだ。

 

 

 三日ほど義理の両親が家に来ていた。義理の両親自体はとてもいい人で好きなのだけど、夜、弟に会って彼らを抱き締めて号泣しながら「愛してる」と繰り返す夢を見て、起きたら現実でもボロボロ涙を流していて、こりゃあ無理してるわ、と自分を労った。どんな形だろうと家族というものは私にとってセンシティブだ。前の晩、「人は死んだら1分間自分の人生の好きな瞬間に戻れる」という話を読んだりしたものだから、余計にそんな夢を見たのだと思う。私はきっと、これまでの人生のどこか好きな瞬間に戻れるとしたら、最後に弟達に会った日に戻って精一杯抱き締めて「愛してる」と繰り返すんだろう。自分の命より愛おしかったかわいい命。元気かな。どこにいるかな。楽に生きていてほしいな。

 

 夫には悪いけれどいくらいい人でも親戚が(もっと言ってしまえば結婚前まで赤の他人だった人が)自宅というセーフスペースにいるのは私にとってかなりストレスだ。夫でさえたまに一緒にいるのしんどくて外泊に逃げたりするのに、私。義理の両親の家に行くときもそうだけど、料理手伝えとか全然言わないしこっちに圧力もかけてこない立派な人でも、「家族」「親戚」という囲いに接するとどっと疲れる。緊張をおそらくずっとしている。なんなら何もしていないのに責められている気すらしている。それで今日なにもせずに一人で一日ボーッとしたりただ本読んだりしてたけど、こんな回復の時間すら、こういう生い立ちじゃない人にとってはきっと必要じゃないんだろうと思うと本当に悔しい。

 

 

 猫と鶏とよく知らない小さな鳥が同じところから同じ物を食べている。お金をもらっても店に物がないし店すら破壊されているので何も買えないという。この一ヶ月で親を亡くしたと途方に暮れる子どもを一体何人見ただろう。薬類がないので妊婦は麻酔を打たれずに帝王切開されているらしい。怪我の治療は床で。国連職員も、国境なき医師団の技師も、難民救済機関の職員も、報道陣も、みんな殺された。死体がクレーン車で運ばれていく。血まみれの赤ちゃんと母親の死体が転がっているボロボロの道路を、動画撮影者が自転車に乗って泣きながら走り抜けている。瓦礫から救出された子どもが自分の四肢の震えを不思議そうに見ている。水や食糧が積まれた人道支援トラックや救急車が狙って攻撃されている。今まさに民族浄化されている地区の少し離れたところでビーチで寛いでいる人々がいる。彼らはそこを更地にして、人も、インフラも、知も、文化も、なにもかもを存在しなかったことにしようとしている。

 こんなこと許されるはずない、この21世紀に起こりうるわけない、絶対に止まるはず。どうして終わらないの。どうしてこんなことが続き得るの。そう思いながらこのアジアの小国で現地の映像を見て、写真を見て、僅かな寄付をして、物資を送って、日本政府にこれ以上馬鹿なことをするな即時停戦をと意見をして、デモに参加して、署名をして、アメリカにどうかあれを止めてくれと意見をして、…それでも空爆に怯えずに夜眠れる。私がこの国で暮らしていることと、今殺された尊いあなたがパレスチナ・ガザに生まれたことはどちらもただの偶然で、私が殺されたかもしれないのに、どうしてこれはいつまでたっても終わらないのだろう。どうして終わらせられないの。人間だよね、私たちは?

 一体どのくらいの日本人がこの状況を理解しているのだろうか。周囲の危機感があまりにも薄く、驚く。友人、家族、職場、同期、旧友、趣味でのSNSアカウントと、様々な場所でこの話題を出してデモに誘ったり支援一緒にやろうと声をかけたり情報を拡散してくれと頼んだりしているけれど、どこもあまりにも関心や危機感が低い。ただでさえジェノサイドやそれを止められないことで深く傷付いて恐怖しているのに、あなたがたが一緒に闘ってくれないことにさらに失望する。もう見て見ぬふりは罪だし、見ようとしないのは加担になる状況になっている。お願いだから知ってくれ。どうか頼みますお願いだから、一緒に「誰も殺すな」と当然のことを声に出してくれ。

 

 静かに終焉を感じてすらいる。地球温暖化を始めとする環境破壊はもう手遅れだとの記事を読んだ夜の空気に似ている。ずっと「私のこの命があるうちは人類が終わることはないだろう(でもまあ一世紀後とかにはもう文明もないだろうな)」と思っていたけれど、終末は案外近いのかもしれない。こんなに世界中がリアルタイムで虐殺を見ていてあんなに各国が批判しているのに、止められない。歴史で勉強した民族浄化が今この時代で起きているのに止められない。きっとホロコーストもこうやって静かに始まって静かに終わったんだ。資本主義にのめり込んだ一部の人間が利己的な判断をしているせいで民がどんどん死んでいく。文化も消えていく。

