やさしい咀嚼

 

   序

 

 

 車を回してほしい。

 と、依頼があったので現場へ駆けつけたが、指定された住所に待ち人の姿はなく、特に変哲のない夜道が冷たく佇んでいるだけだった。街灯から降り注ぐ白い明かりは、閑散とした夜の歩道の狭い範囲をぼんやり照らしていて、物の輪郭を淡く浮かび上がらせていた。暗い宵だった。

 区の中でも高層マンションが立ち並ぶ路地を、数本裏に入った場所にある、影のような区域だった。深夜でも声の絶えない表通りとは違い、人通りも数人ぱらぱらあるだけだ。

 住所は合っているか? 不安になり、ナビゲーションを確認した。マップ上に示されているピンの位置と現在地はぴったり重なっている。時間は? 数十分の遅れがある。運転席の窓を下げ、外の空気を入れる。あまり長いこと路上駐車をしていて通報などされるのも面倒だし、どうしたものかと迷っていると、不意にそれらしい人影が現れた。

 点滅するハザードランプの灯りに照らされ、その姿が見えてくる。彼は、グランドホテルの裏口から出てくると、道路を左右見回してこちらの車体を見つけた。そして背後を振り向き、後から出て来たもう一人にあの車だと合図した。

 今夜の客は、どうやらあの二人で間違いなさそうだ。

 エンジンをかける。開けていた窓を元に戻し、外に出る。荷物はほとんどないようなので意味があるのかはわからなかったが、とにかく車の横に立った。扉を開けて待つ。二人は並んでこちらへ歩き始めた。

 横を他の車が通り、ヘッドライトに当たった彼らの姿がよく見えた。後から出てきたほうと、まずは目が合った。

 彼は、重厚なロングコートの裾を膝下で翻した聡明そうな男性で、図鑑のような厚さの本を小脇に抱えていた。逞しい肩でそれを持たれると、まるで鈍器だ。しかし歩く姿は上品なモデルのようで、堂々と、すらりとした背格好をしていた。ゴールドとシルバーの中間のようなプラチナブロンドの、丈夫そうな質感の髪を上げて額を見せている。虹彩の小さい鋭い瞳だ。彼は大股で歩きながら顎を引き、上目でこちらを睨むような表情をしていたが、ゆっくり隣を見ると、大きな口をにっと横に伸ばした。

 彼の視線の先に歩くもう一人の男は、隣の男とは正反対の容姿をしていて、細身で、ゆるいシルエットのフーディとスウェットパンツを着たカジュアルな格好をしていた。闇夜に溶ける赤色の髪を、額の中心から左右に無造作に分けている。やわい目尻で薄く微笑む、アンドロジナスで甘いマスクの持ち主ではあったが、眉は凜々しく、どこか隙のなさそうな雰囲気があった。顎を少し上げてこちらを見下ろす鼻は高い。彼は笑みを強くすると、「ハァイ。運転手?」と陽気に挨拶をしてきた。

「連絡したイサナです。イサナミツキ。こっちは親友のエイジ。……って、紹介いらないか。よろしくお願いしまあす」

 と、慣れた身のこなしで車に乗り込む。

 私が運転席に着くと、後部座席にゆったり座った彼らに、動物でも観察するかのように眺められた。落ち着かない。なんだかなと思いながらシートベルトを締める。

 フロントミラーの角度を調整しているうちに、細身のほうの男性の携帯端末から行き先が共有された。カーナビの地図に新たなピンが立つ。発車すると、音楽を流して良いかどうか問われた。ブルートゥースを接続して、彼らはよくわからない英語の女性ラッパーの曲をかけた。

 珍しいタイプの客だったので、そちらのほうが気にかかり、彼らが予定の時間に遅刻してきたことなど忘れてしまった。これは都内をそこらじゅう走っている一般的なタクシーではない。たいていの夜の客は、庁舎から帰宅する政治家か報道から逃げる著名人、または見知った富裕層の人間だったから、彼らは初めて乗せた妙な客だった。

 目的地に向かう。フロントミラーからそっと窺うと、どちらも思ったより若そうだった。しかし、持っている携帯電話は最新の端末で、ピアスや指輪の宝石の輝きは本物のそれだ。着ている服はどれも、大学生がアルバイト代で買えるような価格帯のものではない。一体どんな生業の男達なのか知らないが、金にはずいぶん困っていなさそうである。

 二人で十分に楽しそうな様子だった。酔っているのかもしれない。ミツキと言ったか、カジュアルなほうの男が隣に耳を寄せ、エイジと呼ばれていたコートのほうの男から何かを囁かれる。彼は体を揺らしてケラケラ笑いながら、コートの男の膝を叩いた。

 会話の内容はよく聞こえない。ラップのせいだ。

 そのとき、フロントミラー越しにバチッと目が合った。エイジと、だ。まだ愉快そうに爆笑しているミツキの隣で、コートの襟で口元を隠す。

 どきりとして目を反らした。なにもかも見透かしているような瞳だった。わけもわからず恐怖を覚えるほど。何も悪いことをしているわけではないのに。

 やがて最初の目的地に到着したとき、私は救われた気さえした。着いてみると、そこは若者が集う賑やかなクラブのようだった。ストロボライトやミラーボールの明かりが漏れ、ズンズンと地を這う低音が、厚いリズムになって聞こえてくる。

 そのあとに指定された数か所の行き先も、全てクラブかパーティー会場だった。彼らはどこにも長居しなかった。すぐに車に帰ってきては、次の目的地へ行く。徐々に酔いが回ってきているようではあったので、中で飲んではいるのだろうが、踊りが目的というわけでもなさそうだった。

 つくづくおかしな男達だった。

 最後の行き先は、最初のグランドホテルに戻っただけだった。今度は裏口でも正面でもなく、地下の駐車場で降ろすよう注文があった。支払いは、触るのも緊張するような種類のカードだった。

 私は車から降り、彼らが途中の目的地で積んだ荷物を、トランクから下ろした。最初に乗せたときには持っていなかった大きな鞄だ。持ってみると想定よりずっと重く、つい、地面に落としてしまった。

 重い衝撃音が響いた。薄暗い駐車場の冷たいコンクリートに当たり、バッグの中に入っていた何かが割れたガラス音がした。謝罪を口走りながら慌ててしゃがむと、レザー生地の鞄の口から、じんわりとゆっくり、液体が漏れてきているのが見えた。

 ツンと鼻を突く臭い。鉄の臭いだ。赤黒く染まっていくコンクリート。

 一体これはと思って固まっていると、見下ろしていた地面にふっと影が落ちた。

「あーあ」

 ミツキだった。

 彼は私の隣にしゃがむと、今も地面に伸び続けるねっとりとした液体を眺めた。

「もったいない……」

 ゴテゴテした指輪のついた骨張った指でその液体をすくい、舐める。彼はべろりと出した舌に人差し指を押し当てたまま、くっと、私を見た。

 背筋が凍った。

 目が、赤い。

 舌に触れている犬歯が長い。

 そういえばようやくまともに近くで見た彼は、それはそれはひどく綺麗な顔面の造形をしていて、とてもこの世のものとは思えないほどだった。見つめられると冷や汗が滲むほどの緊張感が走るのに、不思議と、目を逸らすことができなくなる。

 コツ、コツ、と踵の音がして、エイジもやって来た気配がした。ミツキが目を上げ、私の背後を見上げる。

 後ろでため息をつかれた。

「あなたには何もしないつもりだったのに」

 振り向く前に、視界がぐらりと揺れた。

 怯みそうなほど強い力で後ろから肩を掴まれ、おそらく、私は噛まれた。確かに自分の肌が切れる音を聞いた。首の裏に激痛が走り、全身がかっと熱くなる。膝が笑い出したと思ったら、次には射精感に似た性的快感がぐわりと襲ってきて、前のめりに倒れそうになった。

 意識が遠のく。浮遊感。嬌声のような自分の甲高い声が、遠くに聞こえた。震える手で地面に手をつく。見下ろしたコンクリートの灰色に唾液が垂れて、ぽつぽつと濃く染まった。

 唾液だけではないと気付いた頃には、もう遅かった。急激な貧血で寒気が止まらず、体中がどうしようもなく震えた。ミツキが、横から私の顔を覗き込んできて、にっこり笑う。

 そうして、私は死んだ。

 

 

   一  ヴァンパイア

 

 

「瑛次ぃ」

 ノックをしながら部屋に入って来た三月(みつき)に、瑛次(えいじ)は上の空で「んー」と返事をした。いつものように、読んでいる本からわざわざ顔は上げない。

「夕飯ができたけど……って、うわ」

 三月が踏まれた蛙のような声を出した。それを聞き、瑛次がやっと手元の文字から視線を離して顔を向ける。三月は、瑛次の部屋の異変に気付いて目を剥いていた。

 部屋自体は、非常に良い部屋だ。広く余裕のある空間のひとつの角にクイーンサイズのローベッドを置き、瑛次はそこに長い脚を伸ばしていた。ベッドヘッドのある壁には木目のアクセントウォールが入れてあり、その他の壁はグレーの石材で、床も同じ素材だった。所々に観葉植物やサボテンなどの小さな植物も置いてあり、天井まである背の高い本棚は全て書籍で埋まっていた。瑛次は本の虫だ。

 今、台形を吊るすスタイルをした暖色の照明を薄暗く落とし、読書に合った雰囲気になっていたが、楕円型のローテーブルに乱雑に放置されたチューブから床に、ぽた、ぽた、と液体が滴り落ち続けていて、雰囲気のある部屋を台無しにしていた。水道管が破壊されたキッチンのように、その液体が線状に広がって一本の道を作っている。チューブには、油性のマーカーで「牛」と書き記されていた。液体の色は赤黒く、そこから少しきつい酸味のある香りが漂っていた。

 三月は履いていたスリッパを脱ぎ、裏面が汚れていないか確認しながら言った。

「部屋で飲むなってあれほど言ったのに、またかよ」

 どうやらスリッパでは踏んでいなかったようで、三月はすぐにまた履き直した。それから、着ていたカジュアルなアウターの袖で、ドアノブに触っていた手を神経質に拭いて(おそらくそこも別に汚れてはいない)、持っていた菜箸で瑛次をビッと指し、眉を吊り上げた。

「もう掃除手伝ってやらないからな」

「え、それはごめん。本当にその……力尽きそうだったんだ」

 瑛次は慌てて本を閉じた。

 そしてそれをベッドに放り出し、鼻息も荒く部屋を出て行った三月を追いかけた。

「わかるだろ? 今すぐ口に入れないと倒れそうなあの感じ。あれにさっき、突然なって」

「そうならないように時々ちょっとずつ飲んでおけって、いつも言ってるじゃん」

「飲んでるよ。飲んでるけど」

「まあ確かに、急に欲しくなるときはあるけどさ。でもだからって、部屋で飲むのはやめろ」

「部屋にしかストックがなかったんだ。冷蔵庫には……あー、冷蔵庫にもあったか」

「あるよ、あるある。俺がいつも予備を入れてるの知ってるだろ」

 ぶつくさ言い合っているうちに、リビングに着いた。黒と白でまとまったシックな大理石のダイニングテーブルには、新鮮な緑が輝くサラダや何かの肉のステーキなど、すでに完璧な夕食がセッティングされていた。

