私は夜道を急いでいた。

 今日は一歳になる娘の誕生日だった。課長が白い目で見てくる視線を避けながら、残業をいつもより早く上がってきた帰路、自宅で待つ妻と娘の笑顔を思い浮かべながら、ひたすらに歩いていた。気付けば競歩のような速度になっていた。

 乗り込んだ電車から降りた時には雨はすっかり上がっており、湿気で重い空気をかき分けかき分け、住宅街の家々の間を縫うように歩いた。一瞬、カレーのにおいが鼻をかすめる。街灯の明かりは今にも消えそうだった。夜道に響く自分の靴音だけが、その空間で動いている。

 角を曲がると、左手にある公園からブランコの軋む音が聞こえ、心臓が変に歪んだ。なにも驚くことはない。夜にだって公園で遊ぶ家族があっておかしくない。現に、私の妻も、夜泣きをやめない娘を連れて近所の公園へ歩くことはたまにある。

 通り過ぎながら公園を窺い、ブランコのほうを確認すると、そこにいた誰かはもうそこには座っておらず、ブランコの揺れだけが残されていた。

 妙に気にかかり、公園の周りを囲む柵から中を覗き込んでみた。誰もいない。しかし、ブランコの付近に犬ほどの大きさの物体が転がっているのがうっすら見え、目を凝らした。地面は黒いペンキのような液体でべっとりと濡れていた。

 あれはなんだ? 動物の死骸だとしたら、役所に知らせたほうがいいかもしれない。

 しかしよくよく見ると、子どものようにも見える。家出でもした子どもが、夜中の公園で水遊びでもしているのか? だとしたら警察に――

「おじさん」

 今度こそ心臓が潰れたかと思った。ぎょっとして振り返ると、すぐ後ろに少年、いや青年がひとり立っており、こちらを覗き込むように微笑んでいた。

 年齢ははたちほどだろうか。しかし、小さな子どものような笑顔だった。

 そして、そこでやっと、月明かりのような金白色の髪と、南国の沖のような蒼い瞳に遅れて気付いた。彼は人形のような顔立ちをしていた。影ができそうなほど長い睫毛まで金色だ。スッと通った鼻筋は嫌でも欧米人を彷彿させる。"ハーフ"か、と、ぼんやり思った。

「こんばんは、おじさん。仕事帰り?」

「あ、あぁ……。びっくりした。こんばんは」

「こんばんは」

 これまた驚いたことに、青年はスーツを着ていた。真っ黒なジャケットに真っ黒なネクタイ。葬式にでも出ていたのだろうか。

「この辺りはずいぶん静かだね。日中はもっと静かだったけど。みんな昼間は都心へ働きに出てるの?」

「まあ、そうだね、そういった人が多いかな……ここはベッドタウンだから」

「ベッドタウン? あぁ、bedroom townのこと?」

 青年は口角を上げたままため息をついた。

「日本は変わらないなあ」

 やはり"ハーフ"か。そう意識して聞いてみれば、喋る日本語も少し特徴的なイントネーションだ。

 娘の誕生日の件を思い出し、そろそろ帰らなくてはと考えていると、青年が不意に公園の反対側に伸びる道の方向へ顔を向け、顔をほころばせた。先程の笑顔とは全く違う妖しい色気を含んだ笑み姿に、変に戸惑った。視線の先を見ると誰かがこちらへ歩いて来る。

「アヤ」

 暗がりから、街灯にぼんやり照らされた輪郭のはっきりしない姿が現れた。アヤと呼ばれたその彼も、真っ黒なスーツに身を包んでいた。

 アヤは先だっての青年とは正反対で、黒髪を夜風になびかせていた。よく見ると何か大きく重そうな物体を片手に引きずっている。その重さのせいなのか、元の彼の性格のせいなのか、常に柔らかい顔つきをしている金髪の青年とは裏腹に、アヤは感情がないような無表情をしていた。表情のレパートリーが少ないタイプなのかもしれない。

「誰こいつ」と向けられた目は蒼く深く、二人とも同じ色をしていた。容姿は瓜二つだった。髪色と表情を除けば、鏡のようだ。

 双子か。一卵性双生児。

「どうしたのその死体。置いてくればよかったじゃん」

 金髪のほうの青年が言った。アヤは引きずっている物体を見下ろし、言う。

「夕飯になるだろ、あいつの」

「あーなるほど。でもあいつ日本人も食べんの?」

「人種で好き嫌いなんかするか? 何でも食うだろ。知らねーけど」

「俺も知ーらない。綾人がちゃんと処分してよ」

 目の前の双子が何を喋っているのか理解できなかった。

 直感的に嫌な胸騒ぎを感じ、その場を後にしようとすると、アヤの首が急にぐりんとこちらを向いた。感情がなかった目が威圧してくる。それは今や、猛禽類の獰猛な色をしていた。

