燦爛たる名

 彼は異国的な顔立ちをしており、手足が細くて長いので、西洋人、もしくはその血の混ざった青年に見えなくもない。でも僕には、彼が普段日本に住む人であることが一目でわかった。重い黒の髪はふわふわに根元から遊んでいるが、あれはパーマだろうし、彫りの深い鼻立ちやしっかりとした睫毛ではごまかせないほど、彼の英語はたどたどしい。おまけに日本語訛りがあったし、単語と単語の間に「えーと」とか「あー」とかを挟んでいたので、普段は日本語話者であることがよくわかった。

 僕と両親と兄夫婦が二週間の予定でこの国のリゾート地に滞在して、四日目になる。ちょうど三日前に彼をこのプライベートビーチで見つけてから、映画『ベニスに死す』のタッジオと出会ったような心持ちでずっといる。もしかしたら僕もグスタフ・フォン・アッシェンバッハのように、彼を眺めながら死ぬかもしれない。それくらい、彼は途方もない芸術だった。

 あまりにも美しすぎるものを見ると、人間は戸惑う。AIで生成された息を飲むように綺麗な笑顔を見るとき、うまく作られすぎているがゆえの違和感を覚えて不安になるように、彼を最初に見かけた瞬間はぎょっとしたものだ。

「またあの子を見てるの?」

 隣のデッキチェアーに横になって本を読んでいた兄が、声をかけてきた。こちらには目を向けず、ページをぱらりとめくる音だけを伸ばしてくる。

「きっと日本人だよ。話しかけてみたらどうだい」

 三晩も連続で彼の話をしている僕を、兄は愉快に思ったのかもしれない。

 僕は立ち上がった。麻のボディタオルで健康的な小麦色の肌から潮水を拭く彼を目指して、驚かさないようゆっくり歩を進める。

 

 *

 

「暁央」

「……んー」

「おばあちゃんと一緒にパンケーキ食べに行くけど、暁央も来る?」

「……。いい」

「そう。わかった」

「……」

「そうやっていつまでもじっと座ってないで、何か動いたりしゃべったりしなさいね」

「……」

 母が建物の中に引っ込む音が聞こえてくるまで、暁央は、木製のイーゼルを前に腕を組んで固まっていた。

 キャンバスはまだ真っ白だった。口に咥えていた鉛筆を取り、近くの椅子に置く。やがて母が祖母と妹を引き連れて道へ出て行った気配がして、暁央は肩の力を抜いた。雑音のないひとりの空間は芯まで居心地が良かった。頭上でゆっくり回るファンからの微風に煽られて、無造作にパーマをかけた重い黒髪が揺れた。テラスには潮風も舞い込んでくる。

 不意に、やあ、と声がかかった。

 暁央は顔を上げた。数メートル先、海岸に沿って建つヴィラと浜辺を繋いでいる、胸元ほどまでしかない低い扉の上から、凜々しい男性の顔が眩しそうにこちらを覗いていた。

「入ってもいい?」

 と、人好きのする笑顔を向けてくる。

 彼の名前が淳だと知ったのは、昨日の朝のことだった。ビーチで、第一声、日本語で「日本の方ですか?」と聞かれたのだ。

 ここは、一棟貸し戸建てタイプのリゾートヴィラが六棟連なっている宿泊施設で、徒歩圏内にあるホテルが経営しているヴィラルームだ。

 平屋の建物には、リビングの開けた大窓からそのまま出入りできるテラスと、その先にガーデンがあり、そこには涼しげな木製のダイニングテーブルやソファー、プライベートプールなどが設備されている。一棟ごとの仕切りにはヤシの木や薄い木材の塀が建てられている程度だが、いかんせん広いので、隣の宿泊客の様子などはさほど気にならない。

 ゆるい曲線を描いて六つの屋根が並ぶヴィラ群の敷地の一角には、宿泊客のみが利用できる共用のプライベートビーチがあった。外の砂浜とは敷居が隔てられてあり、客ではない人がうっかり迷い込んでしまうことを未然に防いでいる。白い砂とコンクリートで埋められたヴィラの敷地のちょうど間くらいには小屋が建っていて、無料でレンタルできる浮き輪やサーフボードが並べられている。そこから少し距離を置いた傍には、パラソル付きのベンチや薄いカーテンが垂れ下がった簡易ベッドまで準備されていて、ビーチでの時間を謳歌するには何不自由ない環境が整っていた。色調も注意深く計算されていて、風景の邪魔をしないよう、備品の全てが布の白色と木の明るい茶色で統一されていた。

 それぞれの棟のガーデンとプライベートビーチは、塀一枚のみの隔たりになっているが、そこさえくぐればどの棟へも自由に行き来できるようになっている。声をかけてきた男性、淳は、塀越しに暁央の姿を見つけると声をかけ、ジェスチャーで入ってもいいか聞いてきた。暁央が仕方なく了承の合図をすると、彼は遠慮なく中へやって来た。

 昨日の朝、彼に「日本の方ですか?」と問われた暁央は、ずんぐり頷いた。頬に貼りついた海岸の砂が落ちていく感覚がした。

 淳は、自分の名は江国淳だと名乗ってきたので、暁央も、自分の名は江国暁央だと自己紹介した。日本に江国という苗字を持つ者がどのくらいいるのかは知らない。ただ、これまでの人生経験の中で、自分と同じ江国という苗字の誰かに会った経験はおそらく皆無だ。だから異国の地で自分と同じ名字を名乗る同胞と出会うなんて、ちょっぴり驚いた。

 どうやらそれは淳も同じようだった。へえ、こんなところで同じ江国さんに会うなんて変な感じだなあ、奇遇ですねえ、なんて言ってふにゃふにゃ笑っていた。

 そして続けて言ったのだ。

「学生さんですか? 長期休み中?」

「いや、……はい、まああの、春休みってやつです」

「へえ、いいね。僕は会社の有給を使って遊びに来てるんだ」

 暁央は黙った。

 淳は構わず続けた。

「君はここに来て長いの?」

「一週間くらい? です。もう二週間いる予定です」

「長いんだね。ゆっくりできていいね。誰と来てるの?」

「家族と来てます」

「家族旅行? 僕も同じ。両親と兄夫婦と一緒に、旅行に来てるんだ。三日前に来たけど、もう飽きちゃったな」

 と、軽く笑う。

「君はここで何して過ごしてるの?」

「何って……、ゆっくりしたり、海に入ったり、絵を描いたり、色々です」

「絵を描くの? すごいね。それって、」

 そのとき淳を呼ぶ若い女性の声がかかった。彼は「義姉さんだ」と呟いた。

 そうして彼は、

「またあとでね」

 と残し、手を振って去って行った。

「……」

 押しかけてきてはさっさと去っていった淳の背中を見届けてから、暁央は首をゆっくりと回して正面に向き直り、手元のボディタオルに視線を落とした。

 淳は社会人のようなことを話していたが、年齢でいうと暁央とそう離れていないように見えた。暁央より年上なのは確実だろうが、二十代後半か、せいぜい三十代前半くらいだろう。言葉も態度も軽い。本気で言っているのか冗談を言っているのかよくわからない、絶妙な距離感で話す人だと思った。顔の前に薄い防御壁ができる。

 暁央は、冗談が上手な人に苦手意識があった。自分はうまく冗談を受け取ることができる器用さに恵まれていないと感じるからだ。他人の冗談を本気に取ってしまって傷付いたことが、何度もある。冗談以前に、普通に話すことだって得意ではないのに。だったら黙っていたほうがいい。だったら誰ともしゃべらないでいたほうがいい。

 ……。

 彼との初対面はそんな風にあっさり終わったが、その晩、ヴィラ近くのホテルのレストランで彼とその家族に鉢合わせたので、お互いに距離のあるところから手を挙げて挨拶をした。これで知り合いができたというわけだ。暁央はまだ不器用にしか笑えない。

 淳は、すれ違った誰もが目を奪われるであろう容姿を持っていた。何か普通名詞を使って例えるなら「王子様」だ。すらりと高い細身の上に、器用に小さな顔が乗っていて、全身から常に上品な空気を放っている。立っているだけで海から風がさやさやと吹き、艶のある黒髪が奥二重の目を撫でて、薄い唇がきゅっと微笑む、その様子が絵になるような人だったが、ファッションセンスが良いかと言われると唸ってしまうものがあり、彼はなぜか派手なピンク色のシャツや蛍光色の帽子や、よくわからないシルエットの服などを好んで身に着けていた。

 ヴィラの清掃をしてくれる従業員はジョーク半分に、淳さんはどうしてダサい服しか着ないんですか、ジャケットでも着たらまさに王子様でしょうに、などと笑っていた。ここには、彼のような人は他にいないのだ。大抵がいかにもお金がありますといった調子の宝石を纏った高齢夫婦だから、若めの雰囲気で、身なりを気にしない人間は彼の他に全く見かけなかった。

 だから彼は目立った。しかし彼自身は、自分の突拍子もない服装に注目が集まっていようと気にする素振りを全く見せず、いつ見かけても飄々と歩いているのだった。不思議な人だな、と思っていた。

 そんな人が、何の前触れもなく急に「日本の方ですか?」などと話しかけてきたものだから、暁央は最初は動揺した。しかし淳のほうは、何年も前から知り合いでしたみたいな顔をして、こうして「やあ」なんて言って暁央の元へやって来るのだ。

 彼は暁央と家族が宿泊している棟に入ってくると、プライベートプールをぐるりと回り込んで、片脚に変に体重を偏らせながら不格好に歩いてきて、プールの傍でキャンバスに向き合っていた暁央に近寄った。

 淳は今日も、浮かれた観光客が買うようなビビットな色合いのアロハシャツに、学生が着るような冴えない縞模様のハーフパンツを履いて、砂浜の砂がついたままのピンクのクロックスを引きずっていた。彼はイーゼルを斜めに眺められる位置にあった低いソファに腰を下ろし、長い脚を地面に伸ばした。

「今日は比較的涼しいね。絵を描いてるの?」

 洗いたてのシーツのように白いキャンバスを真っ直ぐ見ながら、淳が堂々と聞いてくる。

 暁央はこうべを縦に振った。

「祖母が、今日みたいな日は絵を描くといいと言うので」

「いいおばあさまだね」

「……ずっとそこにいるんですか?」

 キャンバスの白を見つめながら背後に聞く。

 淳はソファーに沈んだまま、うんと答えた。

「絵を描くんでしょ?」

「見られていると気が散ります」

「そう? じゃあここで目を閉じてるよ。つまり、昼寝するねってことだけど」

「……。ご自由にどうぞ」

 答えると、淳は本当にそこで寝た。

 なんと図太い人だ。まさか本気で寝るとは思わなかったので驚いた。途中で飲み物を取りに来た妹にそれは誰なのかと聞かれ、「知らない人」と咄嗟に言ってしまった。

 筆は一向に進まない。

 徐々に日が沈んできて、淳の寝顔にそうっと注ぐ太陽光が柔らかい蜜柑の色になってきた頃、淳はようやく目を覚ました。唇をぐんと引き延ばして大きな欠伸をして、ああよく寝たなんて言っている。

 暁央は、キャンバスに薄く下書きをしていた鉛筆の動きを止めずに話しかけた。

「昨夜はよく寝られなかったんですか」

「いや、十時間くらい寝たけど」

 淳は首を捻った。

「さっき食べたロブスターのグラタンが重くて、まだ胃にあるみたいですごく眠いんだ。お昼にロブスターなんて食べたのがいけなかったんだ。夜だよね、普通は」

 言われてみれば確かに、細い四肢の中で腹だけ妙に膨らんでいる。淳はその腹をさすり、隠しもせずに思い切りゲップをした。

 暁央は彼のその様子がおかしくて、うはは、と笑ってしまった。高価な玉手箱からとびきり下品なピエロでも飛び出してきたように思えたのだ。無礼だっただろうかと咄嗟に反省し、慌てて笑いを引っ込めると、淳はむしろ嬉しそうに破顔した。

「君もロブスターは夜に食べたほうがいいよ」と、言う。

 暁央は口に力を込めた。

 笑いをこらえながら言う。

「でも……、実は俺も、お昼にロブスターグラタンを食べたことがあるんです。近くのあの、角のお店ですよね? ロブスターの置物が入口に置いてある? しかも俺は、ここに来た初日にやってしまって、量が写真と……あの、メニューの写真と違ったからびっくりして、無理矢理食べたらすごくお腹いっぱいになって……ぽっこりのお腹で海に行く羽目になって」

 淳はじっと暁央の話を聞きながら、愉快そうに笑っていた。

「お気に入りの服を、水着を持ってきたのに、ぽっこりお腹のせいで全然かっこよくなくて。俺……祖母が写真を撮ってくれたのに、見返せないです。ぽっこり……ロブスターグラタンは夕食がいいです。俺もそう思います。……ごめんなさい俺、話すのが得意じゃなくて」

「そうなの?」

 淳の前髪が軽く揺れる。

「でも、そうだよね。本当はダビデ像なのにね」

「ダビデ像?」

「お腹だよ。ロブスターさえ食べなければダビデ像で海岸を歩けたのに。僕たち二人とも」

 肩を揺らして笑う淳をよそに、暁央は顎に手を添えた。

 会話中の単語からパッと連想された映像を脳内で再生し、思い浮かぶままに言葉をつむぐ。

「そういえば、ここへ来るまでの飛行機の中で見た映画で、こんな台詞がありました。緊張をほぐすにはお互いの裸を想像するといい、みたいな会話の流れで、主人公が君の裸なんか想像したくないよって言ったら、マジシャンの人が、俺は首から上は問題あるが首から下はダビデ像だからな……って」

「それ、『Now You See Me 2』じゃない? 邦題はなんだったっけ? 『グランド・イリュージョン 見破られたトリック』とかだったかな? おもしろいよね。『1』もおもしろいけど、『2』はダニエル・ラドクリフが狂った悪役で出てきて」

「『ハリー・ポッター』の方ですよね? 出てきました! ああいう役もできるんだなあ、すごいなって思いました」

「うん。ね」

 淳は頷き、「ダビデ像」の単語から突然方向転換された会話を軽妙に思ったのか、さらに緩やかに笑った。

 暁央は嬉しくなった。急に何の話だよ、とか、言われなかった。それにさっきも、一生懸命しゃべった結果変に長引いてしまった話を、途中で遮られたり揶揄されたりしなかった。

 気分が良くなった名残でにこにこしたまま、イーゼルに向き直った。淳はそんな暁央に気付くと、ソファーの肘掛けにもたれかかりながら、何かを言おうとしていた口をくっと閉じた。

 暁央は淳を振り向こうとしたが、途中で首の動きを止めた。顔の前に張っていたはずの薄い防御壁が少々破られる気配がしたが、それが破られたと認めるには、まだちょっと早すぎる気がした。

「そうだ」

 夕暮れの中、帰ろうとした淳が、ソファーから立ち上がって言った。

「明日の夜、あそこの海岸沿いのバーでパーティがあるって知ってる?」

 淳は南の方向を指差した。

「あの当たりの浜辺も貸し切ってやるって。有名なシェフとバーテンダーが来て、いろんな料理とカクテルが出るらしいんだけど。君も行く?」

「あなたは、……淳さんは、行くんですか?」

「うん。お酒好きだし」

 この人が行くなら行こうかなと思ったが、言いはしなかった。

 そのうち、街のほうへ買い物へ行っていた両親が戻ってきた。息子と話していた淳の姿を見て驚いていたが、誰なのかと目線で聞かれた暁央が「友達」と答えると、安心したように微笑んだ。淳も、まるで以前から顔見知りだったかのようなオープンな雰囲気で暁央の両親に挨拶し、少々立ち話をしていた。

 彼は昼間、海辺からずかずかとやって来たが、帰りは暁央に見送られて玄関から歩道へと去った。くたくたのハーフパンツのポケットに手を突っ込み、「じゃあ、またあとでね」と背を向ける。

 暁央が玄関を閉めようとして顔を背けたとき、淳が言った。

「初めて名前を呼んでくれたね」

 閉める扉を止めて顔を上げると、こちらにふらふら手を振る淳の背中が見えた。

 

 

 苗字が同じだから「江国さん」と呼びかけるのは間抜けな感じがしたし、だからといっていつまでも名前を言うことを避けるのも奇妙な気遣いだと思ったので、「淳さん」と呼んでしまった。年上のようだから「さん」と敬称をつけるのは間違っていなかったと思う。それでもおかしかっただろうか、急に「淳さん」と呼ぶなんて? 向こうの態度に対してこちらの雰囲気がたどたどしい気もするし、……。暁央はいつも正解がわからない。

 翌日のパーティには、暁央よりもきょうだいのほうが行きたがった。それなので、父や母も同行して結局一家で向かうことになった。暁央はマリンブルー色の所々にストライプの入ったシャツに、セットアップのハーフパンツをさらりと着て、日差しよけのためサングラスをかけて出かけた。

 午後七時を回った頃にヴィラを出て歩いて向かったが、会場のバーに到着した頃には、すでに結構な人混みが賑わっていた。

 バーの入り口で年齢確認を済ませると、手首に紙でできたバンドを付けられ、確認完了証の保有者となった。建物の中には、チカチカするビームライトと爆音の音楽が弾んでいて、様々な人種の人たちが楽しげに踊ったり、飲んだり、しゃべったりしていた。妹はいつの間にかこっちで知り合いを作っていたらしく、白人の男性と一緒に笑顔で中へ消えた。弟はしばらく暁央や両親と一緒にいたが、酒が入るにつれ陽気になり、気付いたときにはどこかへ姿を消していた。

 まだ陽が沈み切らない時間帯のパーティはみなどこか落ち着かず、うろうろキョロキョロしていた。暁央も同じだった。日本でこういったパーティに参加することはほぼなく過ごしてきたので、慣れないせいもあり、カウンターで頼んだ二杯目のカクテルをすすりながら、なんとなく壁に寄りかかってみる。

 同年代の女性達に何度か声をかけられたが、英語はよくわからないし、ぎこちなくしているうちに自分は観賞用の銅像になったようだった。視線だけはやたらと感じる。ダビデ像になったのかもしれない。

 アップテンポの音楽に合わせて踊る両親に声をかけ、離れ、座る場所を求めて奥へ進んだ。人の肩にぶつかりながら、入り口から離れる方面へ突き進むと、海に向かって開かれたテラスの窓を跨いだところにベンチがあった。暁央はそこに腰掛け、一息ついた。