 最後の仕上げに、三月が空のワイングラスを二つ、置く。そして可愛らしい柄のエプロンを脱ぎ捨てると、冷蔵庫を開け、中から百五十ミリリットルほどの小瓶を一本取り出した。

「動物の血だけじゃ滅入っちゃうだろ。どう?」

 そう言って、底を振って見せる。

 瑛次は目を見開いた。

「買ったのか?」

「いつもの解剖医からもらった。いらないなら捨てるけど持っていくか? って連絡くれてさ。事故死した人を解剖したんだって」

 三月は瓶を半回転させ、真っ白なラベルにボールペンで走り書きされた文字を読み上げた。

「三十五歳。女性。心臓から直接」

 そこに書かれているのは、血液を採取した人間の年齢などの基本的な情報、彼らのどこから血を抜いたか、そして鮮度の参考のために記録された採血した日付や時間などのメモだった。

 瑛次はそれを聞き、感嘆のため声を漏らした。

「そんな。まさか」

「ご馳走だろ?」

 だから部屋で勝手に飲むなって話なんだよ、とまだ小言を言う三月を無視して、瑛次はせっせとテーブルについた。待ちきれない表情で瞳をきらきらさせて、三月がゆっくりグラスに注ぐ赤い液体を見つめる。液体は丸いガラスの中で揺れはしたが、透き通ってもいなければ発泡しているわけでもない。どろりと重そうに表面をゆらめかせ、赤黒く鈍く落ち着いた。

 二人分を注ぎ終えると、両者はグラスを掲げた。

「乾杯」

 カン、と、耳に心地よいガラスの音がする。二人は同時に一口目を喉に通した。

 目を伏せて味を楽しんでいた瑛次が、グラスをテーブルに置きながらそうっと瞼を上げた。白目の広い三白眼が、グラスの中身を飲むまでは黒色だったはずの虹彩の部分が、今や冷たい銀色に変化していた。

「あー、やばい。やっぱり最高だな、このぞくぞくする感じ」

 目をアーチ状にして笑顔をみせていた三月のほうも、目頭を軽く擦っていた手がそこを離れると、焦げ茶色だったはずの瞳が深い赤色の色彩に変化していた。ぐりぐりとこめかみを揉みながら、もう一口胃に流し込む。笑うと見え隠れする犬歯は鋭く長くなり、妖しく光っている。

 ちょうど瑛次の背中側の壁にかかっている額縁からは、立派な角をしたがえた鹿の頭が突き出ていた。虚ろなその目にチラチラ反射するのは、不規則にゆっくり点滅する壁沿いのダウンライトだ。ダイニングを過ぎた奥にはアイランドキッチンが鈍く輝いており、そこには、結露の浮いたアイスコーヒーカップの隣に、赤黒い液体の名残がこべりついた瓶が数個転がっていた。

 

 

 

 悪いんだけど忘れ物を大学まで持ってきてくれないか、と連絡が入ったのは午後二時過ぎで、三月はその時ちょうど、カフェの仕事を退勤したところだった。だから断る理由もなく、困っている親友のためならやってやろうと、車を走らせていったん自宅のマンションへ帰った。

 瑛次が大学までのおつかいを頼んできたのは、何だかよくわからない小難しそうな論文を紙に打ち出したものだった。彼の部屋からその束を探し出すのには苦労したが、どうやら今日これがないと評価が危ないと言うので、三月は精一杯探し回った。

 見つけたときには、もう午後三時を過ぎていた。間に合うのかすら不明な状態だったが、急いで愛車を転がし、瑛次の通う大学のキャンパスまで向かった。

 キャンパス構内を歩くのは落ち着かなかった。瑛次は優れた頭脳を持っているので、全国、いや全世界から優秀な人材が集結する立派な名門大学で勉学に励んでいるが、三月のほうは進学を諦めた身だったから、大学というものが実経験としてはよくわからず、学生たちとすれ違うと妙に緊張した。瑛次とは、共同生活を始めてからもうずいぶん経つが、それでもとても新鮮な気持ちになった。

 瑛次は、開かれたホール状の建物の出入口付近の、学生向けの掲示板が並んでいる場所に立っていた。論文を手渡しすると、額を地面に擦りつける勢いで感謝し、礼を言った。

 彼はちょうど今、講義と講義の間の休憩時間に入ったところだったらしく、もう二十分後には次の授業が始まるとのことだった。それなので、次の講堂へと向かいながら、駐車場まで戻る三月を途中まで送ることになった。

 休憩時間中のキャンパス構内には、当然、学生が多かった。瑛次からすれば、三月が一人紛れ込んだところで全く不審には見えなかったが、三月自身は始終そわそわしていた。

「よくこんな血だらけのところに何時間もいられるな」

 三月はパーカーの袖で口元を覆い、小声で言った。

 瑛次も声を潜める。

「正直、これはもう修行だと思ってる。卒業まで耐え抜くのが目標だな」

「ここじゃ誰のことも食べてないんだろ?」

「今のところは」

「すごいな。俺、もう腹鳴りそう」

「毎日通えば多少は慣れるさ。野性と理性をコントロールするいい練習だと思え」

「無理だな、俺は。お前はほんと、よくやってるよ」

「俺も結構ギリギリだよ。前にゼミで、紙で指を切った奴がいて、あのときはさすがに焦ってトイレに行くふりして逃げたけど……」

 と、そのとき、

「あ! 瑛次せんぱーい!」

 と背後から声がかかり、二人は同時に振り向いた。

 瑛次を呼びながら外付け階段を駆け下りてきたのは、片方の肩にショルダーバッグを引っかけた学生らしい風貌の男性だった。

 綺麗に締まった身軽そうな体型にオーバーサイズのニットを着て、クリアファイルと細いペンケースを腕に抱えて、こちらに向かってパタパタ小走りで近付いて来る。これまた学生らしくゆるいパーマをかけた髪と、人懐こそうだが怜悧な顔立ちが印象的だった。両耳に大きな十字架のピアスが揺れている。

「ちょうど良かった、探してたんです。起田教授が呼んでます」

「起田先生が? なんだろう。さっきのディスカッションで何かまずいこと言っちゃったかな」

「さあ。怒ってる感じではなかったですけど。今日はこの後ずっと研究室にいるって言ってまし……た……」

 彼はもにゃもにゃと語尾をすぼませながら目線を横にずらし、瑛次の隣に立っていた三月の姿を見た。

 視線が合う。

 一瞬、誰だろうという表情を浮かべたものの、瑛次の同期の友人だと思ったのか、彼はすぐに口元に笑みを作って行儀良く会釈をした。三月もにっこりしてみせ、ぺこりと頭を下げた。

「あ……、えーと」

 彼は俯き加減に前髪をちょいちょいと撫でつけ、にこにこしたまま瑛次と三月の間で目線を何度か往復させた。そして、二秒ほど三月の鼻先あたりを見て固まったものの、すぐに我に返った。

「じゃ、じゃあ……、僕はこれで」

 そう言い、二人のほうを向いたまま数歩後退る。うん、と瑛次がなんの気なしに手を振ると、彼は最後にまた一瞬だけ三月を見たあと、くるりと踵を返して走り去って行った。

 なんとなく沈黙が流れる。三月は取り繕った咳払いをして、隣に言った。

「あー、今のは?」

「陽。楠木陽」

 瑛次は鞄の中をごそごそして、教授の研究室へ突撃する準備を整えながら、上の空で答えた。

「ひとつ下の学年で、国際政治とかやってる子だよ。ああ見えてしっかりしてるし頭も良いんだ。俺は最近のEUの話とか全然だめだから陽には頼りっぱなしで……。あれ、ディスカッションの資料どこやったかな」

「こう言っちゃなんだけど」

 三月はまだ陽が駆けて行った方向を見ていた。

 自分の唇に触れ、目を細める。

「すごく美味しそうだったな、さっきの子。肌柔らかそうだし、色っぽいし。飲んだことある?」

「あるわけないだろ」

「ふうん」

「三月。目、目」

「おっと」

 三月はサングラスを取り出し、さっと掛けた。オレンジ色のレンズの向こう側で、鈍い赤色に変化した虹彩がぼうっと光っていた。

 

 

 

 一日の勉学を終えた瑛次は、帰ってきて夕食の席につくなり何かの本に目を落としていたが、不意に思い出したように三月に話を振ってきた。

「さっき、陽からラインきてさ」

「陽?」

 ぽん、と、昼間にキャンパスで会った陽という彼の姿が頭に浮かぶ。記憶力には自信があった。

 三月は、瑛次の差し出してきた携帯電話の画面を覗き込んだ。

『先輩、遅くにすみません。今日一緒にいた方って、瑛次先輩の同期の知り合いですか? 失礼じゃなければ名前を知りたいんですが』

「この子、ゲイなの?」

 と、三月。

「さあ。そういう話はしたことなかったな」

 瑛次は何でもない顔で肉にナイフを通した。

「そんなに親しいわけじゃないんだ。陽とは学部が違うから、キャンパスも基本的には別で、今日の曜日のあのコマだけ科目がかぶってて」

「へえ」

「なに、気になる?」

 そんなに関心ない調子で問うた瑛次に、三月は「そういうわけじゃないけど」と笑った。

「まあでも、一瞬しか会ってないけど本当に美味しそうだったな。匂いも良かったし」

 三月は瑛次の手からすっと端末を奪うと、さらさらと指を動かして返事を打った。打ち終わると画面を瑛次に見せ、内容を確認してもらう。

『名前は三月。社会人だよ。カフェで働いてる』

 送ってからしばらくすると、食事中、テーブルの上で携帯電話が通知音を鳴らした。

 瑛次は画面を覗き込み、ポップアップで表示されたメッセージ内容を確認した。

『うちの学生じゃなかったんですね。先輩とは友達ですか?』

 三月は肉を頬張ったまま立ち上がり、瑛次の椅子の裏に回った。さっさと文字を打ち始めた瑛次の手元を背後から覗き込み、「検閲、検閲」とにやにやする。

 そして、瑛次の打った「今同じマンションに住んでいて」という旨の部分を消すように依頼した。

「一緒に住んでるなんて正直に言ったら、俺たちができてると思われるだろ」

「それは勘弁してほしい」

「だろ? だから余計なことは言わずに、ただ親友だって言って」

 瑛次は、オーケー、と返事をして修正する。ついでに「気になるなら紹介しようか?」の一言も追加した。

「おー、さすが。こういうのは仲良くなってから腹に収めたほうが美味しいもんな」

 三月は席に戻り、ソースで汚れた口元を舐めてにっこりした。

 送信すると、瑛次は立ち上がって冷凍庫へ向かい、奥に綺麗に並べてしまってある小瓶のうちの一つを取り出し、側面に貼ってあるラベルを読み上げた。

「今夜はパアッといこう、兄弟。四二歳、男性、脇腹。これでどう?」

「いいね」

 瓶をテーブルに置いて再び腰掛けた瑛次の代わりに、今度は三月がパントリーまで行ってつまみとグラスを用意した。

 ちょうど座った瞬間、また通知音がした。

『迷惑でなければ、紹介してほしいです。あの方、お付き合いしてる人はいるんですか?』

 二人は無言で顔を見合わせた。

 これには三月も口元の綻びを隠せなかった。むしろ盛大に大笑いして、瑛次が持っていた小瓶を手から奪い、いったんしまった。そしてそれとは違う種類の瓶を選び直し、全身に拍手喝采を浴びているかのように大袈裟に両手を広げ、天を仰いだ。