 

 

 国会中継見てると本当ストレス溜まるけど山添拓さんの質問があるときは安心できるし国民のために前線で本気で戦ってくれてる人を見ると鼓舞される。

 

 

 先日、友人の結婚式に参列したあとにヘアスタイルもそのままにパレスチナ解放デモに参加してきたのだけど、デモ現地での熱気に参加することとSNSなどインターネット上のデモはやっぱり気持ちも体勢も違く、考えたことがたくさんあった。スタンディングしてるだけでも隣に実物の人間の仲間がいるという環境は心強くて。だけどデモは何度参加しても緊張する。通行人になにかしら不穏なことを言われるので。それでも誰が黙るかと誓いを新たにするだけだけどね。

 

 

 今日も雑音が酷い。絶望するし脱力する。

 

 だから今日もひとりで勉強をして本を読む。

 

 

 行った飲食店の店員さんに158cmくらいのハン・ソヒといった感じの人がいて一目惚れするところだった……どきどきした……本当にかわいくて……気持ちがふにゃふにゃした……

 

 

「そんなことより政治の話しようぜ。」

 

 

 『僕と幽霊が家族になった件』は、男性同士の婚姻(片方は死者)の話だけど主人公に最初かなりホモフォビアな部分があったりして注意が必要。最終的にはそれもなくなり、始終コメディな雰囲気なのもあってめでたしめでたしで見られる。あと職場で女性をアイキャッチに使うことに抗ったり、与えられる仕事量の差に不満をぶちまける女性警官が出てきてラストの彼女がかっけーので痛快ではあった。

 

 

 以前は「これを着ると痩せて見える」「これを履くと背が高くなっていい」と他人目線で判断して服を選んでいたけれど、「これを着ると心地良くて気張らずにいられる」「これを履くと筋肉が疲労しすぎなくていい」と自分基準に着たり履いたりするようになってから暮らしやすい。メイクもそうで、「肌を綺麗に見せなきゃ」より「肌が苦しいのは嫌」が勝つとファンデーションは塗らなくなるし、「この色だと好印象のはず」より「この色だとテンション上がる」になると好きなアイシャドウを選べる。この先も後者であり続けるために思考をやめず責任を負いたい。

 

 

 何を考えていても結局「資本主義のせいじゃん」に帰結する。

 

 

 日頃、人に(特にマジョリティ層に)差別問題を投げかける発言をしたとき、こっちは構造の話をしているのに個人の話に矮小化した返答が返されるということがあまりにも多い。差別は社会構造の問題であるという事実自体がこの国には広まっていなくて、「あなたの問題」「私の問題」「誰かと誰かの問題」になってしまう。この問題に向き合うときに一度ミクロな視点を取り除いてマクロな目で考えてみると一気に視野が広がるのだけど、そこにたどり着くまでの道のりが長いのだろう。ただ生きているだけで当然に差別が発生する構造の社会にいるからこそ。希望は「知ったあとには戻れない」ということ。この社会の正体に気付く人をひとりでも多くすることが、差別問題を解決する糸口になることは確信的だ。

 

 

 川上未映子「知らないことを知って、楽しさや面白さの解像度が上がることもあれば、苦しみや悲しみの解像度が上がることもありますからね。だから私は昔から、読書は、なにかしらの覚悟のいるものだという気持ちを持っています。

 

 

 朱喜哲『公正を乗りこなす』を読んで「正義と善は別物」という認識を得てから社会問題のみでなくフィクションに向き合うときにもこの観点が活きて、構造が明瞭化した気配がある。

 

 

 はあ……ていうか、絶対に手に入れようと思ってたジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復』をしばらく前に買ったのだけど、大切に読もうという気持ちが、大切に読ませていただこうというあったかい心が強くて今はただ飾ってある。本って、買った、手元に今あるという事実だけで心をホクホクさせてくれる。本大好き。しくしく。

 

 

 K-BOOKフェスティバルは『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』著者のファン・ボルム氏の講演に間に合うように行ったのだけど、本当に素敵な方だった。後半のよく休むというテーマについて、「よく休むとは、自分と向き合って自分のことに鈍くならないこと」と仰っていた。「絶えず変化する社会の中で柔軟であること、世界や自分自身の変化を注意深く見つめていくこと」。