 持っているアルコールはすっかりぬるくなっていた。しかし大海原は胸を打つ輝きで、どっぷり太陽を飲み込んだ海面は、深く妖艶なインディゴブルーに変容していた。

 夜風が心地良い。テラスからそのまま出られる海岸にも背の高いテーブルが配置してあり、そこで立ち飲みしている人達もいた。砂浜に座り込んでなにやらお喋りしている人も、波打ち際まで行って海水で遊んでいる人もいた。

「暁央!」

 不意にかかった声に、顔を向ける。

 人混みをかき分けてこちらへ近付いて来る淳の姿が見えた。

 ここで家族以外の人に名前を呼びかけられるのは初めてだった。淳は、ハート型に縁取られたピンク色のサングラスを額にかけていて、信号機のようなチカチカする配色のシャツを着ていた。手に持っているロンググラスには唐傘のようなものと花火が突き刺さっていて、そんな種類のカクテルも売っていたのかとなぜか舌を巻いてしまった。

「来てたんだね。楽しんでる?」

 彼はそう言い、暁央の隣のベンチに座った。

「まあ……それなりに」

「それならよかった」

「あなたはとても楽しんでいそうですね」

「いやあ、それが、さっきまで一緒に飲んでた知らないおじさんがトイレで吐いちゃってさ。その人をタクシーに乗せてきたところなんだ。どっと疲れた」

 淳は傍を通りかかったウェイターを呼んで、空になったグラスを預けた。花火はまだパチパチいっていた。

「大丈夫?」

 花火を目で追っていたらそう聞かれたので、暁央は戸惑った。

「何がですか?」

「深刻そうな顔してるから。パーティは好きじゃない?」

「そういうわけじゃないですけど……」

「僕はそんなに好きじゃないけどね。ベッドでごろごろしてるほうが好きだな」

「本当ですか? すごく楽しんでそうに見えますけど」

「それは、さっきまで一緒にいた人が楽しんでたから」

 そう言い、淳はハート型のサングラスを外した。ポケットにしまい、ふうと息を吐く。

 発言の意味を考えていると、淳が続けた。

「こうやって隅で座ってると、いいね」

 流れている音楽が変わり、どこの国の言葉の歌詞なのか、巻き舌が含まれた陽気な雰囲気の曲になった。周囲には日本語ではない言語が飛び交っているし、飲み込む味もへんてこに思えるし、妙な感じだ。

 ここへ旅行に来てしばらく経つのに、暁央はたまに、自分だけ滑稽な格好をして滑稽なことをしゃべっているのではないかと慮ることがあった。しかし、隣で淳がこうして日本語で話してくれていると、ちょっぴり居心地良く感じた。

 どこか静かな場所へ移動しませんか、と聞こうと口を開いたが、ちょうど同じタイミングで淳に話しかける姿があり、暁央は口をつぐんだ。艶やかな肌をしたラテン系の女性と、その友人らしい金髪を胸元で揺らした女性だった。淳の知り合いではないようだったが、親しげに早口の英語で喋りかけていて、淳もそれに短い単語を拾い拾い返していた。

 そして一言二言会話をすると、途中で彼は暁央を手の平で指して何やら話し、暁央がぽかあんとしているうちに、なぜか四人で写真を撮る流れになっていて、嵐のように終わった。

「僕たちがハンサムだからインスタ用に写真を撮りたいって」

 彼女達が去ったあと、そう説明してくれる。

 暁央は、ああ、と納得した。

「ずっと聞きたかったんですけど」

「ん?」

「あなたのその服は、その、好みなんですか?」

「はは。僕が着ればなんだってブランドもの同様でしょ?」

 と、声を上げて笑う。

 はぐらかされた。

 そう思って真顔でいると、淳は「どこか涼しい所行こうよ」と言って腰を上げた。自分もそう提案しようと思っていたことを思い出し、暁央は嬉しくなった。

 淳の真似をして、傍で配膳をしていたウェイターにグラスを渡し、片付けてもらった。

 砂浜のほうへ向かう彼の背中を追いかける。

 

 

 淳は海岸ぎりぎりまで行き、サンダル――今日の淳は、一体どこで手に入れたのか、オバマ元大統領がニヤッとしている写真がプリントされているサンダルを履いていた――を多少濡らしながら、足だけで波で遊び始めたので、暁央も一緒になって水をパシャパシャした。酒も回っていたし、視界が狭くて頭がゆらゆらするので、暁央はすぐに濡れた砂浜に尻をついた。

 やがて淳も隣の地面にべったり座って、ふたりでしばらく無言のまま潮風に吹かれていた。

 背後に、パーティの喧騒が聞こえる。対して正面の海はどこまでも静かで、物言わず、じいとそこに存在していた。二人は波打ち際に座り込んでいたので、大人しい波のときは爪先で止まる海水が、波によっては尻まで染みてきて容赦なく濡れた。

「ここから日本まで泳いだら、どれくらいで帰れるでしょうか」

 思いついた暁央がそう言うと、淳はぶっと吹き出した。

「泳ぐの? いいね。クロールがいいな」

「いや、平泳ぎがいいです。そのほうが疲れなさそうじゃないですか? 息継ぎが多いし」

「息継ぎが多い? そうかな? クロールでも調節できるよ」

 淳はクロールの動作をして、一掻きにつき一回呼吸をしてみせた。その動きが大袈裟でおもしろおかしくて、暁央は口元を手で覆って思い切り笑った。

「それで、お腹が減ったら背泳ぎするんだ。ラッコみたいな格好でサンドウィッチとかを食べる」

「足が疲れたら犬かきをしましょう。あ、それじゃ余計に疲れるか」

「足が疲れたら、そうだな、手で泳ごう」

「手で泳ぐ? 意味がわかりません、どういう状態?」

「ていうか僕、濡れたサンドウィッチなんて絶対に食べたくない。やっぱりボートとかで帰らない?」

「だめですよ、泳がなきゃ。大丈夫です、サンドウィッチはジップロックに入れておくので……」

「ジップロック? 待って、君そんなにジップロックを信頼してるの? 僕、前に、お風呂に入るときあれにスマホを入れて浸かったらさ、」

「スマホにはそれ用の袋がありますよ?」

「知ってるよ、でもその時はなかったんだ。君だって、お風呂にスマホを持ち込みたいときに、ゴミ捨て用の九十リットルのポリ袋か小さいジップロックしかなかったら、ジップロックを選ぶだろ?」

「九十リットル? それって業務用じゃないですか? なんでそんなものがあなたの家にあるの?」

 十代の友人同士のように、二人はゲラゲラ笑った。

 波が引くように笑いが収まると、爆笑によって乱れた息を整えながら、暁央は目尻の涙を拭った。海面を渡ってきた夜風を肺いっぱいに満たし、ゆっくり吐き出す。体の熱は冷めない。まだ額のあたりがぼうっと重く、酔っているからだろうが、思考も覚束なかった。

 パーティの賑やかさがずっと遠く、別世界の出来事のように感じてきた。

 暁央は座ったまま膝を抱えた。海水で濡れた膝小僧に頬をくっつけると、ひんやりして気持ち良かった。その体勢のまま横を向いて目を上げる。

 そうしていると、隣で淳の黒い髪が潮風に遊ばれている様子が見えて、さらには暁央と同様に酔って火照っている頬や、バーからの明かりを反射して輝く海面を写してキラキラする瞳、日焼けしているとは言えない白い肌、熟れた果実のように赤い唇も見えた。暁央はそれらから目が離せない。

「淳さんの暮らしてる場所は、どんなところですか」

「ん?」

 淳は目を伏せて顎を上げ、首を揺らし、吹いてくる潮風に全顔面が晒されるようにした。

「ヴィラの、君の隣の隣の棟だけど」

「そうじゃなくて、日本で住んでるところです」

「あ、そっち。んー、まあまあなところだよ」

「まあまあ?」

「特別綺麗でもないし、特別汚くもない。まあ、都内なんてそんなもんだよね」

「東京に住んでるんですね」

「うん。今はね。生まれは広島なんだ。そろそろ帰ろうかなと思ってる」

 そう言い、淳はそっと目を開けた。少し低い位置から覗き混んでいる暁央には目を合わせず、海なのか空なのか、とにかく遙か遠くを見つめ続けた。

「暁央はどこに住んでるの?」

「岩手です。田んぼに囲まれてる田舎です」

「へえ。俺、東北ってあんまり行ったことないんだけど、そっちこそどんな場所なの? いいところ?」

「いいところですよ。静かだし、人が少ないし。あと食べ物がおいしいです」

 暁央はそう答えた。

 膝から隣を見つめ続けていると、淳は前髪を掻き上げ、そっかと呟いて柔和に微笑んだ。

「行ってみたいな」

 異国のリゾート地に来ているのに日本の話をしているなんて、なんだかちぐはぐだった。このちぐはぐ感を言葉にして伝えて笑い話にしたくて、何と言えばいいのか考えていると、ふと淳が静かに言った。

「僕の家に来る?」

「え?」

「帰国したら。日本の僕の家、来る?」

 しばらく、さあさあという優しい波の音だけが辺りを支配していた。

 暁央は顔をゆっくり膝から離した。ちぐはぐ感について必死に考えていたから、急に予期していなかった方向から話を突き立てられて、びっくりした。何と答えるべきかわからず暁央が口をぱくぱくしているうちに、淳はパッと立ち上がり、尻についた砂を叩いて払いながら軽く言った。

「業務用のポリ袋を見に来てよ」

「もう帰るんですか?」

「うん」

 淳はオバマ元大統領のサンダルを履き直し、バーの方へ歩き出した。

 暁央は、慌てて腰を捻って振り向いた。

「あ」

 声を伸ばした。

「あの、安全でいてください。夜遅いので」

 それを聞くと、淳は歩きながら下向きに笑って振り返り、大きく頷いた。

「君も気をつけて帰るんだよ。またあとでね」

 

 

 次の日は珍しく朝から雨天で、空気がどんより重かった。

 パーティから帰ったあと、暁央は雑にシャワーを浴びて、プライベートプールまで数歩で行けるほぼ外のソファーで寝落ちてしまったので、雨音で目が覚めた。ついでに酔いも醒めていた。

 祖母がテーブルで読書をしている姿が見えたので、朝の挨拶をしたら、もうお昼だよと笑われた。スマートフォンを見ると、確かに時計は十二時に近い時間を示していた。画面にはメッセージアプリの通知も届いていた。岩手にいるカウンセラーからのメッセージで、リゾートを満喫していますかという連絡だった。

 そういえば、淳の連絡先をまだ知らないな。と、不意に思った。思ってから驚いた。そりゃあ知らなくて当然だ。ここにいる間は、同じヴィラのすぐ近隣の棟に寝泊まりしているのだから、数メートル歩けばすぐに会える。

 しかしじゃあ、帰国したあとは?

 そこまでぼんやり考えてやっと、昨晩の淳の「日本の僕の家、来る?」という言葉を思い出した。

 暁央はスマートフォンと張りキャンバス、そして色鉛筆を数本持って、傘を差し、プールサイドに転がっていたクロックスを引っかけて歩き出した。勾玉のような形状をしたプールをぐるりと周り、海に面した塀の扉を開ける。そしてプライベートビーチへ出ると、棟を二つ越えたところで、そろりと中を覗き込んだ。

 淳の棟ではちょうど、彼の兄夫婦が外出する場面だった。雨の音もあって会話は聞こえないが、じっとこっそり待っていると、寝癖のひどい淳がのっそり姿を見せて、テラスのベンチに一人座って、リクライニングを後ろに倒して寝転び始めた。

 やがて彼の兄夫婦が出て行く。そのタイミングを狙い、暁央は「淳さん!」と声をかけた。

 バッ! と、勢い良く淳が起き上がった。彼はすぐに暁央の姿を見つけ、凍っていたアイスクリームが溶ける瞬間のようにゆるりと笑った。手招きをしてくれたので暁央はほっとして、外から鍵を抜いてゲートを開け、淳の宿泊する棟へ入った。

「ここで絵を描いてもいいですか?」

「いいよ。ちょうどみんな出かけていったところだった」

 そう言い、彼は暁央が座る用に、雨の当たらない場所へベンチを運んでくれた。

「ゆっくりしていってよ」

 当然だが、淳の宿泊しているヴィラと暁央のヴィラは、内装がほぼ同じだった。が、淳の家族は綺麗好きな人が多いのか、服や食べ物が散乱していることはなく、むしろ整理整頓されて生活感がないほどだった。

 今日の淳は、くしゃくしゃにシワのついた紺色のセットアップを着ていた。セットアップをただそのまま着用しているだけなのに、色が一つしかないだけで、普段より随分とまともなファッションをしているかのような錯覚を覚えた。しかし履いているスリッパは、羊の顔を模したもこもこのデザインで、なぜこの暑いリゾート地でその素材のものを選んだのだろう? と、暁央は不思議に思った。

 暁央が胡坐をかいた膝の上でキャンバスをいい具合の角度になるよう整えている間、淳はガーデンからもよく見えるリビングのアイランドキッチンに回り込み、食器や包丁などをカタカタといじり始めた。なにやら料理を始めたようだった。

 なんとなくそちらを気にしたまま鉛筆を手に取り、暁央はキャンバスに向き合う。数日前からこのキャンバスを抱えているのに、暁央はまだ自分が一体なにを描くべきなのか掴めないでいた。白いだけの空間がある四角の枠を見つめる。鉛筆をそれっぽく構えて、先端で紙面を軽く引っ搔いてみる。寝ぼけながら聞いていた授業のノートのような弱々しい線が一本、情けなく伸びた。

 その線を見つめたままじっとしていると、鉛筆と指が合体して、一体化していく錯覚に襲われた。爪がにゅっと伸びた先で黒色に変色して鉛筆の芯になり、皮膚の肌色が鉛筆の木材の部分と同調してひとつになっていく。鉛筆指は迷ったままキャンバスの粗い面をなぞり、揺れ、止まる。やはり止まる。

 もっとじっとしていると、今度は徐々に自分の体がそのまま鉛筆になっていく感覚に陥った。長さ一メートル超えの巨大な鉛筆だ。頭のてっぺん、ちょうどつむじあたりで絵を描ける。暁央は自分のつむじと一体化した鉛筆の芯をキャンバスの面に滑らせた。

 今までで一番長い線が描けた。横に一曲線だ。若干、弓のように湾曲していて、地平線の下書きをした風にも見えた。

 そのとき、コトンという軽く耳障りの良い音が空気を締めて、暁央は顔を上げた。なにかの一品を作り終えた淳が、アイランドキッチンの中央に皿を置いた音だった。

「ごめん。うるさかった?」

 淳は手を洗ってからタオルで拭いた。

 暁央は首を横に振った。

「なにか食べるんですか」

「うん。小腹が空いちゃって」

 スリッパを鳴らして淳が戻って来て、ベンチの傍にあった小振りのテーブルに皿を移した。そして自身は、暁央の座るベンチにほど近いハンモックに腰掛ける。

 浅い皿には、フルーツサンドが四切れ並んでいた。パイナップル、イチゴ、キウイフルーツなどの大きなみずみずしい実がごろりと、輝かしい真っ白な生クリームと食パンに包まれて収まっている。

 暁央の瞳には、フルーツたちとクリームから発せられるキラキラがそのまま写っていて、こげ茶の両目がうるんだように濡れてチカチカしていた。淳がその様子を見て小さく吹き出したので、暁央はハッとして口を結ぶ。

「半分どうぞ」

 と、淳が。

「え、でも」

「暁央と一緒に食べたくて作ったんだ。食べてくれないと僕が悲しい」

「……それじゃあ」

 一切れを崩さないようにそっと持つ。力加減をしていてもとろけるように柔らかくて、口に運んだ頃にはもう原型をとどめていなかった。口の端、上下の唇の間からクリームが漏れて顎に垂れた。そんなことなど気にしていられないくらいイチゴが甘美で、でも果実特有の鼻に通るような酸っぱさもあって、熟した色を保ったまま舌の上でほろりと綻ぶようで、一方、生クリームはイチゴと喧嘩しない種類の深く柔らかい甘さで、ミルクに似た風味で口内を癒やすようで、素晴らしかった。

「お味のほうは?」

「お、美味しいです、すごく」

「それはよかった」

 てっきり淳も同時に食べているものかと思い、人目を気にせずフルーツサンドを堪能してしまっていたが、どうやら淳は暁央がそれを頬張るのを眺めていたようだった。

「生クリームが……美味しい」

「それ、生クリームじゃないんだ。牛乳で作ったミルクホイップクリーム」

「牛乳で?」

「うん。簡単だよ」

「え、あなたが作ったんですか?」

 ぎょっとして聞くと、淳は肩を竦めてみせた。

「料理が好きなんだ」

「……すごい」

「ありがと。実はパンも僕が作った」

「え」

 このひと……と思っていると、淳は大口を開けてフルーツサンドを二切れ、ゆっくり味わうこともせずかっ食らった。もったいないと思ったが、作ろうと思えばいつでも自分で作れるから貴重ではないのだろう。

 暁央はそれでも、そうっと、最後の一切れをすくう。

 今まで経験してきた食事の中でも、際立って印象的な時間だった。感動的なおやつの感謝を伝えたくて、どう表現すれば誤解なく、かつすっきり素早く伝えられるだろうと考えていると、淳はその間にスリッパから素足を抜き、ハンモックにころんと寝転がった。

 内臓を経由して体内に取り込まれていく糖分が、脳の後ろのほうをぼーっとさせる。

「君は今日、まだここにいて大丈夫なの? 予定とかは?」

「予定は特にないです。ので、いて大丈夫です」

「それはよかった。兄さん達が帰ってくるまで、君を独り占めできるってわけだ」

「独りじ……それっていいことですか」

「うん」

 淳が微笑む。

 よくわからなくて、暁央はふーんと返した。

「君のご家族はなにして過ごしてるの? おばあさまだっけ、一緒に来てるの」

「はい。両親と祖母と、あと妹と弟も来てます」

「みんなそれぞれ過ごしてるの?」

「多分。父と母は買い物したり、海に入ったり、おのおの好きなように過ごしてるし、祖母はのんびりしてるし、妹と弟は今日から学校の友達もこっちに来ていて、合流したみたいで」