「俺もまだまだ捨てたもんじゃないな? この美貌で、あの生き血を勝ち取ってしまうかもしれない」

 うんうん、と頷き、小瓶にキスをする。

「三一歳、女性、二の腕。採った日がちょっと前だから鮮度は落ちてるけど、絶対美味しいに決まってる」

「あぁそれ、試験開けにでも取っておこうかと思ってたやつだけど、まあいいか」

 瑛次は穏やかにため息をついた。

「まさか陽がお前にいくとは思わなかったな」

「人間らしくしていなきゃ。初デートで首に噛みついたりしないように」

 演技がかった動作で背筋を伸ばす三月に、瑛次は肩を揺らして笑った。

「とはいえ……、人間はベッドでカレーライスを食べない。動物だって、交尾しながら草を食べたりしない。お前、食欲と性欲がごちゃごちゃになってるときがあるから、気をつけろよ」

「それの何がだめなんだ?」

 と、三月。

「セックスしながら飲む血ほど美味いものはないだろ?」

 鈍くチカッと光った三月の赤い瞳を受け、瑛次は肩を竦めた。

「だめっていうか、危険になり得るだろ? 落ち着いた状態で飲むのとは違って。うっかり殺しでもしたら、こないだの運転手のときみたいにまた叱られる」

「あー……そうだな」

「まあ、大体、俺たちには性欲なんてあってないようなものだ。それを楽しめるお前が羨ましいときがあるよ。俺は正直、そこまで興味がないし。愛する人と抱き合いたい気持ちはあるけど、……」

 食器の触れ合う心地よい音が響く。

 瑛次は肉片を口に入れ、飲み込んでから続けた。

「その、愛、というものもよくわからないな。人間だった頃は確かに愛した人もいたはずなのに、生き過ぎたのか、もう燃えるような愛も焦がれるような恋も、別世界の事象のように感じる」

「それはわかる」

 三月は行儀悪く、テーブルに頬杖をついた。

 その格好のまま乱暴に肉を咀嚼するので、顎の動きに合わせて頭が上下した。

「愛ねえ。……。正直、人間が誰かを壊さないようにしながら欲するのと、俺たちが誰かを殺さないようにしながら食うのって、全然違うことなのに結局一緒なんじゃね? って思うとき、あるよな」

 三月は、ごくりと肉を飲み込んだ。

「そういえば、そろそろこっち着くんだっけ? 壱依(いちい)兄さん」

「そうだな。来月にルーマニアを発つ便を取った」

「バレないようにしなきゃ。絶対いい顔しないだろ」

「陽のこと?」

「そう」

「……うまくいくといいな?」

 

 

 

 美術館を横に逸れた小道の、明るい石畳の歩道の脇に、洗練された雰囲気のその喫茶店はあった。控えめに街路樹の立つ通りの一角、新築マンションの一階にテナントが入っていて、そこが開放感のある丁寧な造りのカフェになっているのだ。

 外の歩道側にはテラス席がいくつかあり、今、そこでは、数人の客がディナー時間前の休憩を楽しんでいる様子が見受けられた。ガラス張りの壁や大きな窓からは、店の中がよく見えるようになっていたが、店舗内にもコーヒーや菓子類をゆっくり味わっている人々がいた。

 店内には、柔らかく流れるピアノ音楽と、コーヒー豆を挽く香ばしい匂いが漂っていた。調度品はオフホワイトとモスグリーンで統一されていて、オーガニックで透き通るような印象になっていた。

 ちょうど窓際の、傍に背の高い観葉植物が置いてあるテーブルには、たったさっき店に入ってきたばかりのような雰囲気の青年が浅く座っていて、メニューを選ぶのもおろそかに、店内を目で散策することに夢中になっている様子だった。

 陽は、休日に課題が終わったタイミングを見計らって、三月が働いているカフェをこっそり訪れていた。

 場所は瑛次を通して教えてもらっていた。彼は、ラインの三月との個人トーク画面をスクリーンショットしたものを「親切にシフトまで送ってきたぞ」と、冗談めかして送ってきてくれた。確かにそこにはカフェのマップと、『ちなみに基本的には朝からランチまでのシフトだけど、金曜日と日曜日はクローズまでいるよーん』という三月からの送信内容が写っていて、ああ語尾が可愛いな、というかライン知りたいな、などと思いながら、陽はしっかり三月のシフト周期を暗記した。

 ちら、と、控えめに首と目線だけを動かしてフロントのほうを窺ってみると、おそらくあれだと思われる後ろ姿が、コーヒーメーカーの前に立っていた。マグカップの中が満タンになるのを待っているようだった。

 彼の他にはもう二人の店員がいて、一人は陽と同い年くらいに見える穏やかそうなロングヘアの女子大学生、もう一人は、少しだけ年下のような素朴さがあるがテキパキしている爽やかな青年だった。

 どうしよう――陽は両手で静かに顔を覆った。

 あの日、大学でたまたま、本当にたまたま巡り会った人にもう一度会うために、一人でそ知らぬ喫茶店にやって来てしまった。自分のことを思慮深いほうだと認識していた陽は、行動したあとにどうしようと迷う今の自分におののき、困った。

 あのひとは伊佐名三月というらしい。

 彼によく似合いの名前だと思った。三つの月夜に、いさな――クジラが飛沫を上げながらしかし凜と海面に飛び上がって、浮いていて、あの高い鼻でなにかを吸うように冷たく澄んだ空気を待っている。どこか遠くを堂々と眺めている宵の横顔。

 一目惚れなんて子どものするものだと思っていた。もうはたちを超して数年経つのに、一瞬で魂を抜かれたように腑抜けになっている、たった一人に。言葉を交わしたこともないのに、なにを馬鹿なことをしているのだろう、僕は。

 いっそ何も飲まず食べずに帰ろうか、と思ったところに、背を向けたレジ側から朗らかな笑い声が聞こえてきて耳を澄ました。ぱっと顔を上げる。わずかに一度だけ聞いたことのある、三月の声だった。

 肩越しに振り向くと、会計中の客と談笑している三月の姿が、レジカウンターの向こう側にあった。思い切り笑うと垂れる目尻が可愛らしかった。

 数秒も見続けていられず、すぐに店内の背景に溶け込もうとした。しかし不意に、陽の中のもう一人の陽が自分をすくっと立ち上がらせて、よたよたしながらもカウンターの方向へ歩き出させた。もう後へは引けなかった。ケーキなどが陳列してあるガラス棚がどんどん近付いてきて、いま去って行った客から受け取った金銭を整理している三月に、着実に近付いていく。

 陽が「あの」と声をかけると、三月が目を上げた。

「あ」

 彼は陽の顔を覚えていたようで、注文に来たのが陽だとわかると、瞬時に、人好きのする表情でにっこり破顔した。

「君は、瑛次の大学の。来てくれたんだ」

 三月はさらりとしたオフホワイトのシャツを着て、腰に黒いカフェエプロンを巻いていた。陽との初対面の時にはガッと分けていたワインレッドの髪の前を、今日は下ろし、ベレー帽をかぶっていた。前回は、パーカーにジョガーパンツを履いた緩い私服のシルエットだったので、印象ががらりと変わった姿に胸が高鳴った。

 陽はつい背筋を伸ばした。

「瑛次先輩から、あなたの仕事先を教えてもらいました」

「ああうん、聞いたよ」

 そう言いながら三月は、立ったまま軽くカウンターに肘をつき、薄い瞼のかかった凜々しい瞳で陽をまっすぐ見た。

「大学ではあいつが随分お世話になってるみたいで」

「いえ、そんな。むしろ僕がすごく頼りにしちゃってます。あなたのことも――」

「三月」

「えっ?」

「俺の名前。三月だよ。三月先輩でいいよ。いや、先輩はおかしいか? 三月さん?」

「そ、そんな」

「好きなように呼んで」

 三月の朗らかな笑顔に遠慮して、陽は慌てた。

「下の名前で呼んでいいんですか?」

「いーよ。瑛次の友達は俺の友達」

 そして、三月は営業用のにっこり笑顔に切り替えると、爽やかに言った。

「ご注文は?」

「ええと、じゃあ、キャラメルマキアートのホットを」

「以上?」

「はい」

「お名前は?」

「名前? えっと、陽です。楠木陽」

「うん、知ってる」

 三月は、へにゃと笑った。

「カップに書きたくてさ。漢字はどう書くの?」

「あ、そういう意味ですか……。漢字は、太陽の陽です」

「太陽の陽。オッケー。できたら呼ぶから、座って待ってて」

 ふやけたように返事をして、浮かんだ気持ちのまま席に戻った。

 十年分の緊張を使い切ったようにぐったり疲れたが、数分後、三月に名前を呼ばれたとたん、肩に乗っていた疲労の全てが吹き飛んで空を飛ぶようになった。

 陽の注文を受け渡しカウンターに置き、傍で待っていてくれた三月に急いで駆け寄り、礼を言う。三月は、人の目をよく見ながら話す人だった。

「今日のシフト、閉店までだって瑛次先輩から聞きました」

 カップを受け取りながら、勢いをつけてそう言うと、意外な話題に少し驚いたように、三月は目を丸くした。

「うん? あ、俺? うん、そうだね」

「終わるまで、待っててもいいですか。もしよければ、その後どこか食事でも……」

「え、ほんと? 遅くなるよ」

「待ってます」

 陽がぱっきりと言うと、

「そしたら――」

 と、三月は片方の手首を振って腕時計を確認した。

「――そしたら、あと三十分くらいゆっくりしててくれる? 早めに上がるよ」

「三十分? でも、シフト……」

「俺、優秀だから、ちょっとくらいわがまま言っても融通きくんだ。早上がりなんて簡単だよ」

 三月が悪戯に笑う。

 その気遣いも、覗いた白い歯さえも魅力的で、陽はキャラメルマキアートが注がれたカップを持ったまま後ろに倒れそうになった。

 本来であれば閉店まで働くはずだったのだろうが、早めに終わらせてくれるなんて、そんな勝手を自分のためにしてもらう申し訳なさに一瞬断りそうになったが、さすがに待ちますとまで言っておいて、更なる勝手は言えなかった。

 それに、この人と会えるなら、三十分の待ち時間なんてあっという間だ。

 実際、陽は、待った気持ちの全くないまま三十分後を迎えた。追加で注文したチーズケーキを頬張り終えた頃に、ついさっきまではなかったはずのカツ、カツ、というチェルシーブーツの踵の音が近付いてきて、おまたせと声を掛けられる。バッと顔を上げると私服に着替えた三月が立っていて、陽はまた気が遠くなりそうになった。ベレー帽が消えた代わりに、細く赤い前髪はセンターでふわりと分けられていて、シャツとカフェエプロンを脱いだ代わりに、黒のブルゾンとゆるいシルエットのジーンズを身に纏っていた。全身セリーヌだった。