 肩が痛むくらい本たくさん買って、ずっと欲しかった本はもちろん初めて出会った本もいっぱい、すごくすごく楽しくて幸せでホクホクしていた。サインもいただけたし、本だけでなくお菓子とかお茶も楽しめて、なにより韓国からいらした書店さんの韓国語が~! ほんの若干は聞き取れたけどまあわからなくて翻訳者さん頼りに感想を伝えて、とにかく好きなものに囲まれる空間は居心地が良くて帰り道も背中の重さとともに幸せを噛みしめてマスクの下でニッコニコしていた。最近社会情勢やバンタン周囲の諸々で気分が沈んでいたから久しぶりにこんなにあたたかな気持ちになれた。来年も絶対に行く。

 

 K-BOOKフェスティバルでの購入品を着々と読み進めているけれども、なんなのだろうこの、韓国クィア文学特有の足を掬うような絶望感と染みてくる優しさ、そしてそこに必ずある闘志にも似た凛々しい自分をたたえる女の姿は。

 

 

 アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)は非常にきつく、アジア全域に広がる「慰安所」マップを見て力が抜けてしまって椅子で涙を流した。地図で改めて見ると多すぎる、あまりにも多すぎる。それに日本軍による性暴力被害者はアジアの領域にとどまらずオランダの女性もいて、絶句(歴史を踏まえて考えてみればそりゃそうなのにそこまで考えが及ばなかった自分にも呆れた)。世界では法で裁かれているものが日本では然るべき処分を免れていて(というか逃げていると言っても過度な表現ではない)、怒りもこみ上げてきたし、悲しくもなり、証言者の方々の顔をまっすぐ見て本当に辛かったでしょう、そこはどんなに地獄だったことかと思って苦しかった。元日本軍の男性達による加害者側としての証言もあり、彼らも加害の歴史を語り継ぐ活動をしていると知った。閉館ぎりぎりまで居てしっかり読ませていただいた。館の方が「私達はこれを次世代に継承していく義務があるから、若い方が来てくれると嬉しいし安心する」と仰っていたし、私個人としてもそう思うから、後輩や友人にも勧めていかないと。私達がもっと勉強しないと。

 

 

 今日仕事でたまたま韓国語の言葉が議題に上がった場面があって、パッと画面に映ったハングルをたまたま声に出して読んでみたらたまたま読めてしまって、すごいね韓国語できるの? みたいな空気になってしまったんだけど本当にたまたま読める言葉だっただけで、でもとても嬉しくてテレテレ。

 

 

 今年のMAMAはホソクさんもバンタンもいないからあまり熱意を持って追ってはいなかったけどアイドゥルのステージは見たし出だしソヨンが「女が世界を支配してるってこと、私達が教えてあげる」って叫んでて最高だったし、ライブ中に客にFワードをしっかり練習させて叫ばせるパッションと同じようにMAMA会場の人間に「I’m a Queen Card!」と連発させていて世界一熱かった。

 

 

 ハマスホイ×バッハアレクセイ・ザハロフさんという方が制作した動画らしいけれども、普段ハマスホイの作品を愛して一枚の絵に何分もじっと見入っている身としては、イーダの背中が躍動的に動いていることに非常に慄いてしまった。不思議な感覚。私はハマスホイの室内画に向き合うとき、自分の体ごとその場に入るような感覚で、画中の人物やハマスホイ自身と共に孤独と憂いを体験しようとしているのだけど、それは絵画の中に時間の流動が閉じ込められているからこそできることなのだと実感した。私にとってのイーダはピアノを生き生きと弾いたりしない。いつも「過去のあるシーンの人」として呆然と立っていたり、座ってどこかを眺めていたり、手紙に目を落として佇んでいたりするだけだから、その姿に三次元を適用させると恐怖すら覚える。この感覚は不思議だ……。もしかしたら私は普段、ハマスホイの視点と自分を一体化させることで彼の絵画に引き込まれているのかもしれないな。

 

 

 これだけのことが今起きているのにパレスチナやイスラエル、日本政府に関して一切発言しない人はさすがに信頼に値しない。というようなことを書き込むと「他人の一部だけを見て何も言わない奴だと判断するな」とか「事情があって言えない場合もあるだろ」という返しがつくけれど、もうそんな状況ではないと思う。知らないところで人知れず権力を批判してるかもとか、精神的に参ってしまって何も言えないのかもとか、それは理解できるし確かに自分の心や体を壊してまで声を上げろとは言わないし、意思表示しないことがイコール何も考えていないとは思わないし、意思表示にも多様な形があるけれども、もう世界がここまでの惨状になっているのに何も触れないでいる人を見ると恐怖。あれを見てどうして何もせずにいられる? もう何かの事情を鑑みて「虐殺やめろと言えなくても仕方ないな」と落ち着ける次元を超えているくらいには、日本人は何も言わなすぎるぞ。異常だ。皆それぞれ自分の生活が忙しい中で批判したりなんだり行動をしていて、あるいはしていなくて、様々な事情が当然あるけれども、もうさすがにその無関心と無知を省みて沈黙を破らないと取り返しがつかなくなる。