「わざわざ? 友達、アクティブだね」

「そうですね。妹と弟は友達が多いから。……。俺とは似てないんです、二人とも」

「そっか。僕も兄とは似てないってよく言われるけど。でもまあ、きょうだいだから似てるなんて考えがまず幻想なんだろうね」

「そう……ですね」

 あなたはなにをして過ごす予定だったんですか。あなたのお兄さんはどんな人ですか。あなたはどんな人ですか。ミルクホイップクリームを初めて作ったのはいつですか。料理の他に得意なことはありますか。どこで生まれて、どう育って、どうして今ここで俺と出会ってくれたんですか。……。

 聞いてみたいことが雪のように静かに降り積もって、着実に大きくなっていく。マリンスノー。海底の浅い層から深い層に沈降していく白く淡い粒子のように、音もなく降り続けて、増えて、厚くなっていく。

 部屋には、暁央が来たときからずっとクラシック音楽がかかっていた。今はオーケストラ伴奏の歌唱曲が流れている。荘厳なストリングスの上に伸びる果敢でどこか悲痛な男性の声が、歌詞に乗せられた強かな思いを一心に奏でている。

「マーラー、好きなんですか」

 コーヒーを淹れて戻ってきた淳にそう聞くと、彼は目をぱちくりさせた。

「知ってるの? これ」

 と、空中に充満している音符記号ひとつひとつを示すように、頭上を指差す。

 暁央は答えた。

「『さすらう若者の歌』」

「そう。詳しいんだね。クラシックはよく聞くの?」

「両親が好きなんです。それで覚えちゃったっていうか」

 音楽はブルートゥースで飛ばして室内に流していたようで、淳はパンツの尻ポケットからスマートフォンを取り出し、簡単に操作して音量を少し上げた。そしてまた、ハンモックの上で横になる。

「マーラーは難しいってよく言われるけど、そんなことないと僕は思う」

「それは俺も思います。作品数も多くないし」

「ね」

 淳は言った。

「『さすらう若者の歌』。愛した人が自分じゃない誰かと結婚するときの歌だ。愛しい人が婚礼をあげるとき、私は喪に服す! ……情熱的だね。僕もそんな恋愛がしてみたい。なにもかもわからなくなって、夢と現実が前後しちゃうような、そんな恋愛が」

「……淳さんは」

「ん?」

「……。いや、その……、パートナーとか、いないんですか」

 いないんですか、じゃなくて、いるんですか、と聞けば良かった。

 などと重要なのかそうでないのか不明な反省をしているうちに、暁央の視線のまっすぐ先で、淳は目を細めて暁央を見つめ返した。

「いないよ」

「……。そうですか。……」

 しばらく奇妙な沈黙が流れた。

 それを破ったのは暁央だった。

「俺、これの、終わり方が好きです」

「終わり方?」

 暁央は口の中のミルクホイップクリームの名残りを舌で追いながら、言った。

「この曲の歌詞。失恋して嘆き悲しむ歌ですけど、最後、ひとりで菩提樹の下で眠って、結構前向きに終わるでしょう。それが好きで」

「ああ。全てがまた素晴らしくなった。恋も、苦しみも、うつつも、夢も! の、ところだね」

 淳はハンモックの上で体勢を変えた。横を向き、自分の肘に頭を乗せて固定し、じっくり話し続ける暁央のほうを見やる。

「なんていうか……、ひとりなのがいいです。曲の前半で、失恋のつらさのあまりあんなに憎んだ自然を、世界を、最後にまた素晴らしいと思って眠りにつくのが、いい。自分の人生も他の人の人生もどうなるのか知らないけど、夢も現実も結局はいいものだって思って、ええと……それがひとりでなのが、気持ちがよく、わかります」

 なぜこんな話題を今、この流れで挙げてしまったのだろう。暁央はいつも誰かと喋りながら、反省と後悔ばかりだ。

 淳の目を見られなくなってきた暁央とは裏腹に、淳はじいと暁央を見つめ続けていた。眩しそうに細められていた目が今やどこか眠そうで、二重の幅が広がり、どこか色気をはらんだ目元をしていた。

「もっといろんな話をして」

 と、淳が。

 え、と、暁央の口が動いて空気が出る。

「暁央の話、いつまでも聞いていたい」

 腹の底を這うような淳の声だった。

 重力に従って斜めに垂れた前髪が、片方の瞳にかかって影を落としている。隠れていないほうの目はゆっくり瞬きをしていて、時折どこからか流れてくる風にやわやわと撫でられていた。何者をも傷つけまいとする優しい瞼に隠されて、宇宙のように、底の見えない奈落のように真っ暗な黒目が暁央を射貫いている。いつもは服の奇抜な配色に気がとられていたのかもしれない。暁央は、淳の虹彩が漆黒一色だったことにようやく気が付いた。

 どぎまぎした。

 カラカラの舌が喉に張り付く。

 途端に手汗が吹き出してきて、支えていたキャンバスが落ちそうになったことで、自分が絵を描いていたことを思い出した。しかしもはやそれはもう、どうでもよかった。

「君は不思議な人だね。若い頃のビョルン・アンドレセンみたいな雰囲気の姿をしてるのに、僕にはたまに君が、そこらへんに住んでる近所の誰かみたいに思えるときがある」

「え?」

「天真爛漫と言い切ってしまうには毒があるし、健全で賢良だと決めつけるには倦怠的だ。君は都会っぽい洗練感も携えていれば、農夫みたいに笑う雑駁感も持ち合わせてる。矛盾そのもので構成されてる人間みたい」

「俺には難しいです」

「変なこと言ってごめん。君はすてきな人だと言いたかった」

 淳はハンモックから起き上がると、両方の足の裏を地面につけて中心に座り直した。

「君には言っておきたいと思ってたんだけど。僕、バイなんだ」

「え」

「バイセクシュアル。女性も男性も恋愛対象になり得る」

 さああという薄い小雨の音に、波が延々と寄せては返す音が寄り添うように重なっている。全身の肌をくるむ空気は、カラリとしていた昨日までとは違い、気持ち髪を落ち着かせる程度の湿気を持っていて、肩に乗る空気を重く感じさせた。

 空になった小皿にはミルクホイップクリームの跡が若干ついて、残っていて、かつてそこに感激する甘さがあったことを静かに証明していた。それは社会への抵抗だった。

 不格好に斜めに傾いたキャンバスを抱えたまま、ぽかあんとする暁央に、淳は確信めいた口調で続けて言った。

「君はすてきな人だよ。君自身はいつも迷ってて、自信がないみたいだけど、そのままで十分すてきだ。その絵も、」

 と、暁央がとりあえず持っているキャンバスを指差す。

「君の思うままに描いたらいいよ。きっとすてきな絵になる」

 暁央は何分も考え込んで探し出さないと見つけられない言葉を、答えを、淳はいとも簡単に見つけて、一桁の足し算でもするかのような気楽さで微笑みにしてしまう。きっと嘘まで重ねてしまうこともできるのだろう。器用に、丁寧に、社交的に、そうやって生きてきたのだろう。

「あなたの目を通して見た世界はきっと、くっきりしてるんでしょうね」

 暁央は言った。

 淳はゆるく頷いた。

「君ほどじゃないけどね」

 どういう意味ですかと聞こうとして顔を向けると、不思議な表情をしていた淳と目が合った。ついさっきよりもさらに、どぎまぎした。それで何を聞こうとしていたのかを忘れてしまって、脳の隅に追いやったまま消せないでいた疑問符を引っ張ってきて、口に乗せた。

「あの、どうして」

「ん?」

「どうしてカミングアウトしてくれたんですか」

 また突拍子もないタイミングで話題をぶり返してしまったと、すぐに反省をする。しかし、どうしても聞いてみたかった。暁央には、淳の言う「君には言っておきたいと思ってた」の真意が掴めなかった。

 珍しく淳はしばらく黙りこくって、視線を宙に向けて言葉を選んでいるようだった。

「どうしてだろう」

「俺には言っておきたいと思ってたって、どういう」

「うーん」

 淳は自分の顎に手を添える。

「君が言うように、僕の目を通して見た世界はきっとくっきりしてるんだ。君がここまでどんな人生を歩んできて、どんな悩みを抱えていようと、それは僕の目を曇らせることは全然なくて、むしろ僕には僕の離しちゃいけないものがくっきり見える」

「離しちゃいけないもの」

「暁央のことだよ」

 いよいよ淳の言っている意味がわからなくなってきて、混乱が全身を支配し始めた。

 それが表情に表れていたのか、じっと暁央の様子を見ていた淳はハンモックから離れて、半分雨水に濡れていた一人掛けのベンチを引きずりながら、暁央のすぐ目の前に移動してきた。そして向かい合う形で座り、暁央の手からキャンバスをそっと奪った。

 数本の鉛筆の線しか描かれていないスカスカのキャンバスが淳の手に渡り、雨水の当たらない場所に丁重に立てかけられるのを、暁央はただ見ていた。視線を淳に戻すと、彼は前方に少し重心を寄せて、両方の肘をそれぞれ両方の膝に乗せて距離を詰めてきた。頭の中を整理しているかのように目を泳がせて、両手を揉み、しばらくして静かに話し始めた。

「僕は、人と話をすることを大事にしたいと、いつも思ってるんだ。誰かに伝えたいことは言葉にして言わないと伝わらないし、誰かが言葉にしようとしないものまで理解しなくちゃって努力する必要はない。でしょ? だから、君が一生懸命言葉を探して、僕のために話をしてくれる姿を見てると、どうしようもなく愛おしく思えるんだ。君は正しい会話をしてる。言葉を大事にしてるのが伝わってくるよ」

 ――俺があなたに話すのは、あなたが聞いてくれるからだ。

 暁央は咄嗟にそう思った。

 しかし、咄嗟に言えはしなかった。

「君ともっといろんな話がしたい」

 と、淳が。

「もちろん、君が良ければだけど」

「それは……」

 喉が渇いて口内に張り付いていたので、痛くて、慌てて唾を飲み込んだ。

「いいです。もちろん、話、したいです、俺も」

 そう言うと、淳は綻びるように笑った。

「よかった」

「でもあなたの話は、たまに早いです」

「えっ?」

 淳は目をまんまるにした。

「さっきとか、難しい言葉を早く言うから、まく……捲し立てるみたいに話すから、何をしゃべっているのかわからなかったです」

「ごめん!」

 パチン! と、淳は顔の目の前で両手のひらを合わせた。

「ごめんね。気を付ける。それに何度だって聞き返していいよ。君のスピードでいこう」

「はい……」

 暁央は小首を傾げた。

「あなたはもっと冷たい人なのかと思ってました」

「僕が? 冷たそうだった?」

「はい。第一印象はそうでした」

「今は?」

「今は……」

 暁央は淳をじいと見つめた。

「不思議な人だと思います」

「不思議かあ。それは良い意味なのかな、それとも悪い意味?」

「そのままです。良いも悪いもなくて」

「そっか」

「でも、あなたと一緒にいるときは少しだけ、自分を好きになれます」

 ふざけて肩を落として落胆した調子を見せていた淳が、ピッと顔を上げて目を丸くした。そして目尻にシワを見せて微笑み、それは良かったと柔和に言う。

「そんなの、どんな言葉よりも嬉しいな。またいつでもここにおいでよ」

「あなたのお兄さんがいるときでも?」

「いいよ。兄もきっと君を気に入ると思うし」

 淳はそう言い残し、よいしょと呟きながら立ち上がって、ハンモックの下に置きっぱなしにしていたスリッパを履き直して部屋の中へと入って行った。セットアップのパンツが半分湿って、色が濃くなっているのが見えた。それから彼はキッチンに向かったと思うと、「イチゴが余ってるんだけどいるー?」と大声で聞いてきた。いりますと返事を投げた。

 今日は朝から天気が崩れていたせいで薄暗かったが、それが徐々に日暮れの暗さと合流しつつあるのを感じていた。手元のスマートフォンを見るともう夕方だ。随分と長居をしてしまった。小雨はいつまでも止まない。

 そっと避けられていた額縁を手に取って、キャンバスの面を手のひらの柔らかい部分で撫でた。地面に転がっていた鉛筆を取り上げて、何の迷いもなく唐突に線を引く。

 自分ではない誰かに勝手に腕を操作されているかのようだった。ただ、滑らかに動き続ける鉛筆の芯がきびきびと形取っていく光景は、暁央がまさに今思い浮かべている風景そのもので、まるでフィルムを写真の形に現像する機械にでもなった感覚がした。

 海だった。砂浜に時折貝や石が紛れ込んでいる、ただの海だ。空は快晴だった。

 ヤシの木を一本描き加えようとしたとき、玄関の方向から扉の開く音と賑やかなしゃべり声が数人分聞こえてきたので、暁央は我に返って急いで立ち上がった。持ってきた荷物を全て小脇に抱えて、クロックスをしっかり履き直す。

 いくら気に入ると思うよと言われても、まだ対面する勇気は出なかったので、淳の家族には会わずにここを去りたかった。きょろきょろ見渡すが、淳の姿はない。何も言わずに立ち去ったらさすがに失礼だろうと思いながらも、楽しげな笑い声がだんだん近付いてくるので、暁央は慌ててテラスを横切り、プライベートビーチのほうへ小走りで向かった。

 雨で前髪が落ちてくる。

「暁央!」

 呼ばれた声に振り向くと、淳が室内用のスリッパを履いたまま追いかけて来ていた。

「兄さん達には会っていかない?」

「っは、はい、今日は……」

「大丈夫。いつか会ってあげてよ」

 と、微笑む。

 淳は雨水が目に入らないように瞼を若干閉じていて、湿気と水分でしっとりした髪がその目元にかかっていて、暁央にはそれがセクシーに見えて心臓が喉まで飛び上がった。

「濡れちゃうな。傘、取ってくるよ」

「大丈夫です、走って帰ります」

 顎を伝って下りてきた雨がぽつと落ちて、抱えているキャンバスの縁を濡らした。淳の手がにゅっと伸びてきて、暁央のまつ毛に触れていた前髪を横に払ってくれた。

「気を付けて。安全にね。余りのイチゴはまた今度フルーツサンドにするから、食べてよ」

 それだけで、今日を以て縮んだ距離が物理的にも証明されたようだった。

 熱に浮かされた心地でくるりと背を向けて、暁央は数歩歩き出す。そこで、今日はそもそも淳の連絡先を知りたくてここへ来た当初の目的を思い出して、もう一度淳を振り返った。

「あの、連絡先……」

 淳はまださっきと同じ位置に立っていたが、濡れた服を洗濯してしまおうと思ったのか、セットアップの上をガバリと脱いだところだった。さほど日に焼けていない薄肌色の腹が露になって、暁央の目に飛び込んでくる。うっすら割れた腹筋と、骨の形に縁取られた腰、それから服を掴んで隆起した二の腕の筋肉が見えて、文字通り息を飲んだ。

 髪をガサガサと混ぜていた淳が気が付いて、顔を上げる。

「なにか言った?」

 暁央は、いえ、と慌てて言い返して走り出した。

 この胸の高鳴りには身に覚えがあった。

 心臓近くのシャツを握りしめる。

「またあとでね!」

 いつもの淳の挨拶を背中で受け取って、帰路についた。

 

 

 カウンセラーからのメッセージに返事を打つ。

 快方に向かっていると思います。昼間は日に当たっているし、夜はちゃんと眠れているし、お腹も空きます、こないだはおやつまで食べました(今まで食べた中で一番美味しいフルーツサンドでした)。プールや海で体を動かしているし、知らない人ともうまく話せています。

「遅かったね、暁央。びっしょりじゃない」

 自分の泊まっているヴィラに帰り、他の誰にも会いたくない気分だったのでスマートフォンに目を落としながら急ぎ足でリビングを突っ切ろうとしたところを、キッチンに立っていた母に呼び止められた。

「どこで遊んでたの? 誰と?」

 ただでさえ誰とも会話をしたくなかったのに、母の小学生に話しかけるような口調に腹が立って、暁央はきゅっと口を結んだまま扉から出ようとした。その背中を母の声が追ってくる。

「絵は描けたの? 描けたらおばあちゃんに見せてあげなさいね」

 バタン、と戸を閉めた。

 廊下にはシャワーの音と妹の鼻歌が響いていた。淳のことは自分の胸の中だけにとっておきたかった。でもばあちゃんには教えてもいいかなと思い、祖母が寝室として使っているロフトに顔を出すと、彼女は眼鏡をかけて読書に集中しているようだったので、やめた。二階へ方向転換して階段を上っていると、斜め下のほうから、妹に向かって早く風呂場を空けろとせがんでいる弟の声が聞こえた。

 一人で使用しているベッドルームに入った。部屋は相変わらず散らかっていて、昨日来ていた服やここへ来た初日に買った菓子などが床に散乱していた。カーテンは閉め切ったままだ。ローテーブルの上には、使い捨てカメラとそれで撮影した風景を現像した写真が広がっていて、リゾートらしからぬ曇り空や道端に落ちていた誰かの帽子、散歩中に偶然見かけたなんでもない住宅街の暗がり、夕陽に伸びる自分の影など、様々な景色が放り出してある。

 肩と頭が濡れたままで少し寒い。

 暁央は、部屋に入った位置でしばらく突っ立って、ゴミ溜めのような一室を眺めた。胸に、黒くてぐるぐるしたもやもやが、ジ……ジ……と垂れかかってくる。瞼が重くなってきて、急に猫背になってきた。

 まただ。

 あーあ。

 今日は調子がいいと思ったんだけどな。

 足の平を床に擦り付けるように前へ進み、顔から突っ込むようにシーツに倒れ込んだ。うつ伏せの状態で唸り声を押し殺す。力を振りしぼって体を反転させて、仰向けになって大の字に伸びると、薄暗い部屋の中で唯一規則的に動いている天井のファンと目が合った。

 一定の速度で音もなく回り続けている。それをぼうっと見上げていると、ふと、淳の声が耳によみがえってきた。

――君はすてきな人だよ。君自身はいつも迷ってて、自信がないみたいだけど、そのままで十分すてきだ。

 過剰評価ですと言えなかった自分を悔やんだ。あの人はなぜあんなにいい風に言ってくれるのだろう、なぜあんなに優しくて、いつもじっと話を聞いてくれるのだろう、と、何度も考えた。