 気楽にダイニングバーにでも入ろうかという流れになり、適当な店舗を求めて街を歩いている間も、陽は隣を歩く男をあまりにも意識し過ぎて何度か躓いた。日が落ちてきて薄暗くなり、少々肌寒くもなってきた外気をかき分けながら歩いていると、「大学では何を専攻してるの?」とか「出身も東京?」とか話してくれる三月に返事をしながら、ああ、この人はどんな人なんだろう、どこから来てどこへ行くのか、行く末を果てまで一緒にいたいなどと考えてしまい、もうすっかり骨抜きになっている自分に呆れもした。

 店に入って席につく。正面で向き合う形でテーブルについてしまったことに半分後悔しつつ、もう半分では舞い上がって、陽は三月と穏やかな時間を過ごした。

 三月は不思議な人だった。

 濃い茶色の深い瞳にまっすぐ見つめられると、胸の奥底に眠っていた新しい感覚を抉り出されるような緊張が起こってくるが、同時にひんやりとしたシーツに脚を伸ばす瞬間のような心地良さも感じて、目を逸らせなくなる。新鮮で強烈な出会いに動揺しながらも、忘れている記憶をくすぐられるような根拠のないもどかしさもあった。今まで経験してきたことは未来で、これから経験するものが過去になるような、なんとも形容し難い状況だ。存在そのものが矛盾で構成されているようだった。

 だから陽は混乱していた。

 自分が溺れつつあるのが一目惚れから始まった恋なのか、それとももっと何か別の――例えば、新たな章が幕を開けたばかりの重大な物語に足を突っ込んでしまったのか、わからなかった。

 三月を見つめるたび、死体を描いた絵画の前に立っているような残忍な恍惚感があった。三月に見つめられるほど、取り返しのつかないことになっていく気がした。

 恐怖を伴う美しさとは、後悔を伴う門出とは、一体何だ?

「チーズケーキ食べたばっかで、あんまり入んないんじゃない?」

 三月が、フォークで支えた分厚いステーキにナイフを突き立て、前後に押したり引いたりしながら言う。

「きつかったら俺が食べるから、言って」

「ありがとうございます」

 陽は飲み物を喉に通した。本当はお酒が飲みたかったが、ここで酔ってしまったらとんでもない発言や行動に出てしまう可能性が高かったので、我慢した。

「結構食べるほうなんですね? 意外です」

「俺?」

「はい。お肉、好きなんですか?」

 街を歩いていると振り向かれるくらいには目立つ見てくれをしているので、きっとストイックに運動をしているのだろう、と思った。

「うん、好き」

 目を伏せて、しゃくしゃくと咀嚼しながら微笑むから可愛らしい。

 陽はしばらくぼうっと三月を眺めていたが、ウェイターが横を通ったことで我に返り、目の前の食べ物に目を向け直した。

 そのタイミングで、今度は三月が陽を見る。

「食事の時間が一番幸せ。そう思わない?」

「そうですね……」

 陽は口の中の物を飲み込み、続けた。

「僕は寝るときが一番幸せかも。家に帰って、シャワー浴びて全身綺麗にして、布団に潜ってうわーって伸びる瞬間、最っ高です。僕、暗くて狭いところとか大好きで」

「あー、陽ってなんか猫みたいだもんな」

 猫よりも名前を呼ばれたことにびっくりして、フォークを取り落としてしまった。

「でもそれ、わかる。俺も暗くて狭いところ超好き」

「あ……ええと、いいですよ、ね」

「太陽なんて一生出なくていいのにな」

「はは……」

 心臓が耳元まで上がってきたよう。

 陽って呼ばれた。陽って。

 それだけで、全身の血液が沸騰した。

「僕って猫みたいですか?」

 いっぱいいっぱいなのを誤魔化すように言うと、三月は完食した夕飯を前に満足そうに笑い、うん、と頷いた。

 

 

 

 店から出ると、頭上には小さな三日月が浮かんでいた。

 後から店を出てきた三月は、上着をきちんと羽織り直していた陽を見るなり「おっ」と腕を掴んで引き寄せた。すると、その背中のすぐ傍を、陽と同い年くらいの学生の集団が自転車を飛ばして駆け抜けていった。陽ははっとし、礼を言った。三月の年上らしい姿に感激したのか、目をキラキラさせている。

「どの辺りに住んでるの? 家まで送っていくよ」

 そう言うと、陽は嬉しい気持ちを素直に表情に出した。顔中で微笑み、ありがとうございます、と呟く。

 それから二人は、共通の知り合いである瑛次の噂話をしたり、お互いの話をしたりしながら、しばらく歩いた。

 僕の家、ここです。と陽が足を止めたのは、一人暮らしをする学生などが多そうなアパート街で、二、三階程度の比較的低層の賃貸が並ぶ一角だった。街灯の他に、ぼんやり足元を照らすフットライトがぽんぽんと一列になっていて、道端のアパート名や植物を淡く照らしていた。

 弱い街灯に照らされた陽の横顔が、笑顔を保ったまま三月を見た。それから口元をむにむにと動かして何かを言おうとしてやめ、やめようとしてやっぱり言った。送ってくれてありがとうございました、と、体をゆらゆらさせながら落ち着かない。

 沈黙が流れる。

「じゃ」と言って去ればいいものの、両者ともただ立って窺っていた。

 三月は口元に薄く笑みを浮かべたまま、足元に目を落としている陽を見ていた。彼の緊張が直に伝わってくるようで、可愛らしくてどうしようもなかった。取って食いたい衝動を背筋に収めておく感覚に、ぞくぞくする。腹が鳴った。

 どう誘ってくれるんだろうな、と思い待っていると、そのうちに陽の頬から徐々に微笑みが消えてきて、終いには三月を上目に、遠慮がちに見据えた。

 そして、小声で言う。

「初めてのデートで相手を家に上げるような人、三月先輩は嫌いですか」

 静かな住宅街だ。遠くの通りを車が走る音がする。

 三月は不安げな陽に一歩近付いて、同じように囁いた。

「嫌いじゃないよ」

 視線が絡む。

 陽は体の無駄な動きをやめ、じっと三月を見つめた。

「むしろ好きだな」

 そう付け加え、また距離を縮める。少し首を伸ばせばキスでもできそうな位置になった。

 陽は薄い唇を開いて短く呼吸を繰り返していたが、三月がわざと悪戯に言った「好き」という言葉を唾液と一緒にごくっと飲み込むと、耐えきれなくなったかのように眉を寄せた。三月の唇から目が離せないかのような仕草で、やっと視線の先を目に戻す。

「一人暮らしって寂しくて、僕、あんまり家にいないんです。友達のアパートに泊まったりしてばっかりで」

「うん」

「だから、部屋は綺麗なほうだと思います」

「そう」

「……お、お風呂も、すごく綺麗です」

 三月はつい吹き出した。

「はは、君は誘うのが下手くそだな?」

 耳まで真っ赤になった陽が、また口先をもにょもにょ動かして何か言っていたが、三月が笑いを引っ込めてじいっと見つめると、魂を奪われたかのように静かになった。

「俺に興味があるの?」

 と、三月が。

 陽は肺を大きく膨らませて、深呼吸してから返事をした。

「はい」

「君はゲイなの?」

「はい」

「経験もあるんだ?」

「はい」

「普段はどっちをするのが多い?」

「あ……ウケ寄りのリバです」

「そう」

 三月の手が陽の背中に触れて、腰へ下がり、そのまま尻にまで下りてきてそこを撫でた。

「君相手だったら、俺がタチをしたいな」

 と、低く言う。

 陽は、きゅうと眉を寄せ、情欲を誘うような切ない表情をみせた。

「はい。なんでもいいです、なんでも……。だ、抱くなり煮るなり、なんでも、してください……」

 と、ぽーっとしながらムニャムニャ言う。

 

 

   二  サタン

 

 

 早朝。

 小さな湖の周りを背の高い木がぐるりと生い茂っている公園で、若い人間の影がひとり走っていた。辺りは薄暗く、空の縁が白みだしている澄んだ空気の中ではまだ、他の人の姿はまず見受けられない。その人間はジョギング用の服装をしていた。ひとしきり朝の運動をしたあと、林の影からきらきら揺れる湖の水面を眺め、一息つく。腰に手を当て、清々しい気持ちで胸をいっぱいにする。

 三月がそこを通りかかったのは偶然だったが、そのとき求めていたものがなかったと言ったら、嘘になる。

 彼は、湖の開放的な背景をバックにこちらに背を向けて休憩している人間の影に、静かに近寄っていった。地面に広がる落ち葉や枯れ枝を踏まないよう慎重に距離を詰め、すぐ背後にまで迫ると、音もなくバッと腕を伸ばして、人間の口を塞いだ。そして、伸びてきた牙の先端を自分の手の平にツッと滑らせて分泌する毒をつけ、それを鼻に押し付けて吸わせ、眠らせた。まるで無害なシマウマを狙うハイエナだった。

 人間は全身から力を失い、糸を切られた操り人形のように地面に崩れ落ちそうになったので、三月は人間の体を正面から木の幹に押し付けて、立った状態を維持させた。多少面倒に感じながらも、人間の後ろ側から鎖骨の上の動脈に指を当てて、具合を確かめた。

 汗のにおいに混ざって、濃くてなめらかな血液の香りがした。首裏に鼻を寄せ、すんすんと嗅ぐと、魅惑的な血の温度を感じた。迷うことなくガッと大きく口を開き、勢い良く噛みつき、頸動脈に穴を開けた。

 健康的な食生活をしていそうな血の味だった。何度か喉を鳴らして飲み込んで、気が済んだあと、手の中に収まるくらいの小さな瓶を取り出し、鮮血がどくどく流れ出る傷口に押し当てて容器の中を満たした。それを数本作る。

 そうして用事が終わったら、舌の腹でじっくり舐めて傷を塞いで止血した。吸血鬼の唾液には、自然治癒力を高めて傷を即時に治す効果が、実はある。傷はほとんど残らないだろう。

 意識のまだない人間を地面に横たわらせ、三月は傍にしゃがんだ。人間の腰に固定してあった鞄の中をあさり、財布を見つけ出す。そこにあった運転免許証を見ると、この人間の年齢や性別がはっきりわかった。

 二十三歳、男性。

「ビンゴ」

 上機嫌に小声で言い、免許証はすぐに鞄へ戻した。

 彼が目を覚ますまで待って、無事を確認するのは面倒だった。急に興味をなくしたように立ち上がって、三月は未練なく立ち去って行く。

 

 

 

 目を覚ましてから数秒はぼんやりしていたものの、すぐに昨夜のことを思い出し、陽は飛び起きた。

 勢い良く隣を見る。

 と、シーツがくしゃくしゃになったシングルベッドには普段のように自分しか寝ていなかったので、一瞬夢だったかなと疑った。しかし視線を移すと、床に転がった下着や使用済みのコンドーム、量がかなり減ったローションのチューブなどが、午前の健康的な日光に照らされていて、本当に現実だったのかもしれないと思わせぶりをしてきた。

 あの人はどこへ?