「奏人」

 綾人の声に応え、奏人が一瞬だけ身を動かした。

 痛みは感じなかった。いつの間に、どのような手法でやられたのかもわからない。何かを思う隙もなかった。

 閉じゆく視界で双子が嗤う。

「ごめんねおじさん、目撃者は共犯も同然だから。娘さん、ハッピーバースデー」

 そうして私は死んだ。

 

 *

 

 バーンと、爆発音のような音で開けられた扉の音で目が覚めた。

「双子!」

 昼過ぎまで寝ている双子を起こしに来た葵は不機嫌だった。寮の中でのみかけている眼鏡がずれるほど憤慨している。

「起きろ!」

 葵はバッとかけ布団を剥ぎ、双子のベッドを踵で蹴った。奏人がくもった唸り声を上げる。

「なに葵……時差ぼけで眠いんだよ、許して」

「今、本部から指摘があった。馬鹿正直に報告上げやがって、昨夜また無駄な死人を出したらしいな」

「無駄な死人?」

 奏人は寝ぼけまなこで、横になったまま逆さまに葵を見上げた。綾人は隣でまだ寝ている。

「あぁ、あのおじさんのこと? 無駄じゃないよ、目撃者だし」

「それが無駄だっつってんだよ。目撃者を出すな。何度言えばわかるんだ? 対象以外を殺すな」

 葵は大きくため息をついた。

「お前らが本部で好き勝手派手にやってる話は聞いてたが、頼むから日本(ここ)では大人しくしててくれ。またお前らと組めるのは普通に嬉しいんだよ、俺らは。ただ、お前らはどうだか知らねえがこっちには上昇志向がある。真面目にやってる恵のことも考えろよ」

 はいはい、とからかい半分に奏人が言い、踊るようにベッドから立ち上がった。慣れたものだが説教はごめんのようで、談話室へと逃げて行った。

 葵はもう一度ため息した。すると、背後でごそごそとシーツの擦れる音が立ち、振り返ると綾人がやっと身を起こしていた。

「おはよ」

「おはよ、じゃねーよ。もう昼飯だぞ」

 ぼんやりとした顔は寝起きでも日中でも変化なく見える。奏人と同じ顔の造形をしているのにこうも表情が違うと、いっそ面白くもあった。

「帰国早々、弟に暴走させるのはやめてくれ」

「あぁ、昨日の?」

 綾人はぽりぽりと後頭部を掻いた。

「ごめん」

 素直に謝罪する綾人に、葵はつい舌を巻いた。

 そうだった、思い出した。この双子にはこういうところがあった。

 綾人は、葵が見てみぬふりをしていた床に転がっている使用済みのコンドームを踏みつけ、立ち上がった。破れ、床が汚れた。葵はあからさまに顔をしかめる。綾人が伸びをすると割れた腹筋が見えた。傷痕も窺えた。

 双子が本部から日本支部にやって来て数日が経った。二人の部屋はまだ私物が少なくこざっぱりとしているが、あちこちに二人の性格が見え隠れしていた。第一、この寮は基本的に個人にひとつずつ部屋が与えられるのに、わざわざ二人でひとつの部屋にしている時点で双子の関係性がよくわかるようなものだ。

 昔からそうだった。双子との初対面を思い出しそうになり、慌ててかぶりを振った。

 葵は部屋の入口に寄りかかり、腕を組んだ。そして呟く。

「変わらねえな、お前らは」

 綾人は窓のそばにある小振りな洗面台で顔を洗っていたので、葵の話を聞いているか怪しかったが、顔を上げて清潔なタオルで顔面を包みながら葵を振り返ると、「何が」と低く唸った。

 葵は特に答えない。

 綾人と葵は気性の似ているところがある。口数は少なくても居心地の良い二人でもあった。

 談話室に向かうと、食欲を誘うような香ばしいにおいがそこらじゅうに充満していた。この談話室はひと通りの休憩や団欒ができる部屋で、四人それぞれの個室に直通している。実質、四人の共同部屋であり、寮はレストランや食堂も充実しているが、食事は大体この部屋で済ませてしまうことが多かった。