――暁央の話、いつまでも聞いていたい。

 すごい目をしていた。暁央は思った。

 すごい、目だった。あの瞬間の淳は、なにか世界の真理を見抜いているかのような、終末世界のなれの果てを経験したあとのような、恐ろしく耽美な瞳をしていた。あの目を思い返すと、まるで暁央が心の底に秘めた真意まで全て読み取られてしまうようで落ち着かなくなった。

 それから暁央は、去り際に見てしまった淳の肌を思い出した。彼の素肌を思うと、居ても立ってもいられないそわそわした気持ちになった。思えばこれまでだって、幾度となく視線を奪われてきたのだ。セットアップからチラと覗いていたあの腰の骨とか。服を首に通した直後のうなじとか。スリッパを脱いだ素足の色とか。フルーツサンドのミルクホイップクリームが付着した指、前髪を払ってくれた指とか。

 身体を求めてしまうというのは不可解な現象だ。理性ではとんでもないことだ、やめたほうがいいと静止を願っているのに、一度存在を認めてしまうと膨張する一方になる。ああ。あれに触れたいし、触れられたい。

 天井からぶら下がっているファンがまだのんびり回り、ぐんぐんと空気をかき混ぜている。ココナツ色の天井が少しずつ暗くなっていく。下の階の奥のキッチンから、母が夕飯の準備をしている最中の香ばしい匂いが上がってくる。

 静かな寝室で暁央はそのまま、そろそろと下半身に手を伸ばした。部屋の天井を睨んだままベルトを緩めて、ジッパーを下げて、下着の中に手を突っ込んだ。

 暁央。と、想像の中の淳が優しく囁く。

 暁央は大人しく目を閉じた。

――君には言っておきたいと思ってたんだけど。僕、バイなんだ。

――バイセクシュアル。女性も男性も恋愛対象になり得る。

 大切に思い返したそれらの言葉がもたらしたのは、安堵だった。暁央は下唇を噛んだ。よかった。無意識に制御をかけていた心の一部分が、存在することを許可されたように突然生命力をぶり返す。窮屈なクローゼットから押し出てきて、伸びをする。

 先走りで指が濡れて少し気持ち悪かったが、こすっていればだんだん気にならなくなってきた。というより、夢中になってきた。わざといやらしく腰を捻らせてみる。あの人は、あんまり積極的な人は好きではないだろうか。それともそうだとより興奮するタイプだろうか。

 声を漏らさないために口元に当てていた手の甲に、唇を当てた。そしてまるで誰かに深く口付けているかのようにそこを食んで、唇を擦って、舌で舐めた。連動して腰にじわじわ血液が集まってきて、首に汗が滲んできた。あの人はどんな風にするのだろう。愛しい相手と抱き合うとき、どんな表情をして、どんな風にキスをして、どんな風に抱きしめて、どんな風に触るのだろう。触ったらどんな顔をして、どんな声を出すのだろう。

 暁央はつむった目にぐっと力を込めた。

 手を上下させるスピードが速まってくる。たまらず、暁央は膝を立てて開脚した。淳とキスをする想像に使っていた手も離し、両手を股間に持っていった。性器を扱いている手ではないほうをぐっと奥に沈ませて、自分の唾液で湿らせた指でそこの穴に触れた。

「ぁ、……」

 脳内では、額に汗を浮かべながらも優しく微笑む淳の映像を思い浮かべた。

「暁央、恥ずかしがらないで。僕に全部見せて」

 と、脳裏の淳が言う。

 見せたい。全部見せたいし、全部見たい。誰にも見せたことのないようなさいはてまで見てほしいし、誰にも明かしたことのないような強欲をあますことなく見せてほしい。

 脳内の淳が徐々に切羽詰まった顔に変化してくる。それからベルトを緩める。カチャカチャという音。ジッパーを下げて、淳は下着から自分の「あれ」を取り出す。暁央はその光景にどきどきして何も言えなくなってしまうが、淳はそれさえも汲んで「あんまり見ないでよ」と照れた笑顔を向けてくれる。はずだ。

 自慰行為を最後までするつもりはなかったが、想定に反して興奮しきってしまったので、暁央は足音を忍ばせてトイレへ向かい、ウォシュレットで軽く洗浄した。階段の下からは、食器が触れ合う音や油の跳ねる音がしていた。

 急いで戻ると部屋の鍵を締め、ベッドの横に転がしたままになっていたキャリーケースをそろりと開け、アンダーウェアをしまっている奥の底を手探りであさり、タオルで包んだディルドとローションを取り出した。もう何度使ったかわからない。買ったときはあんなにどぎまぎしていたのに、今ではもう、血の通った体温のある肉を求めてしまうようになった。こんな旅行にまで持ってきている始末だ。

 服を乱雑に脱ぎ捨てながら、ベッドサイドに放り投げてあったポーチに手を突っ込み、コンドームを引っ張り出した。それをひとつディルドに装着してしまうと、ローションを使ってその物と自分の下半身を十分にぬるつかせた。その間にも、淳の性器にスキンをかぶせる妄想をしていたので興奮した。

 再びベッドに横になり、目を閉じた。表面をくるくる撫でて入り口を柔らかくしたあと、指先を突っ込んで広げるように慣らす。ローションを足しながら、たまに前を扱きながらそれを続けていったが、数本の指が根本まで飲み込まれるほどになる頃には、すっかり表情もとろけて声が漏れていた。たまらなくてすぐにディルドも使った。突き刺して奥に沈めて、ぐりぐり擦り出す。

 ここに「あれ」が入るのって、どんな感じなんだろう。本物の淳さんの「あれ」が入って、出て、何度も何度もこすられる感覚って。

 愛されたい。甘えたい。入れてほしい。舐めたい。壁に押し付けてキスしたい。胸筋を撫でたい。腰を手で支えられたい。耳元で名前を囁いてほしい。もうとにかくえろいことがしたい。あの人と。

 体の芯がうずうずする奥の部分にまで押し込んで、ぎりぎりまで引き抜いて、を繰り返す。息が上がってくる。張形を出入りさせる腕を徐々に速めて、暁央はひたすら淳のことを考えた。

「あ、っやば、淳さ……、出る……」

 いいよ、暁央。出しな?

 と、想像上の淳が言ってくれる。

 かっこよくてかわいい淳さん。日中見せている爽やかでふにゃりとした笑顔なんて忘れ去るほど、真っ赤に燃える欲望で顔を歪ませてほしい。日中見せているきめ細やかな優しさなんて壊れてしまうほど、遠慮なく貪り食ってほしい。

 この俺、相手に!

「淳さん、淳さ、ぁ……っ」

 ディルドを突っ込んだまま射精するのが吹き飛ぶほど気持ち良くて、暁央は顎を上げて一心に快感に浸った。手がでろりと汚れた感覚がした。

 静寂の部屋が戻ってくる。夕飯の時間を知らせる母親の声が聞こえてくる。

 暁央はじっとり汗でしめった前髪をかき上げ、息を切らしたまま顔を横に向けた。閉め切られた遮光カーテンが重そうに揺れる。ファンは回り続けている。

 

 

 翌日は家族とバギーに乗って遊ぶ予定があったので、淳に会う時間が作れないまま夜になってしまった。一日よく晴れていて、湿気もなく暑い日だったが、日が落ちた後は昨日の雨を彷彿させるような肌寒い空気が漂っていた。

 こんな時間こそ絵を描こうと思い、暁央はぐちゃぐちゃな寝室にイーゼルを立てる。昨日描きかけた下絵を無心に進めて、それからようやっと色を置き始めた。

 画角の中心には今にも沈みそうな太陽が細々と輝いていて、脇には手前で影になったヤシの木が一本斜めに揺れている。白い砂浜は基本的にずっとただ白いだけだが、たまに小さな貝殻や小石、誰かの脱ぎ捨てたサンダルが置きっぱなしになっている。

 空は、夢の中にいるような薄い紫色で染め上げた。そこにちょんちょんと、黄色や赤色などの蛍光色を馴染ませながら滲ませる。空の上部の、太陽の光が届かなくなってきている場所は深い群青色から漆黒にグラデーションにして、黒地に星を散りばめた。宇宙の鱗片だ。不安定に伸びる水平線を境にして、大海原も似た色を反射させてテラテラしている。波は穏やかで、海面はゼリーのようにゆるやかにした。

 誰の姿もない海辺だった。

 それが居心地良いと感じた。

 その日は、バギーで体を動かしたからか九時頃には寝てしまって、朝になって目が覚めたら五時にもなっていなかったので驚いた。しかし二度寝をしようとしてもできず、結局、仕方なく起き出してビーチへと繰り出した。

 朝焼けの砂浜には、透き通った日光と澄んだ酸素が溢れていた。きめ細かな白い砂はクロックスの底にまとわりつき、自由を奪うので、邪魔になって途中で脱ぎ捨てた。暁央の他にも何人か人はいて、それは小型犬を散歩させているサングラスをかけた婦人と、海岸にヨガマットを敷いてストレッチをしている若い青年だった。何の目的もなくただぶらぶらしているのは、暁央だけだ。

 やがて上手に歩けない足場に疲れて、波の届かない砂浜の中ほどに腰を下ろした。朝は街に喧噪がないからか、波の押し寄せる音が通常よりも大きく感じた。風も強いように思った。それは暁央にとって自然の素直さで、あるがまま、友人のような対等な立場で向き合って会話をしているような感覚にさせてくれた。

 淳と話しているときと似た感覚だった。

 そんなことをポンと思って、一人、頬を染めた。膝を抱えて座った背中を丸めて、顔面を腕の中に隠してしまう。

「淳さんに会いたいなあー」

 波の音が掻き消してくれる安心感のもと、自分の膝に向かって呟いた。

 そのとき、背後から「暁央?」と声がかかった。

 ぎょっとして顔を上げ、首を捻って後ろを確認すると、すぐ目の前に淳が立っていた。今日の彼は、「smile!」などという何の意味もない英字の書かれたティーシャツに、小中学生時代に誰もが散々着たような冴えない小豆色のジャージのようなものを羽織っていた。首からハンディファンを引っ下げていたが、それがまた蛍光イエローで発光しているようで、いっそ太陽よりも眩しかった。またオバマ元大統領のサンダルを履いている。お気に入りなのだろうか。

「こんな時間に何してるの?」

「え、あっ」

 例え強烈なトンチキファッションをしていても、昨日一日焦がれ続けて、その前の夜には抱かれる妄想をしてしまった相手だ。心臓がドンドンと肋骨を叩く。

「淳さ、ん」

 淳はなぜかテニスラケットを担いでいた。

「淳さんこそ、なんでこんなところに」

「いやあ僕は、ついさっきまで早朝テニスをしてたところなんだけど」

「早朝テニス?」

「最近の趣味なんだ。最近といっても、昨日からだけど」

 そう言いながら軽く笑って、淳は暁央の隣に座った。

 暁央はますますどきどきして、不必要に横顔をチラチラ盗み見てしまう。

「朝から汗を流すと気持ち良いよね。君も運動?」

「俺はただ、早く起きちゃって」

「いいことだね。早起きは三文の徳ってね」

 確かに徳なこと、あった。そう思ってまた横を見る。

 暁央はおずおずと言った。

「あの、さっきの俺の独り言、聞こえてました?」

「独り言?」

「聞こえてないならいいんです」

「うーん、わかんなかったな」

 淳が朗らかに言う。

「ていうか、風邪とか引いてないみたいで良かったよ。こないだ、結構しっかり雨に濡れてたから」

「あのあとすぐにシャワー浴びたので」

 嘘だった。本当は見てしまった淳の目と肌が引き金となって、淳に優しくされる想像をしながら自慰行為に耽ってしまったのだった。思い出していたたまれなくなる。罪悪感を誤魔化すようにひたすら前方を向き、海からの潮風を顔面に浴びた。

 朝焼けは、水平線付近に留まっている薄い雲からゆるやかに伸びるように色を濃くしていき、それは暁央が絵に描いているような紫色や桃色というよりは、もっと空気そのものに近いような――当然空気は無色透明なのだが、光量や酸素濃度まであらゆる指数を包括して存在する圧倒的な原始を威厳を持って再解釈したかのように、まばゆく荘厳な黄金色に染まっていた。光の画家ウィリアム・ターナーの絵画の中に入ったかのようだった。

 嘘をつき続けるのは苦しい。特に、誰のためにもならない自分自身を守るためだけの嘘だと、知らないふりをして生きているだけで良心が蝕まれる心地になる。

 暁央はまた隣を盗み見た。この人の前で腐りたくないなと思って、勇気を振り絞った。同時に、この人ならきっと馬鹿にしたりせずに受け入れてくれるはずだという信頼と期待もあった。

「懺悔をしてもいいですか」

 暁央は言う。

 彼の突発的な話題提供にはもう慣れっこの淳だ。

「いいよ」

 と、笑う。

「あなたに嘘をついていたことがあって」

 暁央は背筋を伸ばした。

「俺、本当は学生じゃないんです。大学は途中から通えなくなって、それで留年して、結局卒業できなくて、就職先も見つからなく、て……、今はカウンセリングに通いながらバイトしてて、それで……この旅行も、カウンセラーの先生からの助言だったんです。知り合いのいないところでゆっくりするといいって」

 淳は、すぐ横に目が眩むような甘美な朝焼けがあるというのに暁央だけを見つめて、静かに話を聞いてくれた。

「打ち明けてくれてありがとう」

「それと、まだあって」

 なんでも聞くよ、と淳が言う。

 暁央は続けた。

「ゲイなんです。俺」

 そう告げると、淳は唇だけをぱっと動かして口を半開きにした。

「この間、淳さんがカミングアウトしてくれたときに言えなくて、ごめんなさい」

「いいんだよ。打ち明けられたら同じようにしないといけないわけじゃないんだから。言いたかったら言って、言いたくなかったら言わなくていい」

 淳の顔の半分がしっかり朝日に照らされて、輪郭が飛んでいた。その反対側には濃い影が落ちていて、鼻や眉を縁取る窪みが強調されている。暁央は、その匂い立つ艶やかさに目を奪われそうになった。

「なんで今、打ち明けてくれたの」

 淳が言う。

 暁央は迷わなかった。

「今、あなたに知ってほしかったから」

 沈黙が落ちた。

 というより、沈黙の代わりを波の音が埋めた。一定のリズムで延々と波が打ち上がり、引いていく。辺りは、暁央がここへ来たときよりも明るくなっていて、日が昇る早さを目の当たりにして若干狼狽えた。

 暁央にとって世界は早い。

 しかし淳の隣にいる限り、そのスピードに疲労してふやけてしまうことはなかった。奇妙だった。どこにいようが時間の経過速度は大体同じはずなのに、淳と一緒にいる時間に限ってその被害から逃れられるというのなら、それは淳がなんらかの特別なパワーで暁央を擁護してくれているはずではないかと思った。

「暁央」

 淳は言い、喉仏を一度上下させて唾液を飲み込んだ。

「触ってもいい?」

「え?」

「手」

 淳が視線を落としたので暁央も見ると、白い砂が敷き詰められた海岸の上で、地面についた暁央の左手のすぐ横に淳の右手があった。小指同士が今にも触れそうだった。

 暁央も唾を飲んだ。言葉を発するのは難しかったので、首を縦に振って意思表示をした。

 まず淳の小指が暁央の小指に重なって、絡め取り、そのあと手の甲全体をきゅっと握ってきた。手と手が重なる。肌の間に砂も一緒に巻き込まれていて、感触はざらざらしていた。

「キスしてもいい?」

 びっくりして、手に落としていた目をバッと上げると、思っていたよりも至近距離で淳と目が合った。

「もちろん嫌だったらしないから、そう言って。断られても僕は気分を害したりしないよ」

 淳はそう言い、背後にさっと目を走らせて二人の他に誰もいないことを確かめた。

 ああ夢かな。そう思った。

 再度こっくり頷くと、淳が目を伏せながら近付いてくるのが見えて、次の瞬間には唇が触れ合っていた。その薄い肌から重なったままの小指、通り越してつむじ、そしてつま先まで電流が走り抜けて、気が遠のきそうだった。

 離れると淳は咳払いをして、首裏を赤く染めて顔を反らした。照れている姿に感動しながら、手は繋いだままでもよかったのになあと思っていると、淳が遠慮がちに言った。

「明日の夜さ、僕の棟、僕しかいないんだ。兄さんと義姉さんが両親を連れて登山に行くとかで。夜行バスで島の反対側に行くから、夜の六時半にここを出る」

「あなたは行かないんですか」

「うん。昔から登山って好きじゃなくてね。それで……」

 暁央は、淳が言葉に詰まって言いよどむところを初めて見た。彼は暁央を見つめたまま口を開いて、閉じて、やっぱりもう一度開いて、頬をごにょごにょさせて葛藤してから、控えめに言う。

「泊まる?」

「……。わかんないです、何て答えるべきか」

「正直に言っていいよ。思ったことをそのまま」

「そのままなんか言ったら、あなたはきっと俺を拒絶します」

「しないよ」

 淳は静かに言った。

「拒絶なんかするわけない。そのまま君の話を聞いて、そのまま受け止めるよ」

「でも、そのまま俺の話を聞いて、理解できなかったらどうするんですか。嫌になったら」

「理解できないのなんて当たり前だよ。だって僕と君は違う人間なんだから。それで嫌になったりなんかするもんか」

 淳は言う。

「理解できなかったら、理解できないまま傍にいるよ」

 その発言に感激しながら、暁央は次の言葉を真剣に選んだ。

「泊まりたいです」

 言うと、淳は無言で頷いた。

 暁央は深呼吸してから続けた。

「俺……、あなたがすごく、セクシーだと思います。あなたといると安心するし、眠いときみたいに心地良いけど、俺は性欲があるから、多分同じベッドで寝たらエロいことしたくなっちゃうと思う。でもあなたが望まないことはしたくないから、いくらあなたがバイで俺がゲイでも、一致? しないと嫌で……。つまり、こういうことを俺が考えててもいいなら、泊まりたいです」