 焦って起きようとしたらベッドから転げ落ちてしまって、ただでさえ怠い体に鈍痛が走った。しかし、そんなことはどうでもよくて、慌てて携帯電話を手に取り、画面を明るくした。メッセージの通知などはない。時刻は午前九時。今日は月曜日だ。一限目に遅刻した。

 床に転がったまま、うなだれてのっそり顔を起こした。すると、テレビの前に置いてあるローテーブルの上にメモが見えたので、陽は全裸のまま四つん這いで這って行って急いで内容を読んだ。

 仕事行ってくるね、と、ひとこと走り書きされていて、隅には猫のようならくがきが描かれていた。名前は書かれていなかったが一人しかいない。その下段には、携帯電話の電話番号が書き足されてあった。陽は、目から数センチメートルのところに紙を持って凝視した。

 夢じゃなかった! しかも電話番号。ラインすら知らないのに急に重いものを知ってしまった。電話をしてもいいということだろうか?

 うわああ、と声を上げて床に倒れ込む。

 同刻。

 カフェには、モーニングを目的にやって来る客が集まってきていた。

 三月が出勤し、大きな欠伸をしながらレジに釣り銭を用意する作業をしていると、カフェエプロンを腰に巻いて準備を終えた後輩が、すっと隣にやって来た。

「寝不足ですか? 三月先輩」

 理人は今日も朝から爽やかで、年下らしく愛らしい目を輝かせていた。

 三月はもう一度欠伸を伸ばした。

「久しぶりに朝帰りしちゃった」

「朝がえ」

 理人は言葉を切った。そして、目頭に力を入れ、コーヒー豆を収納するガラスケースを拭き始めた三月をチラチラ見る。

「それって、その、泊まってきたってことですか。女の人の家とかに?」

「うん。男だけどね」

「あっ、そう……、なんですね」

「変に気遣わなくていいよ。バイなんてそこらへんにうじゃうじゃいるから」

「バイ?」

「バイセクシュアル。男も女も好きなんだ」

「そうなんですね。それで男の人の家に。わー……先輩は大人ですね……」

 理人はへなっと笑う。

「僕なんか、サークルの綺麗な先輩方と喋るのもやっとだし、それ以前に、もう、毎日一限目に遅刻しないようにするだけで必死ですよ。今日みたいに午前中に授業がない曜日は天国です。早く大学生活に慣れたいなあ」

「すぐ慣れるよ。お前はすごく器用じゃん」

 三月はふきんを絞った。蛇口をキュッと捻り、湯を止める。

「ほら、お客さんが来たよ」

 理人は肩越しに振り向いて、レジに並んだ客が丁寧なメイクをしたニ、三人の大人の女性だと知ると、「勘弁してくださいよ」という表情を三月に向けながらもレジへ向かった。

 

 

 

 その日の陽は、勉強に全く身が入らなかった。

 講義を受けていても、昨夜のことをありありと思い出して、勝手に一人で赤面してジタバタしてしまうし、キャンパス内でちょっと赤っぽい髪色をした姿を見かけただけで心臓が口から出そうになるし、散々だった。

 経験は、人並みより少し多いくらいはあった。ゲイを自覚した高校生の頃からインターネットで情報収集をしてきたこともあって、都内の大学に進学したら、絶対に仲間が集まる場に行きたいと思っていたから、引っ越したその晩にはもう新宿二丁目に足を運んでいた。家族にはカミングアウトしていなかったから(というより、とてもできるような環境ではなかった。陽は母子家庭で育ったが、母は同性愛者を排除する方針の宗教に心酔していたし、母を少しでも刺激すると、文字通り大怪我をする恐れもあった。)、背筋を伸ばして同性を好きでいられる空間の解放感には、涙が出た。

 彼氏がいた時期もある。特定の人と恋人にはならずに、一晩だけの関係を繰り返していた時期もあった。セックスもそれなりにしてきて、慣れてはいるはずだった。

 だから、昨夜は事件だった。

『初めて中だけでイけちゃって、失神しそうになった』

 図書館でレポートを仕上げる合間に、ゲイバーで知り合った仲間に、そうラインした。

『あんなセックス初めてした。ドタイプ過ぎて一瞬で好きになっちゃったのに、おまけにエッチもいいってやばくない?』

『やばい。絶対逃がさない方がいい』

 と、すぐに返事がくる。

『ていうか、相手、タチで良かったね。これだけ好きになったあとに逆だったら大変だったんじゃない?』

『そうだったら僕が頑張ってタチやってたけど、違くてほんと良かった』

『付き合うの?』

『わかんない。僕はそうしたいけど、相手がどう思ってるか』

 図書館を後にして、教授にレポートを届けて帰路につく。ハイネックニットの首部分を上に伸ばして、顎を引っ込め、頬を撫でる冷たい外気から肌を守りながら歩いた。

 正門の傍に、一台の車が停まっていた。どこかの国の車種で、なんでもない道路にあると非常に目立つ真っ赤なものだったが、それそのものよりも、中に乗っている人物の横顔に見覚えがあった。運転席がちょうど正門側のほうにあったので、姿が見えた。窓を下げて、枠に肘をかけている。影になっていてよく見えないが、あれは確かに。

 しばらく立ち往生していたが、結局、陽は足を踏み出した。キャンパスから帰宅する他の学生たちも、普段見ないものに興味を引かれてその車を振り返っていた。

 陽が近付いて行くと、気付いた三月は顔を上げ、サングラスを外して「や」と手を挙げ、挨拶した。

「お疲れさま。今日の授業は終わり?」

「どうしてこんな所に……」

 陽は咳払いし、かすれた声を直した。

「瑛次先輩でしたら、向こうのキャンパスにいると思います。僕達、いつもはキャンパスが違うんです」

 そう言うと、三月は目を丸くしてきょとんとしたあと、眉を下げて困ったように笑った。

「まいったな。それは俺とはもう会ってくれないってこと?」

「え」

「お前を迎えに来ちゃだめだった?」

「ぼ、僕?」

 今度こそ本当に声が裏返った。まさかと思っていた展開がきて、動揺する。

 三月は運転席から降りると、ぐるりと車体を回り込み、助手席のドアを開けた。

「乗るか乗らないか、お前に任せるよ」

 そう言って穏やかに微笑む。

 答えなど決まり切っていたが、慌てて乗り込むのもかっこ悪いと思い、陽は少々迷ったような素振りを見せてみてから、三月のほうへ寄った。そして、まだ扉を開けた格好で待ってくれている姿を横に、バッグを膝に乗せながら助手席に座った。ばたんと、外からドアが閉められる。

 緊張して一瞬、目眩がした。車内は綺麗で、埃ひとつない。三月の香水ではない、芳香剤か何かの別のいい匂いがした。地面にリズムを乗せて小さく響いているのは、聞いたことのない英語のラップ曲だった。陽だって運転免許証はあるし、車も持っているが、学生の持つそれより桁がいくつか違いそうなものだった。

 三月がまた車体を回り込んで運転席に戻ってくるまでの時間が、永遠に感じられた。彼は、よっこらせ、などと言いながら朗らかに座り、窓を上げて閉めた。

「今朝は勝手に出ちゃってごめんな」

「あ……いえ。仕事だったんですよね」

 仕事、と言いながら、アルバイト程度のシフトで気楽に働いていそうなカフェの業務を思い出し、この車とのギャップに多少の違和感を覚えた。

 そういえば三月はいつも、誰でも知っているようなブランドの靴や服を着ているし、いかにも高価そうな腕時計を輝かせている。しかしそんな考えも、彼が静かにエンジンをかけた瞬間、吹き飛んだ。

 三月は運転席から腕を伸ばし、陽のシートベルトを肩上から伸ばして、腰でカチリと閉めた。ふわりと彼の香水が匂う。急接近した距離にびっくりして動かずにいると、ベルトを見ていた目線がふと上がり、視線が絡んだ。

 唇で軽く唇をつままれて、チュ、という小さなリップ音と一緒に離れられる。

「ホテル行こうか」

 鳥肌が止まらない。

 陽はこくこくと頷いた。

 

 

 

「あ……――っ!」

 陽の手が、逃げ場を求めるように壁にしがみついた。

「む、無理、もう無理です、おかしくなっちゃう……っ」

「煽ってるの?」

 シャワールームの一角だった。といっても、ベッドのある場所からガラス一枚でしか区切られていないため、実質ベッドルームだ。

 全身鏡に向かって手をついて立ったまま、後ろから何度も深くまで貫かれ、陽は息絶え絶えになっていた。膝が笑い、立っていられなくなる。が、背後から三月に腰を支えられ、終わらない快楽に体力と思考が奪われる。

 イく、と言う前に追い上げられて、鏡に額を押し付けたまま達してしまった。全身から脱力して、隣にあった広い洗面台に突っ伏す。頬をつけた大理石調の台は、最初はひんやりと感じたのにすぐに熱くなった。

 三月は後ろから手を伸ばして、陽の顔のすぐ前で、中に液体が入ったコンドームの口を縛って手放した。それは、白濁の重さで洗面ボウルの曲線を伝って下に滑り落ちていった。そして彼は新しいコンドームの小袋を拾うと、わざとなのかまた陽の目の前で開封し、綺麗な形状の輪っかを取り出した。

 それが視界から消えて、おそらく三月の下半身のほうへ連れていかれる。う、と、喉の奥から声が出た。すぐにアナルに触れる熱を感じて、声はしめった吐息へと変化していった。

「陽」

 呼ばれて、腰を掴まれる。

「立たないならこのまま入れちゃうよ?」

「っだめ、です……休憩、」

「休憩?」

 軽く笑う三月の声がした。

「休憩してもいいけど、その間に萎えちゃうかもよ」

「う……」

 頼りない足に力を込めて上体を起こし、陽は再び鏡の前に立った。

 三月は後方から陽の背中に口付けると、背骨の堀を舌の先でつうっと舐め上げた。陽が感じ入った声を上げた。三月はそうして再び陽の後ろの穴に手を伸ばすと、丁寧に指を挿入させた。

 三月が顔を上げると、鏡を通して三月を見つめていた陽と目が合った。陽が逃げないよう背後から腰を片手で抱き込め、にやりとする。

「鏡見ながらするの、興奮する?」

「っ、こんなの、誰だって興奮します」

「確かに」

 三月はいったん全ての指を引き抜くと、自分の性器を陽の尻の割れ目に這わせてあてがった。陽が息をつく。

「陽の顔が俺に丸見えだね」

 三月は、首裏まで真っ赤にして鏡から顔を反らす陽の顎を後ろから掴み、正面を向かせた。驚いて見開かれた陽の目が、しっかり鏡越しに自分を見た。同時に三月は腰をぐっと進め、性器の先端を穴に押し当てた。

 顎を固定されたまま、開かれていた陽の目がくにゃっと垂れた。眉を寄せ、はあっ、と、熱い息を吐く。日中は美しい微笑みを絶やさない三月の眼差しが、今こうして、真っ赤な欲と興奮に燃えているところから目が離せない。意地悪で、ゾクゾクする。