 

 もう子どもの死体を見たくない。動物の餓死した姿も、血まみれの赤ちゃんも、破壊された図書館も、蝋みたいな顔色をした我が子にキスする親も、虐殺している市民をゲーム感覚で傷つけて侮辱して殺す軍人も、瓦礫も、全てを止められない世界も。

 

 こうやって疲れたなあとか言って温かいもの飲みながら本を読んでいられるのも特権と偶然なのに。私はこの罪悪感をしっかり噛み締めないといけない。G7の国に住むマジョリティとして。

 

 

 「思想が強い」「顔がいい」「人権がない」みたいな言葉ってこうして引用として打つだけでもゾッとするものがあるけど、なんの疑問もなく使っている人は当然の用法としてそれらを口にしてるんだから怖い。最後のものとか特に、なんでそんな使い方ができるの。

 

 

 今年は4回務川さんのコンサートやリサイタルに行って演奏を拝聴したけれど、今日の「暗く」「内向的」な最強のプログラムはまるで私のために編まれたかのように水の如くじんわりと身に沁みた。Bプログラムの日を選んで大成功。しかしなぜか今夜は務川さんの演奏が大きな流れのようで、いつもはどちらかというと降ってくるような印象なのだけど、私の変化なのか今日は楽曲に生命力を感じて音がひとつひとつ意思を持って能動的に物語を伝えてくる、情景を見せてくるようで、具体的に音楽とその背景を楽しめた。特にシューマンとショパンが感激したけど、最後のラフマニノフは終わりの二つの音でぐっと泣きそうになり……半生に膝を折るまさに「虚無」。やはり浜離宮朝日ホールはいいホール。昨年は二階席で聴いていたけど今年は一階席でより当事者性が増したというか、一緒に流れに飲まれるような感覚になれて素晴らしかった。

 

 

 大巻伸嗣展も当然よかったけど出光美術館が予想に反してかなり滲みたな~?! やきものはある意味私のルーツなので親近感もあったし、アジア各国にとって憧れの中国青磁、歴史になにかこう我が物のような惹きつけられるものを感じる。

 

 

 存在するとはいかなることかを考える姿勢と世界の終わりに焦がれる目線は似ている。

 

 

 アイムヒアプロジェクト「私はフリーハグが嫌い」も小展示があったので見てきたけれど、「あ、共感とかじゃなくて。」展でも感じた重い同調は、私にとって扉は渡辺篤さんの仰る「わからない向こう側がある象徴」というよりも、知っているまだ痛い風景なのだと理解している。解決すべき社会的問題だとは確かに思うけれど、それと当事者の頃に感じていた煌めく"自由"はおそらく並立するものなのだ。なにかこう昇華できないかな。あの時代の私は確かにハイだったんだよな。

 

 

 アートに触れる時間は、作品の裏側にある作者の意と歴史・文化を見つめながら自分自身に向き合うもの。

 

 

 邦ドラマ『ブラッシュアップライフ』、ネトフリで公開になったので見た。始終女が女のために奮闘する話でよかった。基本コメディスタイルでも主旨はしっかりしていて気持ちの良い進行で、演者の演技も自然でよい(めちゃくちゃ久しぶりに日本人俳優の演技を見たけれどこれはみなさんとても良かった)。ただ、全体的に非常に易しいつくりにして伸ばしている印象を受けたけどこの作品の色なのかな。もっとスパスパ切って回想飛ばしても視聴者は理解すると思うけど、そうでない層を想定して易しくしたのかな。

 

 

 『swallow』、予期せぬフェミニズム映画で驚いた。映像美。しかし心を病む人間は必ず家庭環境に問題があるというフィクションあるあるの繋ぎ、どうにかならないのか。健全な家庭で育った人だって心を病んでしまうこともあるだろう。

 

 

 どうしよう本当に好き。この人より先に死にたくない。この人の行くすえを終わりまで見ていたい。どうか一秒一秒楽で、健康で、幸福であってほしい、雨は降らないで耳もよく聞こえて、自然と出るほうの笑顔でいっぱいでいてほしい、近くに落ち着ける誰かがいてほしい。久しぶりに動いてるとこ見たらやっぱりそっか最後の推しなんだ、全然違うもん他の人を見ているときと。年越しの瞬間にNYのど真ん中で差別偏見を批判して平等を歌う曲を披露する推し。

 

 jhope「勝利よりも真実、成功よりも自分自身の中の光に満足すること」