 パチン! と破裂音のような鋭い音がして、なんだと思って目を上げると、淳が両手で顔面全体をしっかり覆っていた。

「夢? これ」

 手のひらで口まで覆ったまま、もごもご言う。

「暁央、僕のことセクシーだと思ってたの?」

「嫌な気持ちにさせましたよね。ごめんなさい」

「そうじゃなくて」

 と、そろりと指だけを動かして片目のみを覗かせる。

「嬉しいよ。僕だって君といやらしいことしたいと思ってた」

「へっ?」

「でも君のセクシャリティとか何も知らなかったし」

 指の間から辛うじて見える頬は血色良く紅潮していて、よく見ると淳は耳まで真っ赤になっていた。心底かわいらしかった。

「ちなみに……」

 淳がすごすごと腕を下ろしながら言う。

「僕は男の人とするとき、タチをやることが多いんだけど、君は?」

「ウケです、多分」

「なるほど」

 にや、と淳が笑う。

「偶然だね」

「そうですね」

 暁央も負けじとにやりとする。

「もう一回キスしていい?」

「何度でもどうぞ」

 暁央は近付いてくる淳を受け入れて、目を閉じる。

「またあとでね。また、明日の夜に」

 

 

 体温が空気を介して伝わってくるほどの距離で見た、あの、揺れる濃いまつ毛の影が忘れられない。世界で一番そばで嗅ぐ淳の匂いには温度があって、甘くて、同時に切なくて、居心地の良さと一緒に破壊衝動のような感情も湧き上がってきた。

 皮膚の表面だけが触れ合ったあの瞬間の、あれをキスと呼ぶことが許されるならば、あのキスこそが全ての赦しだった。あなただけが俺を赦してくれる。あなただけがこの世の全ての答えを知っている。あなただけが。あなただけが。

 翌日は何も手につかなかった。

 淳との約束の時間になるまで、暁央はぼうっとプライベートプールに浮き輪で浮かんだり、ショッピングモールをあてもなく歩き回ったり、部屋を少しだけ片付けたりした。ただ、絵を進めることはしっかりできて、先日キャンバスに置いた色に思うがまま色を重ねて、想像図により近くなるようキャンバスに厚みを持たせていった。六時になる頃には、納得がいく地点まで完成度を高めることができていた。淳にも見せて意見を聞きたいと思った。

 暁央はそれから、スマートフォンだけパンツのポケットに突っ込んで、気の張った思いで一階へと下りて行った。リビングには誰の姿もなく、テラスのハンモックに寝て読書をしている妹と、友達と一緒にバーベキューの準備をしている弟がいた。妹に聞くと、母は買い物へ行ったらしい。

 暁央が、今夜は外泊するから帰らないと母に伝えてほしいと妹に頼むと、彼女はソン・ウォンピョン『アーモンド』のハードカバーの表紙の上からじっと暁央を観察しながら、わかったとだけ答えた。でもお兄ちゃん、大丈夫なの? お母さんにどこに泊まったか聞かれたら何て言えばいい? 妹はそう聞いてきていたが、暁央は頷くだけで詳しくを説明したりはしなかった。

 柔らかい西日が差し込む夕暮れのビーチは、一面(海面すらも)濃いオレンジ色に染まってチラチラしていた。光を反射して瞬く砂は星のよう。広大な宇宙という海原に、暁央の裸足がザバと入って足首まで濡れる。海水は温かかった。途方もない遠さの地平線は揺れて、眺めているうちに溶けて夕空と一体化してしまいそうだった。

 少し離れたところで砂をいじって遊んでいた幼いきょうだいが、笑い声をころころ上げて走り出した。振り向くと、ポニーテールをしている五歳ほどの子どもが、もう一人と追いかけっこをしていた最中に転んでしまった場面だった。あ、と思って身を固めたが、その子どもは丸く笑って、追いついたもう一人と一緒になって笑顔を輝かせた。

 ヴィラの棟を一棟飛ばして、目当ての場所へ到着した。

 淳は、プライベートビーチと棟の敷地を出入りする柵のすぐ傍で、ヤシの木の幹に寄りかかって腕を組み、暁央の到着を待っていた。暁央の姿を確認するとパッと腕を解いて、背骨を木の幹から離し、ずんずんと歩み寄って来た。

 驚いて、暁央はぽかんと口を開けてしまった。今日の淳は蛍光色のシャツも、へんてこな柄のサンダルも、シワだらけの上着も身に着けていなかった。抜け感のあるゆるいシルエットの半袖カットソーに、上品な質感のパンツを合わせて、靴は見たことのないレザー素材のスリッポンを履いていた。髪も普段と違う、カジュアルだが綺麗めなスタイリングをしていて、おそらく少しメイクもしていた。

 言葉はこれしか浮かばなかった――かっこいい。

 その場に立ち尽くしたまま口をあんぐりさせていると、耐えられなくなった淳が、

「僕の服のレパートリーにいつものアレしかないと思われたら敵わないからね。ましてや君に」

 と苦笑する。

 それすら心底かっこよくてため息が出た。

「忘れる前に言っておきたいんだけどさ」

 室内へと歩きながら、隣で淳が言う。

「明日の夜、空いてたりする?」

「明日? 何もないです」

「良かった。実はさ、父と二人でディナーする予定で、あのビルの――と言いながら、淳は遠くにそびえ立つ高層グランドホテルを指差した――レストランとルーフトップバーを予約してたんだけど、両親が急用で明日の便で帰国することになって」

「急用? 大丈夫なんですか?」

「うん、ちょっと、知り合いが事故に遭っちゃったみたいで。でもきっと大丈夫」

 淳はにこりと微笑んだ。

「それで、どう? 一緒に」

「ディナーですか? 俺が?」

「そう。きっと夜景が綺麗だよ。島も海も見渡せる」

「確かにすごく高いビルですね。バルコニーがあるのも見えるけど、外へは出られないでしょうね、高すぎて。ジュリエットも真っ青だ」

「はは。ロミオの声も届かないだろうね」

 詳細を聞けば、予約の際にパスポートの情報を控えられたくらい厳重に顧客管理がされている豪華で盛大なレストランとのことだった。ドレスコードがあるだろうなと少々気が張りながらも、普段の生活ではなかなか経験できないだろう種類の食事に胸が高鳴る。

 一瞬、脳裏に母の顔が過ぎった。

 しかし暁央は快諾して、礼を言う淳の横顔を穏やかな気持ちで眺めた。

「それじゃあ、ご両親は登山には行けなかったんですか」

「いや、飛行機が明日の夕方発のものしか取れなかったんだ。だから予定通り登山には行ったよ。帰ったらすぐ空港に向かうみたい」

 二人はそれから、淳の手料理で腹を満たして、しばらくソファーに座っておしゃべりしたあと、まずは暁央がシャワーを浴びる流れになった。シャワールームへ向かい、体を綺麗にしつつ、淳を受け入れるための準備を念入りに行った。お互いにとって良い夜にしたかった。

 上がりましたという報告と共にリビングへ戻ると、淳はソファーに腰掛けてネットフリックスで何かを鑑賞していた。声をかけると、「急いで浴びてくるね」と言い残してさっさと浴室へと行ってしまったので、暁央は上着の袖を口元に当てて、借りた淳のルームウェアの匂いをすんすん嗅ぎながら、部屋をなんとなくうろうろした。

 静かだった。とても。じっとしていると空調の音しか聞こえてこない。自分の心臓の鼓動まで聞こえるようで、暁央は落ち着かなかった。そわそわとリビングをうろついていると、やがて浴室のほうから物音が届き始めた。シャワーの湯が床に弾けるシャーという柔らかい音、ガタ、ゴン、と、シャンプーのポンプか何かをどこかに置く音、淳のくしゃみ、体をこする音が鳴っては消える。

 暁央は廊下を歩き、しばらくぼうっと立ったままそれらの音に耳を傾けていたが、そのうちなんとなく足音を潜めて寝室のほうへと移動した。

 そっと扉を開ける。大きなベッドは丁寧にメイキングされていた。汚れひとつなく湿度の保たれたベッドルームは隅まで清潔な印象で、暁央はふわふわした心地になった。同時に、床まで汚い自分の寝室を思い出してしまっては苦しくなる。シャワーの音が遠くなる。森林の中に立っているような、リラックスする透明な良い香りがした。ベッドサイドのテーブルには、時計やティッシュペーパーやスマートフォンの充電器が置いてあり、わずかではあるが淳のここでの生活感を覗くことができた。どきどきしてきて、ふらりとシーツに腰を下ろした。

「暁央?」

 切羽詰まった声とともに扉が勢い良く開いて、中途半端に髪と肌を濡らしたままの淳が顔を出した。シャワーの音が鳴り止んでいたことに気付かなかった。

 廊下の光からの逆光で顔はよく見えなかったが、おそらく不安げな表情をしていることは声色でわかった。

「良かった、いた」

 淳がハアと息をつく。

「帰っちゃったのかと思った。どうしようかと」

「直前になってしたくなくなって、逃げたのかと思ったんですか」

 暁央は立ち上がり、淳に軽いキスをした。

「このとおりちゃんと待ってますから、早く髪乾かしてきてください」

「はい……」

 ぽてぽてと淳が浴室へ戻って行く。すぐにドライヤーの音が聞こえてきたので、暁央はドアを閉め直して、ベッドに横になった。

 普段は飄々と、年上らしい余裕綽々な調子をファッションのように身に纏っているくせに、ああいったシーンで急にかわいらしくなるから困るのだった。暁央は淳の枕に顔をうずめて、口角が上がるのを押さえつけた。

 二度目に顔を出した淳はきちんと乾いた髪をしていて、薄手のシャツも羽織っていた。

「待ちくたびれました」

 ジョークのつもりでそう言い、横を向いて寝転がって肘で頭を起こすと、地面がぐっと沈んで淳もベッドに乗っかってきた。隣に横になる。

 引き寄せられた腰が淳の両手によってフッと浮き、次の瞬間にはふかふかのベッドに仰向けに横たえられていた。あれと思ったときには、淳が暁央の頭を優しく枕に収めていて、目を上げた先では淳がこちらを見下ろしていた。

「待たせてごめん」

 と、手で包んだ頬にキスされる。映画に例えたら、場面が暗転してシーンが突然切り替わった瞬間のようだった。

 暁央は急にどぎまぎしてしまい、つい目を反らした。本当にするんだ、と実感が湧いてきてそのまま緊張になる。

「……電気、消してください」

「消したい? 僕は暁央の裸、よく見たかったけど」

「な……は……っ?」

 目を白黒させる暁央を見て、淳は笑った。

「暁央が望むなら、もちろん消すよ」

 頼んだくせに後悔することになった。淳がしぼりを回して寝室の照明を落とした途端、彼はそれはもう目も当てられないほどセクシーな男性になってしまって、暁央は動転して「うわ」と呟いてしまった。

 その小声に反応し、淳が暁央を見る。黒髪が、セットしていないしっとりとした大人しい髪が、筆先のような彼の目を影にしていて、その隙間から見える瞳の光は射抜くようだった。あの目だった。宇宙だ。薄く開けられた唇から歯の白が覗いている。ファンデーションを塗っていなくてもこんなにも綺麗な凹凸のない肌は陶器のようで、彫刻のようで、そこから下へと視線を動かすとスッと通った首筋で目が止まった。

 淳は、仰向けに横になった暁央に跨ったまま、躊躇なくシャツを脱ぎ捨てた。暗く濃いオレンジ色にぼんやり照らされる彼の上半身、形よく割れた腹筋や吹き出物ひとつないさらりとした肌に落ち着けない。淳はそして邪魔そうに髪をかき上げた。はらりと戻ってくる前髪と一緒の動きで、湿った空気を持った二重が暁央をじっと捉えた。

 その瞬間、暁央は微動だにできなかった。自分の心臓の音が耳元で鳴り響いているのを聞きながら、暁央はただ、淳がシーツに手をついて自分のほうへ覆いかぶさってくるのを見ていた。距離が近すぎて空気を通じて体温が伝わってくる、と思っていると、実際に肌が接触して電流が流れた。

 後頭部が深く枕にうずめられる。硬直してただ淳の挙動を見つめることしかできない暁央に、淳は少し口角を緩めてから「暁央?」と声をかけた。暁央は、自分でもぎょっとするほど震えた手で淳の腕に触れ、やっと酸素を吸った。

 すっと落ちてきた影の世界で、淳の唇が暁央に触れた。耳元で、今度は心臓の鼓動に重ねて布のこすれる音がした。ごわごわと重い音。それから淳の手の平が暁央の髪を撫でた。鼻から息が抜ける。体中がぞわぞわして、汗腺から汗が湧いてくるぷつぷつとした感覚がむず痒い。角度を変えながら、唇を食むたくさんのキスを繰り返され、雰囲気の急変したそれにうっとりしていると舌が侵入してきて、思わずぎゅうっと淳の腕を掴んでしまう。

 唇を何度も重ねていると呼吸が苦しくなってきて、ああもう一度歯磨きをすればよかったと反省した。酸欠。離れた瞬間に息を吐いて吸ったが、すぐにゆっくりまた口を塞がれてしまって理解が追いつかない。最後に小さくリップ音を立てて離れた頃には、もうすっかり体が痺れてしまっていた。ただもう目眩がするほど気持ちが良くて、この先に早くたくさん溺れたくて、それ以外のことがどうでもよくなった。

 勢いで、淳に組み敷かれたまま、上半身に着ていた服を脱いで床に放り投げた。暁央は淳を下へ抱き寄せ、耳に音を立てて口づける。

 淳のひんやりした手の平が、暁央の腹部から上へ上へとのぼってきた。触れられた箇所から血液が沸騰するようだった。同時に額に、頬に、それから首筋に口づけられて、一体どこに集中していいのやらわからない。鎖骨から首をねっとりと舐められるのが耐えられないほど気持ち良くて、つい脚が動いてしまう。首から耳の裏を、淳の舌と唇が滑っていく。寝室の天井がぐらぐら揺れて見える。淳の後頭部を抱き込め、淳さん、と精一杯呟いた。

 本当に今、この人とこのようなことをしてしまっているのだとしたら、それは夢のようだし実際に夢かもしれなかった。夢かうつつか判断しきれない。

「暁央、香水か何かつけた?」

「っ、つけてない、です」

 そんなことどうでもいいじゃないかと思いながら、暁央は懸命に淳にしがみついた。

「すごく良い匂いするけど。甘い、ホイップクリームみたいな」

 淳が喋るたびに耳に息がかかり、鳥肌が立った。ぞわぞわする感覚に目眩がする。体温が高い。そのうちに彼の唇が顔周りから下がっていき、手の平で優しく腹を撫でながら胸にキスされた。乳首も舐められて、甘噛みまでされた。くすぐったくて体を動かしてしまう。

 淳は体の隅々まで舐め回すつもりなのか、飽きもせず丁寧にそこらじゅうに唇と舌を這わせた。それだけで脳みそが蕩けてしまいそうだった。腰まで下がってこられると焦り、スラックスに手をかけられると思わず、腕を掴んでストップをかけてしまった。

 きょとんと、淳が目を上げる。その顔が股間の数センチ上にあったので、暁央は慌てて肘をついて少しだけ上体を上げた。

「淳さん、おれ……」

 思った以上に上ずった声が出てびっくりした。

 淳は悪戯っぽく笑うとそのまま、暁央が履いていたスウェットの下を脱がせて床に放り投げた。それから、起き上がっていた暁央を寝かせて、また覆いかぶさるように近付くと、一度だけ軽く口づけて笑った。

「……いい?」

 余裕のなさそうな微笑みに、深い目と低い声だ。

「暁央のここに触りたい。でもだめなら、もちろんやめるよ」

「だめでは……」

「少しでも嫌なら言ってね、すぐやめるから。逆に、してほしいことは何でも言って。暁央が望むこと全部するよ」

 ずっと戸惑ってばかりだったが、暁央の動揺はもう最高潮になっていた。恥ずかしいのと、早く触ってほしいのと、この先が怖いのと、この先を味わいたいのとで、頭がぐわんぐわん回る。

 それでも待ってくれる淳を見上げて、暁央は、こくこくと頷いた。

「っさ、さわ……触っ、て、ほしいです」

 すぐにキスができる近距離でじっと見つめられるのを必死に見つめ返していると、腹を撫でていた淳の手が、ボクサーパンツの上からそっと性器に触れてきた。

 まるでとても大事な人と体を重ねるような手つきだ。あたたかい手の平で何度も撫でられて、同時に瞳を瞬きもなく見つめられて、腰がじんじんと痺れた。は、と息があふれる。ついに下着の中に手が入れられると、彼は策士のように同じタイミングで唇を深く重ねてきた。何度も角度を変え、口内に侵食してくる。体の下のほうでは、器用に片手でパンツを少し下げた手が暁央の性器に触れて軽く扱き始めて、もうごまかしきれないくらいに息が上がってきた。湿った吐息が漏れ続ける。キスが深くて、鼓動が速くて、息が苦しい。

 気持ちの昂りのせいか、淳がせっかく性器を扱いてくれているのにあまり快感を得られず、しかしそれよりも淳のほうにも気持ち良くなってほしくて、暁央はなんとか彼の腰に手を伸ばした。ズボンを下げようとしたが、手が滑って上手くいかない。

 それに気付いた淳は、一度唇を離すと、何か問いたげに暁央を見下ろした。

「淳さんも脱いでください」

 と、暁央が言う。

 情事の最中のふたりきりの寝室があまりにも静かで、自然と小声になる。淳は上がった呼吸のまま「じゃあ」と続けた。そして、

「暁央が脱がせて」

 と言い、にやりとした。普段とは全く違う種類の微笑み方をする淳の全てが、真新しい。

 暁央は、淳のゆるいスウェットパンツのゴムに手をかけ、腰で適当に縛ってあった紐をするっと解くと、淳が見つめてくる中、そろそろとそれを下ろした。中にあったのは、黒いボクサーパンツだった。とんでもない色の下着を履いていることをむしろ期待していたが、そうではなかった。

 淳の性器は勃起していたので、暁央はついそこから目が離せなくなった。暗い部屋の中、よく観察はできないが確かに勃起している。安堵と動揺。暁央は淳とセックスがしたいとは思っていた、思ってはいたが、いざ実際にことに及ぶとなると、不安と心配があまりにも大きかった。淳さんは俺で興奮できるのだろうか、とか。いざ挑もうとしたときに淳さんが何も反応しなかったら俺のせいだ、とか。しかし今、目の前で彼はどうやら性的に興奮しているようなので、暁央は安心と動揺と、そして嬉しさで涙が出そうになった。