 三月は鏡で陽の表情を見つめながら、性器を穴にぐにぐにと擦って、耳やうなじに唇を押し当てた。挿入されそうでされないいじらしさに、陽が表情を歪める。

 三月は手を自分の性器に添えると、陽の尻の割れ目に何度もそれを擦りつけながら目を伏せた。挿入している時のように腰を揺らし、息を吐く。すぐ目の前にあった陽の白いうなじに唇を触れさせ、舌を這わせ、名前を囁いた。

 ぞわぞわと、陽の肌に鳥肌が立った。

「は、あ……せんぱ……っ」

 先ほどからの入りそうで入らない感覚がたまらないのか、または肌の敏感な部分を唇や舌で撫でられる感覚が気持ち良いのか、陽の鼻から抜ける声が隣のシャワールームにまで響いた。

「かわいいよ、陽。でも、エロいことしてくれたらもっとかわいい」

「っえろ、いこと……?」

 目を上げると、陽と鏡の中の陽の目が合った。汗でびっしょりに濡れた前髪の間から、涙で潤んだ瞳が見返してくる。鏡越しに三月に見つめられていることも、わかっていた。

 陽は顎を上げ、目の前の鏡に唇をつけた。目を伏せて何度も食んで、舌も使い、時折鼻から息を漏らしながら続ける。

「陽が陽とキスしてるみたいだ」

 三月が、たまらないといった様子で軽く笑った。

「お前、本当に最高だよ……」

 と、三月は何度も、陽の背後から首裏に唇を押し付けた。耳の裏まで隈無く舐め上げ、耳朶を甘噛みする。ぞくぞくする感覚が泊らなくて、熱風のような息が漏れた。

 三月は「でも」と続けた。

「俺、これあんまり好きじゃないな」

「え……?」

「この形、苦手なんだ」

 三月は、陽がつけていた十字架のピアスの片方に歯を立てた。そしてなんと、そのまま真っ二つに噛み砕いた。陽が肩で息をしたまま驚いて固まっていると、器用に前歯でピアスのチャッチを引き抜き、砕けたピアスを床に落とした。空になったピアスホールに犬歯を通すように軽く、噛む。陽は肩をびくつかせた。

「そっちはどうするの?」

 言われた意味がわかってしまい、陽は背筋をゾワゾワさせながら、綺麗なほうのピアスに触れた。そして、三月が鏡越しにじっと見てくる前で、抜き、片側と同じように床に落とす。三月は足でそれを踏み潰した。

「新しいの買ってあげるよ。クロムハーツ以外でね。ところでさ」

 三月は陽の何もかもを見透かしているような調子で、裸になったピアスホールをもう一度噛んだ。上体をぴくりとさせるのと同時に、「ぁ」と小さく声を出してしまう。

 陽は急いで口を塞いだ。

 しかしもう、遅い。

「ちょっと痛くされるの好き?」

 と、三月。

 陽はブンブンと強く、首を横に振った。

 三月は微笑んだ。

「恥ずかしがらなくていいよ。セックスは気持ち良いほうがいいし、セックスに気持ち良さを求めることは恥ずかしいことでもいけないことでもない」

 そう言い、彼は着ていたパーカーの、フード部分を締める紐を引き抜いた。ついでにパーカーは脱いでしまう。紐を下に伸ばすと先端が床に触れる。幅が太めの紐だった。

 三月はそれをくるくると緩く手首に巻き付けると、その一連の動作を鏡越しに見ていた陽と目を合わせた。

「もう一回聞くよ、陽」

 と、陽が前の壁についていた両方の手首に、背後から触れる。

「痛くされるの好き?」

 彼が何をしようとしているのか予想ができた陽は、つい、熱い息をついてしまった。

「……。……少し、興奮します……」

「うん。わかるよ」

 手首をしっかり掴まれ、両方を背中側に回される。そして三月は、陽の両手首を紐でゆるく縛り、背中側の腰のあたりで固定した。

 今まで、それなりに性行為はしてきたし、経験人数も少なくはないほうだと思う。しかし、このような行為に及ぶのは全く初めてだった。自分の奥底に秘めていたものをじっくり暴かれるようで、どうしようもなく熱が上がった。

 この人に全てを見られる、全てを知られるのは、一体どんな感覚なのだろうか?

 硬いものが肉を割って入り込んでくる感覚に、陽は身震いした。

「……あ」

 一度ぎりぎりまで引き抜かれた性器がゆっくり割り入ってきて、奥をぐりっと抉る。三月は陽のうなじに歯を立て、軽く引っ掻くように滑らせた。両手の自由を奪われた陽は、腕で壁に寄りかかることもできず、顔を鏡に押し付けて自分の体重を支えた。

 肌と肌がぶつかる音が再び始まって、もう冷静になどなっていられない。おまけに、三月がすぐ耳元で心地良さげな息をつくので、肌の裏側まで鳥肌が響くようだった。みっともない嬌声と一緒に、唾液が顎を伝っていった。

「っあ、あ、あ……っ、三月、せんぱ、」

 歯がガチガチ鳴る。目の周りにチカチカと星が飛ぶ。

 紐が手首に食い込む感覚が、脳天を痺れさせる。

「気持ちい?」

「っき、きもちい……やだ、や」

 三月は、陽の肌にぷつぷつ浮いてくる汗を全て舐め取った。舌をいっぱいに使って体液を舐めながら、

「何がやなの?」

 と聞く。拒否の言葉を聞いた三月は、陽の手首の縛りを解いて性器をずるりと抜いた。

 陽は壁にもたれかかってしゃがみ込み、口元を手で覆い、呟いた。

「気持ち良すぎて、こわいんです」

 細い手首が線状に薄く充血している。はだけたシャツから覗く肩や鎖骨の窪みは、上気して真っ赤だった。その青い皮膚の下に血液が通っている証だった。

 三月は、へたり込む陽の前にしゃがんだ。

「俺の体をそんなに気に入ってくれたならよかった」

 いっそ優しげに微笑み、ぐっしょり濡れた陽の前髪をかき上げるように撫でる。

「ベッド行こうか? そろそろちゃんと動きたいんだけど」

 陽が指の間から息を漏らした。何かを予感してか、何もされていないのに、ふ、と声を出す。舌先で自分の歯をなぞる三月の仕草に、催眠術にでもかけられたかのように頭がぼうっとする。

 立ち上がった三月が、ゆっくり背を向けて歩いて行く。彼の行く先には、趣味の悪い血の色のベッドが待っていた。

 陽はそのとき初めて、三月の背中に大きな傷痕が残っていることを知った。ちょうど羽でも生えていたかのような肩甲骨の位置に、左右にふたつ、生々しい縫合の形跡があった。

 彼が歩くたびに手に持った紐が床に垂れて、尻尾のようにくねくねと動いた。

 羽と、尻尾と、あと角でもあったら、この血の色の髪をした黒い影はまるで――

 この悪魔について行ってしまって良いのか、立ち止まって考える時間はあった。いくらでも引き返す機会はあったはずだった。一度落ちてしまったらもう二度と戻れない予感が、ずっとしていたのだ。

 しかし、陽は立ち上がった。

 裸足で、ふらつく足で進み出す。

 先にシーツに腰掛けた三月の元に着くと、優しい力で手を引かれて導かれた。腫れ物を扱うようにそうっと、清潔な布地の上に寝かされて、シャツを剥がされて全裸にさせられた。対して三月はまだスラックスを履いていたから、恥ずかしくなって顔を反らした。

 ふっと、部屋の明かりがしぼられる。三月は仰向けに横になった陽に跨がり、ホテルに準備してあったテープを一巻きと、新しい避妊具を持った。深いキスが降ってきて、そのまま、両方の手首を頭の上でシーツに押し付けられる。万歳のような格好になってしまい、その無防備さが少し不安だった。

「ちょっと縛ってみようか?」

 三月は穏やかに微笑んだ。

「手、上げてて」

 囁くと、陽は従順に両腕を頭上に上げ続けた。メッシュ素材でできた柔らかいボンデージテープで、陽の目元をぐるりと覆う。それから頭上の手首も合わせて縛り、縛った先をベッドヘッドに結んで固定した。

「大丈夫? 痛くない?」

 と、三月は陽の額に口付けた。

 陽は早くも胸を上下させ、細かいペースで呼吸していた。

「っ、はい、でも、何も見えない……」

「そりゃあそうだろ。何も見えなくしてるんだから」

 布一枚羽織っていない肢体を、舌先でつーっと撫でる。陽がおもしろいくらい敏感に反応して呼吸を乱すので、愉快で可愛くてどうしようもなかった。触るだけで絶頂を迎えてしまいそうだ。

「陽」

 三月は手のひら全体で陽の脇腹を撫で上げた。

「縛られるの、好きなんだ? 目隠しも?」

「……っ、知らなかっ……」

「知らなかった? 自分でも」

 陽が細かい息をしながら小さく頷く。

 三月は微笑んだ。

「じゃあ、一緒に知っていこうか。運良く俺はこっち側が好きだ。こうやって縛ったり、」

 と、陽の手首を結ぶテープを握る。

「目隠しさせたりするほうが」

 と、今度は陽の両目を覆うテープにキスをする。

「あとは何をしてほしい?」

「……っ」

 陽は胸を大きく上下させていた。もう抑えきれないほど興奮しているようで、シワの寄った眉間に汗を浮かべて、覆われた目を三月の声がするほうに懸命に向けている。

「ぜ、全部、全部してください」

「全部?」

「っ先輩、に、めちゃくちゃにされたいです……」

 蚊の鳴くような声だった。

 三月はその唇を軽く噛んで(陽が鼻から高い声を上げた。)、ぺろりと舐め上げる。

「ご褒美みたいなことを言ってくれるんだな?」

 掠れそうに低い声でそう言われると、陽は全身に鳥肌を立てて、どこにも触られていないのに短い嬌声を漏らした。

 陽の視界がしっかり塞がれていることを確認し、三月はいったんベッドから離れた。傍から人の気配がなくなったことに不安になったのか、陽がぎしりとベッドを揺らす。

 三月は静かに隣の部屋へ行き、冷蔵庫へ向かった。奥に冷やしておいた小瓶を取り、手にして部屋へ戻る。陽がシャワーを浴びている間にしまっておいたものだった。さらに言うと、以前、よく知らない公園で入手してきたものだった。ラベルの記載を確かめる。

 二十三歳、男性、首。

 三月が近くに戻ってきたことを察して、ほうと息をついた陽に跨がり、瓶を開けた。そして、その胸の上で瓶を横に倒し、中身をとろりと垂らした。小麦色の肌に鮮やか過ぎる赤が伸びて、滑り落ち、赤いシーツにさらに赤く、染みを作った。

 ヒヤリとした何かの液体を垂らされたことを感じた陽が、びくりと身じろぐ。鎖骨の窪みにできた血溜まりが揺れて、それを見下ろしているとじわじわと高揚してきた。伸びてきた犬歯が唇に触れたのを感じる。