 部屋の中心にでんと配置してある深い色味のテーブルには、奏人が行儀も悪く椅子の上に膝を立てて座り、朝食兼昼食のパスタを頬張っていた。向かいには恵(けい)が、こちらは行儀良く落ち着いて座り、同じくカルボナーラを食べていた。

 やって来た葵と綾人に気付くとにっこり微笑み、「ふたりの分もあるよ」と声をかけた。

 葵は迷わず恵の隣に座った。見ると、奏人は新聞に目を通していた。目玉が高速で縦へ横へ動いている。

「腹減ってないからやる」

 綾人は奏人の隣に腰を下ろすと、目の前に用意してあった料理を皿ごと奏人のほうへ押しやった。奏人は嬉しそうにおかわりした。

 恵はそんな双子のやり取りを穏やかな表情で眺めた。彼は童顔で、幼児を見守る母親のような顔つきをよく双子に向けるが、こう見えてここでは群を抜いた優等生だった。将来はここに集う者の指導者になるとまで言われている。

「もう仕事きてんのか、恵」

 葵が話を振ると、恵はしばらくもぐもぐし口の中のものを飲み込んでから、言った。

「うん、それぞれに」

 恵は双子のほうにも向いた。

 仕事は基本的に、二人一組のペアでこなすことが多かった。「先生」から仕事の命令がくる場合は、このペアにこの仕事、といったように割り振られる。稀にペアとペアを合わせ四人態勢で挑むこともあったが、その場合は寮で同じ談話室に分けられているグループで行動させられる。

 仕事とは何か。寮とは何か。ペアとは、グループとは。そもそもここはどこなのか、何かのか。

 一般的に、普通に生活している人間は、生涯関わることのない世界だ。血と暴力、そしてヒトの汚い情で塗れた世界。そこには常識など通用しない。同情も、慈愛もない。

 学校に例えると最も近いだろうか。

 名前を付けるなら、殺人学校、とでも表すか。

 彼らの属するここは、公にできないような人物を暗に殺人する仕事を、政府(と言っていいのだろうか)から任せられている組織だった。本部は英国にあり、表向きは身寄りのない孤児を教育する政府直下の施設だが、夜間になると授業とは名ばかりの生徒達による殺人が執行される。

 実際に組織に所属しているのは、上層部の大人達を除くとそこまで多くはない。みなが大抵、十代から二十代後半だ。日本支部には二十人弱ほどしか人数がいないので、出張の範囲は北海道から沖縄まで、どこにでも及ぶ。組織に加入できるのは任命された者のみで、志願して加入することは基本的に不可能だ。互いの行動の監視などの目的も含め、原則行動はペアで行う。寮での部屋もペアは離れず、ペアとペアの四人行動をすることもあった。

 執行した殺人は政府からの口封じが働くので報道は動かない。殺人現場の後始末や処理は、その地元の警察や役人が行う決まりだった。

 つまりここは、「殺人」という汚れ仕事のみを行う組織だ。

 みな、辺りが暗闇に支配される時間帯になると、動き出す。

「今日こそ余計な殺しはするなよ、奏人」

「えーなにそれ、綾人にも言ってよ」

「まあまあ、今日も無事に頑張ろうね。皆」

 綾人は自分の胸元に手を突っ込み、そこに小型の銃が確かに備えてあることを確認した。冷たい凶器。安心する感触だった。

 奏人を呼ぶと、ちょうど食べ終えた食器をテーブルの奥へ押しやっているところで、そのまま連れ立って個部屋へと戻った。

「葵、お母さんみたいじゃない? 小言ばっかりでさあ」

 後ろ手に部屋の扉を閉めながら奏人が言うと、綾人のほうは黙ってじっと弟を見やった。奏人はわかっていたように笑い、続ける。

「だってそうだろ、”お母さん”みたいじゃないか」

「葵も恵も変わらないな」

「そうだね」

 綾人と奏人、そして恵と葵は、それぞれ以前からペアで行動しているが、昔まだみなが幼かった頃に本部で一緒だった時期があった。双子が加入した先に、恵と葵がいたのだ。それからしばらく、ある程度ものが分かるようになる時期まで、共に身寄りのない孤児同士本部の中の施設で育った。成長し、仕事を任せられるようになってからも、何度か共同で任務を遂行したこともあったが、その後恵と葵は母国へ帰国し日本支部で働いていた。

 四人は幼なじみのようなものだった。

 今回、双子が日本へ来たことにより、再会を果たしたのだった。

「俺らも変わってないけど」

 綾人がこぼすように言うと、奏人はそれを落とさずに拾った。

「まあね、変わってないけど。変わったこともあるよ」

 確かに、と、綾人は思った。