 淳は再び暁央に跨ると、自然な流れで暁央の性器と自分のものを一緒に握って扱き始めた。とんでもない光景に慌てたのも束の間、今度はいっきに快感が押し寄せてきたので、びっくりした。

「淳さん」

 弱々しく声をかける。顔を上げた淳は眉と目の間に距離がなくなっていて、は、は、と早い呼吸を繰り返し、手を上下に動かし続けていた。暁央もそこに手を添える。裏側にごりごり当たる淳の性器の骨が気持ち良くて、気が遠のきそうだ。

「気持ちいい? 暁央」

「はい……すごく」

 それはよかった、とほころんだ淳の笑顔が、現れてはすぐに消えた。

 彼は眉をぐっとしかめると、下唇を噛んで目を閉じた。

「一回出していい?」

 なんだかものすごいことを聞かれた気がしたが、暁央のほうもいっぱいいっぱいだった。片手でシーツに手をつき、もう片方の手は夢中になって動かし続ける淳の姿が、つい先ほどまで余裕しゃくしゃくで丁寧に前戯をしていた彼とはまるで様子が違く、興奮した。

 暁央は両手で淳の顔を包み、引き寄せてキスをした。

「何回でも出してください」

 途端、淳が息を詰める。手の動きが一瞬止まった、と思うと、へその辺りにぴっと液体がかかった。淳は息を止めたまましばらく快感をやり過ごしていたが、そのうちに呼吸を戻して手を離した。

 そしてすぐ、腹の上に出してしまったことを謝罪してきた。暁央は淳の表情のほうから目を反らせなくて見ていなかったが、淳は精液があまり飛ばないように指で押さえていたようなので、暁央の腹がそこまで汚れたわけではなかった。それでも本当に申し訳なさそうに謝ってきた。それを汚れとは思わない暁央は、謝られる意味がわからない。

 淳は丸めたティッシュをゴミ箱へ見事に投げ入れると、間髪入れず暁央の膝を割ってきた。そして脚の間に顔をうずめて、まだ勃起したままの暁央の性器に触れた。

「舐めてもいい?」

 暁央は恥ずかしくて顔を両手で覆った。指の間から「はいぃ……」という消え入りそうな声が漏れる。淳は竿の部分を持ちながら、暁央の脚の付け根ぎりぎりに唇と舌を這わせた。ぞわぞわとまた上がってくる痺れに、脚がつい動いてしまう。そうして淳は、暁央の性器の先端に何度か口付けると、舌に唾液を含ませながら裏筋をつうっと舐め上げた。

 思わず喉からひゅっと音が出た。ぬるぬるした舌の感覚が直接神経を刺激してきて、今、淳の口がどんな動きをしているのか筒抜けでわかってしまう。彼は下を向いているので、髪に隠れて表情はよく窺えないが、バランスの良い骨格を背中で折って丁寧に口淫をする淳の姿は、見てはいけないものを目の当たりにしているかのような、背徳的な気持ちにさせた。

「っ淳さ……」

 口内の温かさに目眩がするほど感じ入ってしまって、暁央は彼の様子を見るのに半分起こしていた上体をばたりと後ろに倒した。枕が後頭部を包む。

 やがて、口で扱くように本格的に上下に動き始めた。先ほどから絶え間なく興奮しているので、すぐに達しそうになってしまう。そろそろを感じ始めた暁央は淳の頭に触れ、出してしまいそうなので離してくださいと懇願した、が、淳のほうは聞く耳を持ってはくれず、情けなくそのまま絶頂を迎えてしまった。

 ごめんなさいと思えたのは一瞬。その次の瞬間にはもう、望んでいた快感が押し寄せてくるのにどうにか耐え、呼吸を荒げながら目をつむっていた。

 暁央が力の抜けた体をようやく起こしたときには、淳はティッシュペーパーに精液を吐き出していて、口の周りを拭いているところだった。

「気持ちよかった?」

 そうにっこりしてくる。暁央はまたはいとしか言えない。絶頂の直後で体に力が入らない。淳はそんな暁央を気遣い、サイドテーブルに置いておいたローションを手に取ると、「楽になったら言って」と言った。

 射精のあとは大抵、性的興奮など一気に萎んでしまって、たった今までの自分に対しどうしてあんなに興奮していたのかと訝るものだったが、今日に至ってはなぜか全くそれが納まらず、この先をもっと早く感じてみたい気持ちが上昇していった。

 暁央は仰向けに寝たまま、頭上に並んでいたクッションのうち一つを鷲掴みにし、自分の腰の下に敷いた。それを丸くした目で見ていた淳は、膝を折った暁央のすぐ傍まで這ってくると、汗で湿った暁央の髪を数回撫でた。

「もういいの?」

 こく、と頷く。

 淳は暁央の恥ずかしさを考慮してか、さらにちょっとだけ照明を落とすと、暁央の脚を開かせてその間に膝をついた。萎えている性器がだらしなく伸びている。好きな人に向かってこんな風に足を開いて、こんな醜態をさらすなんて、どうしてセックスは好きな人としたくなってしまうのか理由がわからない。

 淳が身を屈め、暁央の脚のつけ根ぎりぎりにキスをした。わ、と思っていると、つーっとそこから膝まで舐め上げられて、予想していなかった動きにビクッと脚を動かしてしまった。太ももに唇を這わせながらチラリとこちらを見た目は鋭く、燃えていた。

 脚のつけ根に軽く歯を立てられた。鼻から高い声が出た。手で温められたローションで尻を撫でられながら、性器までもを舐められると、みっともなく再び勃起しそうになっていた。なんて単純な。

 やがて、ぬるぬるした指が尻の割れ目に滑ってきて、急に怖くなった暁央は傍のシーツを握ってごまかそうとした。こちらの顔色を窺いながら尻の穴に触れる淳の目は確かに優しくはあったが、多分、興奮していた。

「大丈夫? 暁央」

 痛くないか、気持ち悪くないか、表情を観察されるのも耐え難い羞恥ではあったが、だからといってじっと尻を見られるのも恥ずかしくて悶えそうだった。

「ここ、解しておいてくれたんだね」

 と、淳は身を乗り出して暁央にキスを落とし、同時につぷっと中指を侵入させた。

「っあ」

「痛かったらすぐ言って」

 汗で額に張りついていた暁央の前髪をかき上げると、淳はその額に唇を押しつけた。

 そして彼はそのまま、低く言う。

「……ごめん、ちょっと、思ってたよりやばいかもしれない」

「へ……?」

 下半身に感じる異物の侵入がぐっと広くなる。暁央本人によって緩まった穴は易々と淳の指を飲み込んでしまって、ぐぐ、と奥へと進もうとする圧力に感じたことのない痺れが走った。

 自分自身では届かない奥に、淳の骨っぽく長い指が何本か入り込んで、軽く入ったり出たり動き始めた。例えば、ディルドを突っ込んで感じる感覚とはまた違っていたし、なにより、自分の意思で好きに動かすことができるわけではない状況が、未知だった。異物感にあっという間に呼吸が上がった。少し怖い。胸を大きく上下させて息をする暁央を見下ろし、淳のほうもこめかみに汗を光らせた。

「暁央、中、すごく熱い」

 淳の指がゆっくり動き続ける。

 暁央は、シーツを握っていた手に力を込めた。

「淳さん、それ、やば……」

「こんな……だめだって……」

 がくっと、淳が手を動かしたまま、上体を倒して暁央にもたれかかった。

 目を上げた瞬間に見えたのは、余裕なく食いしばった歯と眉間の皺だ。

「早く挿れたい……」

 耳元でそう言われた途端、便意に似た異物感に恐怖と不快感を抱いていた暁央の意識が、ぶわっと吹き飛んだ。頭の中が真っ白になった。

 暁央はシワのついてしまったシーツから手を離し、淳の背中をさすった。嘘のように熱い背中だった。

「淳さん、俺も同じです」

 上下する淳の指が気持ち良いところを刺激してきて、たまらない快感に腰がひくひく動いた。

 ゆっくり顔を上げた淳はすっかり切羽詰まった表情をしていて、暁央と目が合うと、眉を寄せた顔のまま大きく息をついた。

「暁央」

 ずいぶんと湿った声色で俺の名前を呼ぶもんだ。

 暁央はその口を一瞬だけ塞ぎ、囁いた。

「早く挿れて」

 

 

 目を開けると、全く慣れない天井が見えてぎくりとした。振動を立てないように横を見ると、くしゃくしゃの髪をした淳の寝顔がすぐ傍にあり、平和そうな顔でまだ眠りの世界を泳いでいた。

 夢ではなかった。

 ほどよく鍛えられた体越しに見えたのは淳の寝室の窓で、しっかり閉められた遮光カーテンの隙間から朝日が差し込み、健康的な色で外の天気を教えてくれていた。今日は快晴だろう。ベッドの隅に置いておいたスマートフォン(昨夜、充電するのをすっかり忘れていた)で時刻を確認すると、もう午前九時を過ぎていた。ずいぶん眠り込んでしまったらしい。

「淳さん」

 小声で言う。

「淳さん」

「ん……」

 淳はすぐに起きた。

 険しい表情で片目をこすり、うーんと唸る。

「もう九時ですよ」

 それを聞いて淳は一瞬目をこじ開けたが、すぐさま再び瞼をしっかり下ろしてしまった。そして、寝起きとは思えない頑丈さで暁央を抱き寄せ、髪に鼻先をうずめた。シーツと耳が擦れてごわごわと音が鳴る。気付けば、淳の素足がいつの間にか暁央の両脚をがっしり挟み込んでいて、強い四肢に拘束されているような状況になっていた。痛いよ淳さんと言っても、淳は起きない。

 少しだけ腕の力が弱まった隙に顔を見上げると、眩しそうに目を細めて眉間にシワを寄せる寝起きの淳と目が合った。

 やがて淳は、口角の片方を上げて笑った。

「あきぉ……」

 まだ寝惚けているのか、寝惚けたふりなのか、顔じゅうに何度もキスをしてくる。

「ちょっと、淳さん」

「かわいいな、暁央。君に起こされる朝なんて、最高だよ」

 と、淳はぼやぼやした声のまま、唇にひときわ深いキスをした。

「こんな風になれたなんて、夢か現実かわかんないな」

 淳の手がするりと暁央の前髪を撫で、そのまま頬を撫でた。鼻先が触れそうな距離で、それでも一心に瞳を見つめてくる淳の射抜くような目がたまらなくて、一生の標的になったようだった。もう動けなくなってしまう。体も心も。

 暁央はバッと上体を起こし、仰向けに寝たままの淳の腰辺りに跨って座った。

 昨夜、必死の思いで何度も組み敷かれた体勢とは逆の格好で、淳を見下ろした。彼は目を細め、不敵に笑っていた。その様が目を覆いたくなるほど毒々しい妖艶さで、枕に包まれている細い黒髪も、ちらと見える真っ白な歯も、なにもかもが造りもののようだった。

 身をかがめてシーツに手をつく。暁央を見上げていた淳の顔に、影が落ちた。両手で顔を包み上げるようにして唇を重ねると、淳の手が暁央の尻から腰を上がってきて、舌を絡ませながらそのあたりを何度もさすった。暁央はほとんど服を着ていなかった。淳から借りたボクサーパンツと、淳から借りたルームウェアだけを着ていたので、淳の手の平の温度が直で伝達されてくる。

 一度知ったものに対して、体は実に正直で素直だ。殴られた経験のあとには反射で拳を避けるように、檸檬を見ると唾液が勝手に出るように、淳のこの手に触れられると、体の芯が反射的に勝手に熱くなった。腰が浮き、股間周りがうずうずした。

 昨夜。

 初めて淳を受け入れた暁央の体は最初、緊張からか、なかなか解れずカチコチに突っ張っていた。しっかり性行為の準備はしたものの、感覚が痺れていた。しかし、細々と会話をしながら淳に安心を与えられ、優しく丁寧に愛撫されているうちに、今度はびっくりするほど快楽を得るようになった。本当に好きな人とすると、こんなにも気持ち良いのかと。涙が出る。

「暁央」

 暗がりの寝室で、汗と涙でぐちゃぐちゃの視界で、淳が微笑む。

 額から流れた汗が顎を伝い、ぽた、とシーツに垂れた。

「大丈夫?」

 大丈夫もなにも、もうとっくにだめだった。

 暁央は仰向けに倒れた体勢で、腰の下に枕を敷いて、両脚を上げていた。自分を組み敷く淳の筋肉質な腕を、夢中で掴んだ。もう片方の手は、腕ごと顔の上に乗せて淳の視線から隠して、どうしても平気なふりができない今の状態を見せないように頑張った。歯を食いしばる。

 ぐぐ、と奥へ入り込もうとする淳の性器が内臓を抉るようで、腸を食うようで、感じたことのない感覚に泣かずにいられなかった。体内の深くを突かれると、一瞬吐きそうに気持ちが悪くなるのに、ずるりと引き抜く動作をされると、身悶えするほど気持ち良かった。

 ゆっくり、様子を見ながらそれをしばらくやられていれば、痛覚がなくなり宙に浮くようになる。閉められない口から勝手に上ずった声が漏れてしまって、何度も何度も淳の名前を呼んだ。他人に胎内を抉られる感覚、味わったことのない快楽の中に溺れていても、そこに恐怖があったとしても、傍に淳がいるのなら、大丈夫だと思った。

「淳さん」

 すっかり勃起して硬く大きくなっているものが、細かい振動で出たり入ったりを繰り返す。淳は呼ばれると目を上げ、ん、とだけ反応した。ぱちゅ、ぱちゅ、と、粘り気を持った肌が何度も何度もぶつかる音がする。眉を寄せ、形の良い口を薄く開き、笑顔など忘れ去ったかのような顔つきで腰を振る淳の姿は、まともに見てしまうと脳みそがぼうっと麻痺した。

 淳が腰の動きを遅めずに一度ふと上を仰ぎ、長めに息を吐いた。それから小首を傾げて暁央を見つめ、無言のまま、律動しつつ妖艶に笑う。

「ぁ、あつ、しさん」

 もう絶対に他の誰にもこれを見せるもんかと思った。

「気持ち、い」

 甘えたくて甘えられたくて、ねだるように手を伸ばした。その指はあっさり絡み取られ、しわくちゃのシーツに押しつけられる。

 近くに覆いかぶさってきた淳を見上げると、部屋の照明からの逆光で表情が影になった彼が、「暁央」と名を囁いた。スピードを落とした淳は一度上体をあげ、暁央の脚を持ったまま、空いているほうの手で髪をかき上げた。手首をぐっと掴まれ、その反動で体が起き上がった。淳の性器がずるりと体内から抜ける。その冷や汗をかく感覚にぞわりと身を震わせると、それに気付いたのか、淳は暁央の頭を撫でてそっと言った。

「後ろ向いて」

 言われるがままにシーツに手をつき、暁央は四つん這いの格好になった。背中側から淳の手が回ってきて、抱き締められたあとに腰を掴まれる。この人に向かって尻を突き上げるなんて、恥ずかしいことこの上なかったが、そのままぐっと尻を割られて穴を広げられると、恥ずかしさよりもその先への期待が勝ってしまった。

 ローションでぬるついたそこに、勢いをつけて入り込まれた。すっかり緩くなった出入口はもう痛みなど感じなくなっており、健気に快感だけを拾ってきた。

「――……ッ」

 声にならない声が上がった。開いた口から、かはっと息が抜け、鳥肌が立った。

 背後からは淳の荒い息の音もして、余計に興奮した。

「暁央の中、すごく気持ち良い……」

「淳さん、もっ……」

「ん……っ?」

「動いて……もっと、」

 もっと、何なのかは言えなかった。途端に始まった肌の衝突する音が、静かな寝室にそれだけ響いて卑猥すぎる。長い夜だった。

 セックスをしているときの淳は、思っていたより余裕がなかったし、所作の全てが丁寧で優しかったかというとそうでもなかった。しかし感情が行動より先に突っ走ってしまうような淳を見ることができたのは、ある意味貴重なことだった。なにより何物にも代えられないほど、それは実際に大泣きしてしまうほど、幸せだった。求められる嬉しさと、求めれば応えてくれる信頼と、自分を見つめる目の生命の美。

 思い出しただけで胸が狭くなり、落ち着かなくなった。また昨夜に戻りたかった。しかし、朝を迎えた淳の寝室はいじわるに明るく、快晴で、容赦なくあたりを新しい今日にしてしまった。

 ベッドが少し沈んで、また浮いて、ギギというバネの軋む音とともに淳が立ち上がった。あくびをしながら寝室を出て行き、廊下のほうから「コーヒーでも飲む?」と声をかけてくる。

 まだ頭がぼうっと重くて、寝不足かもしれないと危惧した。昨夜何時間起きていたのかはもはやわからないが、九時という不規則な時間に起床してしまった時点でシャキッとは起きられない。暁央は寝返りを打った。くしゃくしゃのシーツの波を掻き分けて、そのへんに転がしておいた自分のスマートフォンを探し当てた。

 画面を明るくしたのと同時に、ベッドサイドのテーブルについている薄い引き出しが少し引かれたまま開いているのが見えて、こんなに整理整頓されている部屋の借り主なのにへんてこだなと思い、気になって元に戻そうとした。すると中でチカリと光るものが見えた。

 引き出しの隙間を増やすと、そこにはひとつの指輪がしまわれているのがわかった。

 細くて軽くて、かつうっとりするような気品のあるリングだった。シルバーの細かな宝石が埋め込まれていて、それが緩く湾曲した線になってぐるりと半周している。綺麗だった。くるくる回して眺めていると、リングの裏側に洒落た斜体で「Just Married」と刻印してあるのが見えた。意味は「結婚しました」だ。

「暁央」

 廊下の先から淳の声がした。

 暁央は慌てて指輪を元の位置に戻し、立ち上がった。

「コーヒー淹れたけど飲む? 君、カフェインいけるくち?」

 焦った様子で目を見開いて自分を見る暁央を変に思ったのか、淳は数回まばたきをして固まった。その目線が暁央から、暁央の立っている場所、そしてその横にある引き出しに移る。

「俺……、俺、帰ります」

 暁央は借りたルームウェアを脱ぎ捨てて、床やベッドの上で丸まっていた洋服を手当たり次第に掴んで、ハーフパンツとシャツだけ着て寝室を後にした。玄関ではなくリビングの大窓のほうへ急ぎ、そこからテラス、プライベートプール、ビーチに向かって走り去る。

 戸惑いながら言った淳の「またあとで」という言葉が聞こえた気がした。

 不倫? 浮気?