 陽が、見られている羞恥に耐えるように足をもぞもぞさせた。

「先輩……何してるんですか、これ、なに」

 三月は答えない。

 上体を倒し、覆いかぶさる。軽くキスをしてから唇を滑らせ、首から下へ移動していくと、さっきこぼした血液に舌が触れてビリッとした。

 三月の肩が揺れる。体中が痺れる。爪から肌から何もかも、新陳代謝が急激に進むような電撃が走り、つい声が漏れた。はああ、と吐いた息が陽の肌に当たって跳ね返り、自分の口に当たった。舌の腹を存分に押し当てて液体を舐め、飲んで、余すことなく吸い取った。

 この肌を切り裂けば、こんな似た他の誰かの血よりももっと、細胞の一つ一つまで酔わせてくれるほど素晴らしいものが溢れ出すことは、わかっている。確実に。陽の血は絶対に何よりも極上のはずだった。こんな匂いを他で嗅いだことがないのだ。他人の血を皮膚にこぼされようと、その奥できらめく宝石みたいな甘さ。匂いだけで恍惚とするのに、実際に舌でこれを感じたら、一体どうなってしまうのだろうか。

 人間の血には当然、旨い不味い、好みの違い、与えてくれる力量の差などがあるが、吸血鬼にとってのヒトの血液はまさに、生命の源なのだった。人間で例えるなら、水だ。肉体の維持のためには野菜や肉を摂取する必要があるが、水も毎日のように飲まなくてはならない。

 ただ、透明無色のように思える水にも味はあるし、まるでお伽話の中の若返りの水のように、口をつけただけで驚くほどのいのちを与えてくれるものも、ある。

 三月は、自分にとって陽の血がそれなのではないか、という思いがどうしても拭えない。

 それを飲んだ暁には、気が触れるほど興奮して、陽を死体にするほど喉を潤す自分の姿が、容易に想像できる。それはそれはもう、他にない幸福だろう。百年に一度巡り会うかわからない、腹の底から欲してしまうものを自分の血肉の一部にした陶酔感、を、正気のまま受け入れられるはずがない。

 上半身をこれでもかというほど舐められて喘いでいた陽が、上がった呼吸の合間に弱々しく、声をかけた。

「先輩、」

「ん……?」

 人間の血液がもたらす興奮状態でどっと汗をかいた三月は、湿気で額に貼りついた前髪をかき上げ、再び陽に覆いかぶさった。射精も何もしていないのに、息が上がって仕方ない。

「触ってください……あの、下……」

 言われて見てみれば、陽の性器は完全に持ち上がっているだけでなく、先走りが竿を伝ってぴくぴく動いていた。手のひらで包み込み、漏れた液を利用して親指の腹で先端をぐりぐり擦ると、待っていた快感が与えられた陽が大きく息をついた。

 その吐息が顔にかかる距離で、テープをしっかり巻かれた彼を見つめる。髪の影で妖しく光る三月の目は、深いルビー色に染まり、下唇に当たる犬歯は鋭利に尖っていた。

「あ……っ、ん」

 腫れたアナルに指を入れると、陽はひときわ大きく鳴いた。脚を開かせて、その間に腰を収める。飲んだ血液のせいでこれまでにないほど昂ぶり、硬くなった性器にコンドームをかぶせ、じりじりと腰を進める。根元まで飲み込むと、陽は満ち足りたように息をついた。

「先輩、せんぱ……」

 いつ飲める? いつ食べようか?

 この人間を。この絶品を。

「三月先輩……、すき、好きです……」

 三月の手が止まった。

 

 

   三  ヒール

 

 

 不審な影に突然襲われたときの映像が断片的にずっと残っていて、それが体調が優れないときに見た夢なのか、それとも幼い頃の実際にあったことの記憶なのか、瑛次はずっとわからないでいた。だから、音なく降る雪の朝、予期しないタイミングで突然その映像が脳をよぎったときも、自分が一体何を思い出したのかよく掴めなかった。

 不意に昔のことを思い出す瞬間はある。誰にでも。いつでも。それなので瑛次も気に留めていなかったが、今日の回顧はなぜかやけに鮮明で、そのときの気温や音まで蘇ってきたのだから少し驚いた。

 自宅から大学までの道のりは長くはない。十分程度歩けば着く距離だ。細かい雪が降っていようと気にせず傘もなく歩き、キャンパスへ向かうと、到着後すぐに友人に遭遇した。朝からあの教授の講義はきついよな、なんて喋りながら講堂へ急ぐ。それからいつも通り授業を受けて、図書館で勉強をした。

 異変を感じ始めたのはその頃だった。

 誰ひとり無駄話などしていない図書館でふと、鼻がひとつの匂いを嗅ぎつけた。

 ひどく惹かれる香りだった。甘く香ばしく、蜜のようで辛のよう。ぐうと腹が鳴る。途端に集中が切れてしまったので、瑛次は仕方なく、半端なところで自主学習を中断して荷物をまとめて立ち上がった。

 どうしても匂いの正体を突き詰めたくて、早足で図書館を歩き回った。次第に空腹で目眩がしてきて、苛立ち始めた。

 瑛次は焦る。階段を下りる。一階に行くと匂いが強くなったので、ここに正体の場所があると確信した。

 一体なんだろう、このにおいは。今まで嗅いだことのないほど魅力的な香りだ。胃がキリキリする。心なしか唾液の分泌も活発になってきた。

 やがて、瑛次の足は止まった。

 鼻をひくつかせながら元を辿った先は、図書館の受付に座っていた司書だった。

 そんなはずないと思った。この匂いは絶対に食べ物なのに、絶対にこの突然の空腹を満たしてくれる料理なのに、と思った。しかし、匂いの元である目の前にはひとりの司書が座っているだけで、はて、と首を傾げた。

 司書は縁のない眼鏡をかけた若い女性だった。彼女はカウンターの向かいに瑛次が立っていることに気が付くと、顔を上げて何か声をかけてきた。よく見ると、彼女は右手で左手の人差し指をそっと握っていた。そこに絆創膏をしていた。紙か何かで切ってしまったのだろう。薄いガーゼの部分に赤く血が滲んでいるのが見えた。

 その途端、瑛次は体内が大きくドクンと脈打ったのを感じた。口の中にぶわっと唾液が広がり、頭の上半分がカッと熱を持つ。腹部は空腹の限界を痛みで訴えてきていて、脚がふらついた。ついカウンターに手をつくと、司書の彼女が心配してさっと立ち上がり、肩を支えようとこちらに手を伸ばしてきた。

 瑛次はその手首を掴んだ。驚いて身を引こうとする司書のこともお構いなしに、彼女の手を持って指先の絆創膏に鼻先を近付ける。大きく香りを吸い込んだ。

 間違いなかった。ここだ。この匂いだ。

 この飢えるような空腹を満たしてくれるのは、間違いなく「これ」だった。

 目を上げると、すっかり怯えきって声も出せなくなっている司書の眼鏡のレンズに、瑛次の瞳が反射して映っていた。熱がないような白色、いや、銀色だった。日が落ちてきた図書館に鈍く光る、二つの目。それが自分のものだと理解するまでに数秒かかった。

 慌てて司書を解放したが、彼女も瑛次の異様な瞳に恐怖を覚え、目を大きく見開いて小刻みに震えていた。同じくらい、瑛次自身も動揺して恐怖した。

 何が何だかさっぱりわからないまま、とにかく急いで駆け出した。全速力のまま自宅のマンションへ向かった。走っているうちに冷静さを取り戻した。急激な空腹も、魅惑的な香りも、よく考えてみればおかしい。さっきの自分は一体何だったのだろう。困惑だけが残る。

 そのときまた、あの謎の影に襲われた映像が頭を過ぎった。

 満月の夜、道端でいきなり成人男性大の影に体を押さえつけられ、首辺りを引っ掻かれた。幼かった瑛次が恐怖で凍り付いているうちに、影は引っ掻いた場所にがぶりと噛みついてきた。痺れるような痛み。貧血が起きたときのような立ちくらみ。影の中に見えたのは、ぼんやり重く光る色のついた目だった。

 思えば、子どもの頃のあの出来事のせいで、半分人間半分吸血鬼、のような中途半端な物体に成り下がってしまったのだ。俺は。

 瑛次は独白する。

 あの吸血鬼は血を飲むだけでなく、幼い瑛次の血管に自身の毒を注入していたに間違いなかった。

 背中側は崖だった。立っているのは崖の淵だ。しかし、目の前に広がっているのは暗闇でしかなく、どちらを向いても絶望があるだけだった。

 そこに、一筋の光が差し込んだ。

 どちらにも属しきることができず、中途半端に血を求めては中途半端に自己嫌悪に陥り、周囲の人間の誰にも打ち明けることなどできず、自分で自分を責めては傷付いて慰められた気になっていた。あの生あたたかい泥沼のような地底から自分をすくい上げてくれたのは、一人の存在だった。

 光に向かって手を伸ばす。その手を取ってくれた存在は、上品に口角を上げて柔和に笑い、「手のかかる弟だねえ」とこぼした。

 

 

 

 飛び起きた。

 瑛次は額の汗を拭った。人間だった頃の身体の感覚が、たった一秒前までその姿だったかのように、ありありと染み込んでくる。

 リビングのソファーで読書をしているうちに睡魔に襲われたようで、気付けば、腹の上に本を置いて自分の腕を枕にしたまま、眠りこけていた。

 時計を見る。午後十時半を回ったところだった。目頭を擦って視界をはっきりさせつつ、ぼうっとしていると、数字のない飾りのような時計の埋め込んである壁の向こう、ゆるくアーチを描いたスケルトン階段を下りてくる三月の姿が見えた。

「おー、やっと起きた? 瑛次」

 彼はいつものカジュアルな服装ではなく、ジャケットを羽織っていた。普段はゆるいシルエットのファッションを好んで着ているから、今夜のような締まったパンツ姿は珍しい。そこに、しっかりお馴染みのサングラスをかけていた。

「耳元で叫んでも起きないから、薬でも盛られて殺されたのかと思った」

「はは、冗談……薬で死ねるなら苦労しないさ」

「まあね」

 三月はコーヒーを飲んでいた。

「なんか久しぶりに家でお前を見るな」

 と、瑛次が。

 三月は笑った。

 そして、今かけている物と同じような形状のサングラスをもうひとつ取り出し、瑛次にかけた。視界が急に暗くなる。寝癖を掻きながら見上げると、三月はにっと頬を持ち上げた。

「狩りに行こう。あいつが日本に来てるらしい」

 

 

 

 二人は三月の愛車で出発した。

 途中、「ちょっと拾いたい奴がいるんだけど」と言いながら一時停車した場所には陽がいたので、瑛次は眉を持ち上げた。助手席には荷物があったので、彼は後部座席に座った。

 陽は、普段瑛次が大学で見るような格好ではなく、上半身がぴったり締まる白地に派手な英字とロゴのあるティーシャツに、ギラギラしたベルト、真っ黒なスキニーを履いていたので、瑛次は少々驚いた。後部座席の瑛次の隣に座るなり、重めの前髪を色っぽくかき上げる。この子がこんな風になれるとは知らなかった、と、舌を巻いた。