 よく知らない不穏な単語が思考を過ぎる。

 混乱したまま帰ると、建物の中には運良く妹の姿しかなかった。彼女はテラスに置いたパラソルの下で誰かとビデオ通話していて、暁央が戻ってきてからもお構いなしにしばらく楽しげにしゃべっていたが、魂の抜けたような暁央の青い顔を見るとただ事ではないと察知して通話を止めた。

 暁央はリビングのソファーに身を投げた。

「お兄ちゃん」

 妹が気遣わしげにこちらを窺ってきた。

「大丈夫? 昨日、どこ泊ってたの?」

「……このヴィラの近くの棟に泊まってる人といい感じになって、その人のところにいた」

「えっ」

 妹は瞬時に満面の笑みになり、両手で口元を覆った。

「うっそ。やるじゃん」

「でもその人、結婚してた」

 愕然として言葉を失った妹を尻目に、暁央はのっそり起き上がった。

 全身の筋肉、いや細胞を奮い立たせて地を這うように寝室へ向かった。

 いつだってそうだ。自分の愚かさは自分が最もよくわかっている。

 

 

 高層グランドホテルのレストランでディナーを共にする約束を淳としていたことをすっかり忘れたまま、午後四時前まで何もせずに過ごした。そうだったと思い出したときには日が傾いていて、起床したままの格好でベッドの上に転がりながら、どうすればいいんだ、とぼんやり考えた。食事どころか何もする気が起きなかったし、初めて淳に会いたくないと思った。

 新鮮で健康的な日光を遮断するカーテンを閉め切った部屋で、ひとり、ため息をつく。するとちょうどそのタイミングで耳障りな電子音が鳴り、誰かが暁央のスマートフォンに連絡してきたことを通知された。

 お互いの連絡先を知らないから淳のはずはないのに、真っ先に彼の名前が浮かんでしまう。

 充電コードを足の指で絡め取り、引っ張って、手元に端末を寄せる。明るくなっている画面を見ると、カウンセラーからのメッセージだった。

――日に当たることができていると聞いて喜ばしい思いです。疲れる前にしっかり休んで、無理はしないでね。帰ってきたらフルーツサンドの話を聞かせてくださいね。

 涙が出そうになったのでぐっと堪えた。そうだ。そもそもこの旅行は療養が第一の目的で、暁央の症状が改善されるような様子が見られない限り、意味のない数週間になってしまうのだった。責任という漢字二文字が、腹あたりにずんとのしかかる。

 そこからレストランまでの道のりを、暁央は全く覚えていなかった。

 ただゾンビのように足を動かして、気が付いたらグランドホテルのエレベーターに乗って最上階を目指していた。

 ポン、という上等な木琴でも叩いたような音とともに扉が開いて、てっぺんのフロアに到着した。降りた目の前には真っ白な花が飾られたいかにも高価そうなオブジェがあり、その近くに案内人のスタッフが控えていた。右手がレストラン、左手がルーフトップバーだと説明されたので、言われるがままにとりあえず右へ進んだ。

 角を曲がると、煌びやかな金色とオーガニックな新緑色のコントラストが目を引くレストランの入り口の手前に、待ち合わせ用なのかソファーがいくつか設置されていた。ポツポツ人が座っている中に、淳の姿もあった。

 彼は暁央がやって来たことを知ると、迷いなくずんずんとこちらへ近寄ってきた。まるでこれから寒いところへ赴くかのようなコートを着て、片手でキャリーケースを引きずっていた。

「暁央」

 淳は息が少し上がっていた。

 急いでここへ来た様子だった。

「ごめん、君に謝らなくちゃいけないことがあって」

 暁央の脳裏に、日の光の中くっきり見えた結婚の英単語がよみがえった。

 何も言えない暁央に、淳は早口で言う。

「実は僕も急遽帰らないといけなくなったんだ。このあとすぐ、両親と同じ便で」

 暁央は思考が働かない。

 この人は一体、何を言っているのだろう?

「知り合いが事故に遭ったって言ったよね。最初は両親だけでその人のところに行くつもりだったんだけど、やっぱり僕も行ってあげたくて。大切な人なんだ。本当にごめん。ディナー、楽しみにしてたのに」

 ああ、そうですか。一大事ですもんね、もちろん行ってあげてください。

 言葉の形になれない文字情報が、額らへんに浮かんでは漂う。

 暁央は視線をゆっくり下へと移していき、しきりに謝罪を繰り返している淳の左手の薬指を見た。そこにはなにも嵌められていなかったが、かつて長い時間なにかがぴったりくっついていたかのように、その一周分の肌だけ日焼けが避けられて白く浮いていた。

 妻さんのところに行くんだ。事故に遭ったのはきっと、この人の妻だ。――暁央は直感した。まだ申し訳なさそうに事情を説明している淳の声を右から左へ聞き流しながら、暁央は、自分の体の芯が醜いほど冷たく変容していくのを感じていた。

 俺を放ってその人の元へ行くんですよね。じゃああなたが言っていた、俺のこと離しちゃいけないっていう話、あれ嘘だったんですか。どこからどこまでが嘘でしたか。どこが真実でしたか。俺はずっと本心からあなたを慕っていたけれど、あなたは違ったんですね。

 あなたが一体どんな人なのか、俺は全然知らなかった。

「聞きたくないです」

 淳の話を遮って言い切った。

 暁央は、これまで誰にだって向けたことがないような熾烈な瞳を、淳だけに一直線に向けていた。

「行ってください。事故なんて大変じゃないですか。もう搭乗時間なんでしょう? ディナーの予約のことを気にしてるなら、俺も同じ名前なんだから、やり過ごせますよ」

 突然明瞭に話し出した様子を不思議に思ったのか、淳は口を閉じてじっと暁央を見つめた。

「大事な人なんでしょう。駆けつけてあげてください」

「暁央」

「あなたを信じた俺が馬鹿でした。でも当たり前でしたよね、あなたみたいな器用な人が俺のことだけ見てくれるはずなかったんだ。なんで気が付かなかったんだろう」

「待って。君は何か勘違いをしてるよ」

「しててもいいです。あなたの話はもう何も聞きたくない」

 きつく睨んだ先の淳の姿がだんだんぼやけていって、顔や体を形どる輪郭がふにゃふにゃにふやけていった。顔の中の目と鼻の穴が交差するあたりの位置がしみるように痛んで、喉が詰まって肺が圧迫されて、耐えられなくて瞬きをしたら頬が濡れた。拭ったらなにかが崩れ落ちる気がして、暁央はただそうやって淳を見つめ続けた。

 淳がそっと距離を詰めてくる。

「泣いてるの?」

 と、囁く。

「僕のために泣いてくれるの?」

 顔を奇妙に歪ませた彼が低く言った。

 それはまるで、笑顔になってしまいそうな喜びを必死に押し殺し、潰しているかのような、ともすれば悪意にもなり得るほどの残忍な歓びをどうにか抑えているかのような、複雑な表情だった。

 暁央はそれを、美しいと思った。

 美しいものの温度に触れたくなり、手を伸ばした。淳は避けなかった。頬にぺたとついた暁央の手の平を受け入れて、ただ、瞼を下ろす。薄く開かれた唇から真っ白な歯が覗いている。

「江国さん」

 名前を呼ばれたので、暁央はパッと立ち上がった。

「俺です」

 手を挙げ、先を急ぐ。

 受付のウェイターはやって来た暁央の姿を見ると、事務的に口だけで微笑み、改めて氏名の確認をした。流暢な日本語だった。暁央も日本語で名乗った。

「江国暁央です」

「お一人ですか?」

「はい。二名で予約してたんですが、身内が急遽帰国することになって」

「そうですか。ではご予約名と照合しますので、パスポートを拝見してもよろしいですか?」

 暁央は自身のパスポートを見せた。ウェイターはそれをしっかり確認したあと、少し首を伸ばして、暁央の背後数メートル先に立っているであろう淳の姿――キャリーケースを横に置いて、パスポートを握りしめ、いかにもリゾート地に不向きな厚着をしている姿――を確認すると、確かに急遽帰国しそうな風貌だと判断したのか、それ以上は追及せずに、暁央についてくるよう促してレストランの奥へと入って行った。

 暁央はウェイターの後を追った。

 もう振り向きはしなかった。淳がきっと立ち去ったことは、確認しなくてもわかった。暁央は徐々に窓際の予約席へと近付いていく。

 案内された席は、涙が出そうになるほど綺麗な場所だった。深いブルーに染まっていく海原が一望できるビューに、手元で揺れる蝋燭の明かりが重なって、まるでざらざらしたオレンジ色のオーバーレイを視界にかぶせたようだった。幻想的。大きく開かれた窓から潮風が優しく吹き込んでいて、火照った顔を癒やすように撫でてくれた。

 引いてもらった椅子に深く腰掛け、オーダーの確認を済ませたあとナプキンを折り、太股にかけた。鼻から息をつく。暁央はじっと海と浜辺を眺め続けた。あそこで淳と並んで座って尻を濡らしながら、日本までクロールで泳いで帰る話をした夜が、もう何百年も前のことのように感じた。

 いくら日本の地が広大でないとしても、江国という姓の中からあの、江国淳たった一人を見つけ出すのは難しい。きっと無理だ。わかっていた。

 もう終わりだ。

 なにもかも終わったんだ。

 いつもの「またあとでね」すらなかったじゃないか。

 俺は裏切られたんだ。

 暁央はナプキンの上で拳を握りしめた。

 おお、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?

 あなたからその名を奪い取ったところで、あなたの愛おしさも美しさもなにひとつ変わらないだろうに。俺があなたを思うこの胸の重みも、きっとなにひとつ、変わらないのに!

 ひとりきりの食事のあと、暁央はヴィラへ戻ると乱暴に筆を取り、キャンパスの世界に広がる鮮やかな海の風景を漆黒の画材で染め潰した。

 真っ黒だ。俺の心臓を抉ったら、今、これが溢れてくるんだ。愛おしいあなたを独り占めして、ぐちゃぐちゃにして、その罪深い名ごと全てを飲み込んでしまいたい。言葉にはならない。この重圧が色になって無情な世界を破壊する。

 涙は出なかった。

 

 

 魂が萎んだような一日は、長く、重さと寒さに耐えきれなかったコンクリートのように乾いてヒビ割れていた。

 思えばまぼろしのような数日間だった。事実、なにもかもがキャンバスの上で好き勝手に夢想した空間での出来事だったのかもしれないなと、暁央はぼんやり思う。

 あっという間に一週間が経過して、暁央は淳のいないビーチに慣れつつあった。誰かが傍にいても、いなくても、そんな些細な出来事など微々たるものと無視するように世界は進む。太陽は昇るし、沈む。地球は自転し、公転する。お腹は空かなくても足はむくむ。

 暁央以外の家族がピザを食べに行くと言って出て行ったあと(暁央は食欲がなく、昨日から何も食べていなかった。)、何をするでもなくハンモックに横になっていると、ヴィラの隣の棟から話し声が聞こえてきた。どうやらここに滞在している期間中に仲良くなったお隣同士で会話をしているようで、この棟の隣の人とそのまた隣の宿泊客が笑い合っている様子だった。

 隣の宿泊客は、オーストラリア訛りの英語で話す高齢夫婦だったはずだ。そのまた隣というと――

 暁央はガバリと起き上がった。急に鼓動が速くなる。

 淳の泊っていた棟だった。予定通りであれば、急遽帰国することなく宿泊していた淳の兄夫婦は、明日の早朝の便でここを発つはずだった。

 暁央は心臓あたりの服の布を握った。

 つまり、だ。その事実は、今日を逃したら、淳に関係する人とは二度と会えなくなってしまう可能性が非常に高いということと同義だった。暁央は結局、淳の連絡先を知らない。聞くなら、彼の兄しか頼れる綱はもうなかった。

 居ても立っても居られなくなり、暁央は急いでまともな服に着替えて靴を履いた。

 深く傷ついた。それに、もう終わりだと悟って諦めもした。それでもこうして体が反射的に動いてしまうのは、この体を突き動かすものは、淳という存在そのものが暁央にとって離してはいけないものだったという確信だった。ただ裏切られただけだったとしても、淳の口から全てを聞きたかった。その覚悟ができた。納得をしたかった。

 玄関を飛び出て歩道へ急ぎ、棟をひとつ抜かしてドアの前に立つ。震える指でインターホンを鳴らすと、今出ますので少々お待ちをという意味の英語が聞こえてきて、しばらく待つとドアが開いた。

「ああ、君は……」

 淳の兄だった。扉を開けた体勢のまましばらく静止し、暁央をじっくり見る。

 それから、淳に似た目尻で微笑んだ。

「もし君がここへ来たら連絡先を伝えてほしいって、弟から言われてたんだ。中へどうぞ。コーヒーでも飲んで行く?」

 あまりにもあっけなく会えて、状況も繋がってしまって、暁央は拍子抜けして座り込みそうになった。自分を奮い立たせて中へと入る。

 この棟には毎回テラスから上がっていたから、玄関から入るのは妙な感じだった。屋内は冷房が効いていて、静かで、どうやら今は淳の兄の他には誰もいないようだった。案内されたダイニングテーブルに腰掛け、暁央はアイスコーヒーを受け取った。兄は向かいの椅子に座り、朗らかに口角を上げた。

「弟がたくさんご迷惑をおかけしたみたいで。事情を聞いたわけじゃないんだけど、淳、帰国直前まですごく申し訳なさそうにしてたから。ごめんなさい」

「あ、いえ……」

 暁央は恐縮した。

「なんだか変な感じだな。君に夢中になってた淳に、声かけたらどうだいって提案したのはオレなんだ」

「俺に、夢中?」

 そんな話聞いたことあったっけと記憶を辿るが、ない。

 兄は可笑しそうに肩を揺らした。

「あいつ、君に話しかけるまで三日かかったんだよ。夜になると毎日毎日、ビーチにいたあの子がさ、ビーチのあの子がさって君の話をするから、うるさくてたまらなくてね」

 他の誰にでもそうするような流れで話しかけられたから、そんな背景があったことなど露ほども知らなかった。

「よくしゃべる弟だろう?」

 兄は言い、やわらかに微笑んだ。

「はい。でも、よく聞いてもくれます」

「どうやら人と話をするのが好きみたいだ。昔から不器用でね。わかりづらいけど」

 最後の二つは暁央の持っている淳の印象とは違っていたので、ああ、きっとこの人の前の淳さんはそういう風に思い切り甘えられてるんだろうと嬉しくなった。

 指輪のことや帰国のことを聞いてしまおうかとも思った。しかし本人から聞きたい気持ちのほうが、祈りのほうが断然強くて、今日ここでそれをするのはやめておこうと決心した。

 それから淳の兄は、ヴィラ備え付けのメモ帳に淳の携帯電話番号をメモして、手渡してくれて、

「これ持ち帰る? 君に食べてほしがってたよ、あいつ」

と、フルーツサンドのお土産までくれた。イチゴがたっぷり詰まった、ミルクホイップクリームのフルーツサンドだった。

 

 

「また向こうの棟に行ってたの?」

 帰ると、母が開口一番そう言った。

 リビングには母と妹がいた。暁央は足を止めた。抱えたフルーツサンドを抱きしめる。

「そうだけど……」

「一体何をしに、そうせっせと通ってるの?」

「……母さん、もういい加減、俺を子どもみたいに扱うのはやめてよ」

「カウンセラーの先生に報告はした?」

「好きな人がいたんだ」

 好きな人? と、母が素っ頓狂な声を上げた。

「いたんだけど、もうそこにはいなくなった。だからもう通わないよ」

「急に何の話? 暁央、あなたそんなことしてる場合じゃないでしょう。あなたの治療のためにここへ来てるんだから、なによりもあなたが集中しないとだめなの。好きな人って……。それにこんな場所で出会う人なんて、まだ何日も経ってないんじゃないの? 治ってないのに余計なことに時間を割いちゃだめ。聞いてるの?」

 母の声がどんどん、どんどん遠ざかる。暁央は自分の体が真っ二つに分離して、反対方向に伸びていくのを感じた。床についているはずの足の裏の感覚が麻痺して、なくなっていく。耳の裏から除夜の鐘のような音がぐわんぐわんと鳴り響いて、脳がぽーっとして停止していった。

 またあの雲だった。黒くてぐるぐるしたもやもやが、ジジ……ギギ……と胸中に垂れかかって、世界中の重力が肩に圧し掛かってくる。会話が難しくなる。

「お母さん」

 妹のツンとした声が空間を切り裂いた。黙り込んで立ち尽くす暁央を見兼ねて、口を挟んだようだった。

「こんなビーチにまできてピリピリするの、やめてよ。言ってることも意味わかんない」

「わからなくないでしょう? 暁央を心配して言ってるんだから」

「鬱なんだから恋愛するな、なんておかしいよ」

「そういうことは言ってないでしょう」

「それに、心配するのと支配するのは違うと思うけど。お兄ちゃんだって一人の人間なんだよ。あたしや弟にするように、ちょっとは放っておいたらいいじゃん」

 その妹の発言を境に、この場の温度が数度下がったかのように感じた。

 母が声を荒げて何かを言い返した。妹も立ち上がり、応戦し始めた。暁央は耳を塞ぎたくなったが、自分のことが原因で言い争っている二人の目の前でそうするのは違うと思い、必死の思いで壁に手をついてよろよろ伝って行き、扉からテラスへ出た。

 プライベートプールには白鳥を模した大きな浮き輪が浮かんで、海からの風に吹かれてちょっとずつ進んでいた。その影に身を隠すようにしてしゃがみ、暁央は耳を塞いだ。

 ここまで逃げれば何の怒号も届かなかった。聞こえてくるのは絶え間ない波の音と、頭上遠くで仲間同士の合図を送り合っている鳥の鳴き声、それからビーチから流れ込んでくる子ども達のはしゃぎ声だった。時折、葉の少ない木々が身をこすり合ってさやさやと音を立てているのも聞こえてきた。

 つい数日前まではあんなに平穏だったのだ。

 暁央は手のひらをそうっと開いて、ずっと握りしめていたヴィラのメモ帳の一枚を見下ろした。手汗で湿っていて、シワがくっきり角度になっていた。インクの出が悪い薄い線で走り書きされた数字の羅列が頼りなく、しかし確実にここにあった。

 怒りを感じているわけではなかった。悲しみも、虚しさも、悔しさも、侘しさも、いまや暁央の中では大した感情や思索の比率にはなっていなかった。あるのはただひとつ、話を聞きたいというだけの欲求だった。

 淳の携帯電話番号は、眺めているだけで依り代となってくれるようだった。上がっていた呼吸も落ち着いてきた。ひとりぼっちのプールサイドだ。日差しが目に痛くて、縁に植えてあるヤシの木の麓へ移動し、その幹に寄りかかってしゃがんだ。

 吐きそうになりながら数字を十一回、押した。通話ボタンを押してスマートフォンを耳に当てる手は、小刻みに震えていた。数回のコール音が鼓膜を震わせる。そして、あっけなくフッと通信が始まった。

「もしもし」

 電話口の淳は、機械的な感情のない声色だった。

 聞いたことのない彼の音程だった。

「江国です」

「……っ、ぁ」

 名乗ることすら難しくて、空気を求めて水面近くに顔を出す金魚のように口をぱくぱくさせた。

 しまった。今、日本は何時だったろう。いや、まずは名前だ、名前。名乗らないと怪しい人だと思われてしまう。そう考え至り、暁央ですと発声しようとしたところを、淳の新しい音声が助け舟を出した。

「もしかして」

 声色に生命が戻ってくる。

「もしかして、江国さん、ですか」

「っはい。江国です。江国――」

「暁央」

 カチカチになった指の骨がスマートフォンを取り落としそうになって、慌てて持ち直した。暁央は清潔すぎる匂いの通うプールサイドで、堅すぎるコンクリートの地面にぺたんと尻をついて座り込んだ。肋骨が痛い。

 耳をそばだてていると、電話の向こうで、どこかの扉をパタンと閉めたような気配がした。

 しばらくして小さく声が聞こえてくる。

「電話、ありがとう。兄さんに会ってくれたんだね」

「はい」

 暁央は晴天を仰ぎ、返事をした。

「忙しいですか。時差のことあんまり気にしないで電話かけちゃった」

「大丈夫。結局、病院には入れてもらえなかったんだ」

 入れてもらえなかった?

 どういう意味だろうと思い考えていると、淳が補足した。

「面会拒否された。事故はそんなに悲惨ではなかったみたいで、普通に会話もできるんだけど、僕には会いたくないって言ってるみたいでね」

 暁央の知らない、不穏な音調の言葉ばかりが、耳に張り付いてチクチクする。

 核心に迫りつつあるのを感じた。

 暁央は二度ほど深呼吸をした。

「淳さん。どうしてあなたに電話をかけたか、話してもいいですか」

「うん」

「あなたの口から聞きたいと思ったんです。どうして俺にこんな仕打ちをしたのか、俺は、今すごくつらいけど、俺の知ってるあなたはこんなことをして勝手に消えるような人じゃないから」

「うん。ごめんね、暁央」

 暁央は電話の音声の音量を最大にして、耳に押しつけた。

「今、すごく怖いです」

「うん」

「なにか俺の知らない事情があったり、俺が勘違いしてたりして、あなたにされた酷いことが全部帳消しになるような真実があって、それで全部が元通りになってくれますようにって祈ってるけど、でもそうじゃなかったらどうしよう? 本当に俺はあなたに裏切られて、遊ばれただけだったら、と思うと、怖い。でもどうして怖いんだろう? きっと、俺は……俺はこう思うんです。きっと、俺の思う淳さんと現実の淳さんがかけ離れてたら、それはここであなたと過ごした時間が本当に楽しかったことを否定することになっちゃうんじゃないかって」

「暁央」

 一度自分に発言を許したら捲し立てるようにしゃべり出した暁央を宥めるように、淳が静かに声をかけた。

「きっと君は、あの日僕の寝室で見たものと僕の帰国のことを少し勘違いしてると思うから、全部を話すよ。もし聞いてくれるなら」

「……。はい」

 暁央は意を決して同意した。

「はい。聞きたいです」

「ありがとう。最初から話すから、ちょっと長くなるかもしれない」

 淳は話し始める。

「数年前のことだよ。僕は当時、仕事で知り合った男性と付き合ってた。カナダ生まれの人だったんだけど、結構長いことしっかり付き合ってて、僕も彼も結婚を望んでたんだ」

 暁央は、胸がぐううと締め付けられるのを感じた。

 淳は淡々と話し続ける。

「でも知っての通り、日本じゃ同性同士の結婚は法制化されてない。カナダではできるから、彼は、向こうで一緒に暮らせるように僕に移住してほしいって言ってたんだ。そりゃあ僕だって彼と住みたかったよ、でも、どうしても地元に戻りたい気持ちがあって」

「淳さん、前も言ってましたね。広島に帰ろうと思ってるって」

「うん。いいところだよ、広島は。……。でもそれを、僕は彼に言えなかったんだ。僕のそんな勝手な都合で彼の夢を壊したくなくて、もしかしたら日本でも同性婚ができるようになるかもしれないし、いつかはね、いつかはしようね、なんて言って、曖昧な返事ばかりしてた。ちゃんと話さなきゃ伝わらないなんて、わかってたはずなのに。そうしてるうちに彼が……本当は自分と結婚したいと思ってないんだろうと思ってしまって。僕がきちんと話さなかったから、彼を傷つけてしまって。僕は当然信頼を失って、彼はカナダに帰ってしまった。

 ちょうどその頃、僕の東京の友人の女性が、元夫さんとの離婚調停が終わって、シングルマザーになったんだ。だけど、彼女の両親と親族が結婚にこだわる人で、娘がシングルでいることが許せなかったみたいで……僕は彼女を友達と思ってたし、彼女も僕をそう思ってたんだけど、こうなったらちょうどいいと思って、二人で話し合って、形式上結婚したんだ。望んだ相手と結婚できない僕と、誰かと結婚しろと追い詰められる彼女が、お互いの立場を守るために制度的な結婚を選んだ、というわけ。恋愛感情はお互いなかったけど、友達として信頼もしてたし、人として大好きな女性だったから力になりたかった。だから、」

「だから、結婚指輪を」

「そう。ちゃんとした結婚指輪もしてたし、マンションも借りて一緒に住んだ。でも、そう長くは続かなかったんだ。彼女の両親が……、その、干渉がすごくてね」

 淳はそこでいったん言葉を切った。

 ガサガサと深呼吸のような音がした。

 それから静かに、続きが始まる。

「僕は、また逃げたんだよ」

「あ、あの、話したくなければ、いいんです」

 窮屈そうな雰囲気を汲んで暁央はそう言ったが、淳は「いや」と提案を拒んだ。

「いや、話したい。聞いてくれる?」

 暁央は電話を握りしめた。

「はい」

 ありがとう、と弱々しい声がした。

「彼女は板挟みになってたんだと思う。僕らがちょっとでも”普通の夫婦”から外れたことをすると、すぐ両親や親族が首を突っ込んでくるもんだから、過敏になっていて。彼女との結婚生活はすごく楽しかったし、子どももたくさん可愛がったけど、お互い身内には友情結婚だとは言えないままだったんだ。僕の両親は、僕がずっとカナダ人の男と付き合ってたことをよく思ってなかったから、息子がようやく列記とした既婚者になったことで『淳もお兄ちゃんみたいにちゃんとした人に戻った』とか言ってたし、彼女の両親は尚更……。彼女、僕が何度聞いてもいつも『大丈夫』って言ってたけど、本当は……。僕も気付いてたよ、彼女が本当は大丈夫じゃないこと。でも、きちんと話さなかったんだ。僕は。また。それで結局、離婚した」

「……ご両親は、許してくれたんですか」

「僕の両親はね。僕は離婚後からフラフラして、仕事も軽くやる感じで、服装も適当な感じにして――君もよく知ってるようにね――、恋愛もその場限りで済ませるようなものばっかり渡り歩いて、それまでの品行方正だった江国淳をやめることにしたんだ。自由に生きることにした。それで両親も、僕のことはしっかり者の兄とは違う人間だと理解してくれたのか、僕にはなにも言ってこなくなったよ。でも彼女のほうはだめで、僕との離婚のあとご両親と大喧嘩して、そのまま絶縁してしまった。ついでに僕とも絶交さ」

 自嘲的に笑う淳の声が耳に響いた。似合わない笑い方だった。

 彼はそうやってひとしきり笑ったあと、深く長いため息を伸ばして、飲み込んだ。

「ひとりで楽になっちゃった。僕はのびのびと楽しく生きてるのに、僕の元妻は両親にも元夫にも頼ることができずにシングルマザーをやってるんだ。だから倒れたとなったら、僕が駆けつけて傍にいてあげたかった。だって結婚までした大切な友達なんだから!」

 ドン、と鈍い音がして、淳が日本のどこかの壁に思い切り寄りかかったことがわかった。

 病院の壁だろうか。それとも自宅だろうか。

「暁央」

 鼻をすする音。

「好きだよ。君のことが好きだ。こっちに帰ってきてからも、ずっと君のことを考えてる。情けないよ。元妻の病室にも入れさせてもらえないような、こんなにずるくて薄情な人間が、君みたいなすてきな人を想うなんて、不釣り合いだ」

 暁央は髪をかき上げた。しかし顔は上げられなかった。

 むしろぎゅうと抱き込めた膝に額を押し付けて、うずくまり、体を小さく小さくした。

 淳は今、日本のどこにいるのだろう。おそらく東京だろう。では東京のどこだろう。

 淳のことは、暁央はまるでわからない。暁央の知らないことだらけだ。それでも構わなかった。今すぐ淳の傍に飛んで行って、その震えているであろう肩を抱き寄せてあげたかった。それから叱って、ちゃんと話し合って、「彼」や「彼女」やその他の周りにいるたくさんの人々とどう対話を続けていくべきか、正面から向き合うその軸になりたかった。

 でも軸を求めているのは、暁央も同じだった。

 終わりまで声を受け止めてくれて、待つみたいに話をしてくれて、ミルクホイップクリームのフルーツサンド、ジップロック、暴力みたいなブラックホールを抱えた瞳とそれを包むまぶた、それから、自分自身に触れるみたいに肌を抱き寄せてくれた、そんなこの江国淳という一人の大人は、あるいはまだ全然子どもで、暁央が勝手に見上げた気分になっていたのかもしれなかった。なにが淳の背筋を伸ばしていたのだろう。なにが淳をうつつの世界に引き留めていたのだろう。やんちゃで、無責任で、押しつけがましい激情を操る手綱が二本、それは腕の形をした理性だった。

 おとなであろうとしないとおとなではいられない。簡単なことだ。矜持。でもそんなものは張りぼてなのだった。暁央もおとなになれていない。四方の壁の中で自分を責め立ててようやく眠れるように、目の上にジ……とかかる黒い雲を心地良いと感じてしまうように、自分のかわいい部分をまだここに置いておきたい。

 暁央はくぐもった声で言う。

「あなたはなんて愛おしいんだろう」

 じりじりと、背中を焼きつける太陽光が、白い砂の散らばるプールサイドに濃い影を作っている。頭の上ではヤシの木が幹ごと葉をゆすり、影も一緒になって左右していた。暁央の重く柔らかい髪は風に乗り、動物の毛並みのように愉快そうに揺れていた。

「君はすてきな人だよ。君自身はいつも迷ってて、自信がないみたいだけど、そのままで十分すてきだ。……そうやって俺に言ってくれたのは、淳さんですよ」

「……うん」

「それを自分にも言ってあげてください」

 沈黙が二人の間を支配した。

 それから、そうだね、とだけ呟いた淳の声がして、今度は空気の流れる音だけが満たされた静寂になった。厚くて、白い、雪のようなクリームのような静けさだった。

 暁央は自分の膝を抱えて縮こまったまま、淳の発声を待った。

 しかし、しびれを切らして暁央から質問をする。

「さっきの話、どうしてあのレストランの前で話してくれなかったんですか」

「言い訳になっちゃうんだけど……、君が聞きたくないって言ったから」

「あ……」

「無理やり話すようなことはしたくなかったんだ」

 淳が微笑んだときの空気の音がした。

 でも間違ってたかもしれないな、僕また違うほうのことしたかも、ごめんね、などと、淳が追いかけるように言うのが聞こえた。

「君は幻滅してないの? 僕の話を聞いて」

「してないです」

「……そっか。でも、君を傷つけたのは事実だよね。ごめん。本当にごめんなさい」

「いえ。今はもうつらくないですから」

 ゆるやかな沈黙。やがてごそごそと布擦れの音がして、どこかの静寂の廊下を淳が歩き出した音がした。サンダルではない踵の音が、清潔な床をコ、コ、コ、と叩く。

 その音に耳を澄ましていると、淳が話し出した。

「ところで暁央、返事はくれないの?」

「なんの返事ですか」

「ひどいな。さっきの告白のだよ」

「さっき……あ」

「結構緊張してるんだけど」

「今も?」

「今も」

「それは……ふは」

「笑った? なんで?」

「ごめんなさい。かわいくて」

「かわいくて? 僕が?」

「はい」

「かわいい?」

「あなたはかわいいです」

「あんまり言われないけど」

「俺の前でだけかわいいってことですか」

「え、そういうこと?」

「わかんないですけど」

 暁央は笑った。

「覚えてますか? あなたが俺に、俺が一生懸命言葉を探して話すのを見てると、愛おしく思えるって言ってくれたこと。あなたは俺に、君は正しい会話をしてる、言葉を大事にしてるのが伝わってくる、って言った」

「覚えてるよ」

「でもそれは、俺があなたとこうやって話ができるのは、あなたが聞いてくれるからです。俺は……、昔から話すのが苦手で。こういう派手な見た目をしてるから、小さい頃から人に話しかけられることは多かったけど、いつもうまくしゃべれなかったんです。みんな早いし、……俺にとっては、世界が早くて、目が回るみたいで、全然ついていけなかった。だから友達もいなかったし、好きな人ができても、いつも俺の話は聞いてくれない。俺の、顔……顔ばっかり見ていて」

「うん。わかるよ」

「でも、あなたは聞いてくれました」

「僕?」

「あなたと話すと、俺も俺の言葉で話せる」

 暁央はこめかみを膝に押し付けて、ぎゅうと目をつむった。

 そして、あの奇抜な配色のシャツと愉快な柄のサンダルを思い浮かべた。

 それから、孤独な宇宙みたいな瞳を思い出して、最後にあの甘い笑顔を思った。

「大好きです。俺も、あなたのことが」

 電波の果てで、淳が息を飲む気配がした。

「好きというか、大切です。あなたがまるごと」

「うん。うん……。嬉しいよ。ありがとう」

「来週俺が帰国したら、また会えますか」

「うん。会いたい。会いに行くよ。成田まで迎えに行く」

「本当に?」

「本当に。それでいつか、広島に来てよ」

 淳はそれを、広島に遊びに来てよという意味で言ったのか、広島に来て一緒に暮らそうよという意味で言ったのか、詳細は伝えてこなかった。それでよかった。それがよかった。

 暁央は頷いた。頷いたところでこれは電話だから見えていないことを思い出して、音声情報でも「はい」と答えた。

「でもまずは、業務用のポリ袋を見に行きたいです」

 日は沈み、穏やかなダークブルー色が地平線の反対側からじわじわと、ピンク色の夕空に染みてきていた。ヤシの木の影が黒く縁取られて浮かび上がって、影絵のように空に重なっていた。遥か遠くを鳥が飛んでいる。その上空では恒星が瞬いている。潮風が頬を撫でる。浜辺から子どもの笑い声が聞こえてくる。

 美しかった。他の何かに代えようがないくらいに。眩しくて目を細める。眼球と鼻の奥がツンと痛んで、涙が出た。夢かうつつか曖昧になってきたが、何であってもいいものだと思った。

 この世界は、誰かがどこかに存在していると知っているだけで輝きが増すときがあるということを、暁央はこの瞬間、初めて知った。

 

 *

 

 成田空港に到着したとき、窓は外気との寒暖差で真っ白に曇り、機内と乗降口を結ぶ連絡通路を駆け抜けているときには息が白かった。外は雪が降っていた。しかし、暁央は汗をかいていた。汚れたコンタクトでぼやける視界を必死にこすって、先を見据える。

 出迎えの相手の名が書かれたプレートを持った人や、家族や友人と合流して喜び合う大勢の人の中、暁央は、すぐに淳の姿を見つけた。彼は「Welcome Back 暁央」なんて書かれた親切なプレートなど持っていなかったし、寒そうに猫背でコートのポケットに両手を突っ込む表情は決して穏やかとは言えなかったが、ゆらゆら落ち着かない肩と真っ赤な耳は雄弁だった。

 目が合って、立ち止まる。

 淳は勢いに任せて一歩進んだが、次にはハッとして後退し、ポケットから両手を出して軽く広げた。

 斜め後ろで一緒に立ち止まっていた母が、不意に手荷物を抱えていた腕を持ち替えて、暁央の背後に手を伸ばした。トン、と、試すような臆病な手つきで背中が押される。暁央の体が一歩先に進む。振り返ると、西日がどうしようもなく眩しいときのようにしわくちゃに目を歪めさせて、それでもどうにか気丈に笑ってみせようとする母の姿があって、それはこれまで見てきたどの母親の姿よりも細く、小さく見えた。いつか全てを話せるだろうか。時間をかけてじっくり、この小旅行であった全ての物語を母に伝えよう。

 弟が、横目でこちらをチラチラ窺いながら暁央を追い越していくのが見えた。

 妹は何か気の利いた一言でもかけたそうにしていたが、結局「えっぐいイケメンじゃん。ずるっ」とだけ言い放って、先にゲートを過ぎて行った。

 暁央は大股で淳に近寄り、迷いなく肩を抱きしめた。あのどうしようもなくダサいシャツを着た彼ばかり知っていたから、着膨れした体はぬいぐるみでも抱き締めているような感覚がした。鞄が爪先にドスンと落下したし、スーツケースはゆっくりどこかへ転がっていったが、もうなにもかもどうでもよかった。

 首筋に埋められた口が、名前を呼んだ。

 こんなに眩しい、南国の雄大な自然のように胸が締めつけられる燦爛たる名を、彼らは他に知らなかった。