 陽は、三月の助手席にある荷物が誰の所有物なのか気にしたり、三月が昨夜どこで何をしていたのか知りたがったりしたが、隣で瑛次がなんとなくフェイクを混ぜながら説明すると、納得したのか普段通りになった。少し会わないうちに、いつの間にか三月に相当本気になっていたらしい。

 もしかして――瑛次は考える。

 最近、三月は陽と夜を過ごしているのだろうか。はて。三月が特定の一人の人間と濃く長い関係を持っているのを見たためしはないが、何か思うところがあるのだろうか。珍しいことだ。

 車は近くの知り合いの駐車場に停め、少し歩いた。

 めあての建物の正面には、長蛇の列ができていた。当然だった。このクラブは、国内にとどまらずアジア中で人気の、言ってしまえば観光名所で、クラブ好きなら絶対に一度は行きたいと名の知れた場所だ。音響の設備は完璧、DJの質も良く、たまにプロとして活躍している有名な者もブースに乗る。提供される飲食物も文句なしだが、瑛次と三月には、他に目的があった。

「ここ、来るの初めてです」

 三月の隣で陽が目を丸くする。

 両耳には、三月が贈った、シャネルのロゴを象ったピアスが揺れていた。

「だってここって、いつも満員じゃないですか。列もすごいし。ほら」

「俺たちといれば列なんて関係ないよ。思い切り遊びな」

 そう言い、三月は陽の肩に腕を回した。

 そして、数歩前を歩く瑛次に声をかける。

「瑛次、今日はお前の奢りだっけ?」

 瑛次が振り向く。

「いや、お前だろ? この前が俺だった」

「そうだっけ? 騙されてる気がする」

 真面目な表情で首を捻る三月が可笑しいのと、憧れのクラブに行ける高揚感とで、陽はケラケラ笑った。

 瑛次と三月の二人は歩いているだけでも目立つのに、ジャケットのポケットに手を突っ込んで堂々と列の横を進んで行くから、皆の注目を集めていた。彼らはそして列の先頭で足を止めると、入口のスタッフの横で手首を機器に掲げた。すぐに入場の許可が出る。

 三月はいったん陽を離し、扉から入ったすぐの場所で談笑していた男性に声をかけた。

「ヒスン」

 呼ばれた彼は振り向くと、三月、そして瑛次を見て、顔中をくしゃくしゃにして嬉しそうに破顔した。そして再会のハグをする。

「しばらくだな。瑛次もいるのか!」

「久しぶり」

 と、ヒスンが差し出した手を握り、握手を交わす。

 ヒスンは、何かのゴツゴツした絵が入っているティーシャツに黒レザーのジャケットを羽織り、首にヘッドフォンを引っかけていた。

 DJだろうか。陽は思った。呼ばれた名前からすると韓国の人だろう。陽の好きなKポップアイドルに少し似ていて、ひとりで勝手にどきどきする。彼は三月とは特に親しげで、体をゆらゆらさせながらしばらく立ち話をしていた。金髪の下の目を細めて笑っている。

「来るなら事前に言ってくれよ。お前らに……たい人間なんて山ほどいるんだから」

 建物内から地面を揺らすビートに掻き消され、途中が聞こえなかったが、この三人の仲が良いらしいことはわかった。陽はなんとなく遠慮していたが、そのうちに、三月に腕を引かれて奥へと進んだ。

 地下二階へ下り、クロークカウンターに寄る。クロークの前にも列ができていて、退屈そうに携帯電話をいじる若者の集団も見られた。瑛次と三月は、その列さえ堂々と追い越していくので、陽も同様にした。彼らの中には二人を知っている若者もいるのか、二人の姿を見るとあっと声を上げる者もいた。荷物はほぼなかったので預けず、カウンターは素通りした。

 メインフロアは地下にあるので、それから地下一階のバーカウンターに向かった。それぞれアルコールを注文し、中へ入る。フロアは吹き抜けになっていて、頭上にはビビッドな色のビームライトが絶え間なく飛んでいた。ディスコには、地を轟かせる重低音が跳ねている。

 爆音で音楽が流れているので、会話もままならなかった。すでに相当な人数が楽しんでいた。揺れ踊る人の影にあちこちぶつかりそうになる。

「三月」

 瑛次が背後を顎でしゃくった。

 三月は振り返ると、パッと陽から離れた。

 陽もつられて確認すると、二人の視線の先には、周囲の人混みから頭ひとつ飛び抜けた小さな顔があった。

 この場所に不釣り合いな、上品で落ち着き払った雰囲気だ。蝋のように白い肌に、しっとりした艶のある黒の髪、赤い唇の甘い表情。人間離れした、見とれるほどの美貌だったので、陽はしばらく彼を見つめたまま、ぽかあんと口を開けてしまった。

「相変わらずものすごい美しさで。飢えてはいないんだろうな」

「俺のおかげでな」

 瑛次が返した。

「兄さん!」

 三月が名前を呼んだが、その声は重低音に重なって届かなかった。彼はやがて肩をそびやかして反対方向へ去って行き、姿を消した。

 

 

 

 陽が三月たちとはぐれてしまったことに気付いたのは、それからしばらく経った後だった。電話をかけてみても繋がらず、どうしたものかと迷う。メインフロアは地下一階にあるものの、そこを囲むように一階や地下二階にもサブフロアがあり、ボックス席のあるフロアも連なっていたため、一度見失ってしまうと探すのは至難の業だった。

 せっかく誘われて来たのだから、三月と一緒にいたかった。彼を探してクラブをうろうろしている途中、瑛次の姿は見かけた。しかし、三月の居場所を聞いても知らないようだったので、すぐに別れた。

 暑い。シャツの胸元をはたはた煽ぎながら、陽はもう一度、地下一階に向かった。メインフロアを奥に進む。すると、見上げた先に見たことのある姿があった。

 入口で、瑛次たちにヒスンと呼ばれていた男だった。ステージのDJブースで音楽をかけている。やはりDJだったようで、両手を上げ下げして会場のテンションを上げ、耳をつんざくほどの歓声を得ていた。名を何度も叫ばれている。有名なDJなのかもしれない。

 少々疲れてきたので、陽はいったん外に出ようかと、ステージに背を向けて歩き出した。曲調が盛り上がってきて、ひときわ大きな声援が上がった。隅のほうで壁に寄りかかりながら、陽は正面をふと振り返る。

 すると偶然、探していた姿が目に飛び込んできた。

「三月先輩」

 呟いた声は騒音に掻き消された。

 三月は人混みをかき分けてどこかへ急いでいる様子だった。しかし、途中で、胸元を大きく開けたシャツの腰ほどまであるロングヘアをした女性に声をかけられ、足を止めた。少し身を屈め、女性の口元に耳を近付けて話を聞いている。細い腕が三月の二の腕に触れて、そのまま上へ撫で滑っていって、女性は三月の首に軽く抱きついた。

 若干驚いた表情を見せたものの、三月はすぐに口角を上げて女性の腰に手を回した。音楽に合わせて揺れる体が密接してぶつかる。二人は流れるように唇をこすり合わせる。シャツから覗いていた女性のブラジャーの肩紐を、三月の指が器用に少しずらしたのが見えた。彼はキスの合間に女性の首元に顔をうずめて、そこにも唇を這わせているようだった。

 ふっとライトが少し落ち、暗めの赤い色に変わった。フロア中が深紅に染まる。ヒスンは全身で跳ねてリズムに乗ったまま、DJ機材を操作し、低音中心のダークな音楽に変更した。

 三月のキスが女性の首筋を撫でるにつれて、女性は徐々に後頭部をうしろに倒して口を半開きにした。緩く波打つ髪が踊る。陽は、湿度の高いダークレッドの空間の中心で、女性の肌に悪戯に噛みつく三月の歯を見た気がした。

 歓声が飛ぶ中、陽だけが無表情だった。

 そして陽の目だけに光が当たらなかった。

 確かに、三月は謎の多い男だ。出会ってからもそう経っていない。いくら体の関係があろうと、好きだよと告白し合って恋人同士に成就したわけでもない。しかし、今となってはもう、あの人を他の何かにやすやすとくれてやる気はさらさらなかった。

 奥歯を噛みしめる。耳のすぐ下でギリリと音がして、歯の表面が少し削れたのがわかった。

 陽はいつまでも三月を見つめていた。

 

 

 

 数十分後、三月は、冷めた表情で人の間を縫って歩いていた。

 靴の踵を鳴らしながら階段を下りる。地下二階のクロークの目の前を通り過ぎ、スタッフオンリーと書かれた扉を遠慮なく開ける。

 そして、サングラスを外した。燃えるルビーのように真っ赤に変色した虹彩に、瞳孔は開いていて、奥に進んだVIPルームに着いたときには、腹の奥が空腹を訴えていた。

 上のフロアで中途半端に血液を口にしたせいで、そして、それを提供してくれた人間の女性をトイレの個室で雑に抱いたせいで、余計に腹が減っていた。あまり美味しい血ではなかったが、せっかくならもっと飲んでおけばよかった。

 暗く、赤い照明が落ち着く。そう広くないVIPルームの中には、瑛次と仲間の数人、あと意識のない人間が数人いた。

 瑛次は、革製のソファーに伸びた女性の体に覆い被さっていて、三月が来たことに気付いて彼女の首から顔を上げたときには、瞳はギラリと銀に瞬き、顎から喉へ血液を一本細く伝らせていた。

「おっと、失礼。食事中だったか」

 しっかり扉を閉める。

 瑛次は雑に口元を拭うと、血がどくどく流れ出る女性の首元に唾液を垂らし、その上から手でぐっと押さえつけ、止血した。

「陽がお前を探してたよ」

 と、瑛次。

 三月は彼の隣に座り、血の気が戻っていく女性の顔を覗き込んだ。

「探してた? なんで。遊びなよって言ったのに」

「お前と、遊びたいんだろ。陽はお前に本気だよ」

 三月は首裏を掻いた。

「うーん、なんか食べるタイミング逃したっぽいな。陽って絶対美味しいと思うんだけどさ、なんかちょっとやりづらいんだよな。セックスもいいし」

「人間に情が移った?」

「情? まさか」

 三月は、あははと笑った。

 が、すぐに声を落とす。

「壱依兄さんには言うなよ」

「俺は言わないけど、兄さんの勘をやり過ごせるとは思うなよ」

「あー……」

 三月はソファーにだらりと身を沈め、天井を仰いだ。

 瑛次は女性の体をそろりとソファーに寝かせると、もう一人、床にだらりと伸びていた男性の上半身を持ち上げて起こした。そして、「この彼は血が多そうだな」などと呟きながら、首の動脈に歯を立てた。

 ここは、ヒスンが自分を含めた吸血鬼たちのために、人目を忍んで用意した場所だった。

 彼は、アーティストに曲を提供したりプロデュースしたりする著名な音楽家で、かつ、世界中を飛び回っては数々のクラブを湧かせるDJでもあるが、日本にいる期間に最もよく利用するこのクラブは、彼のホームと言っても相違ない。彼は、人間と吸血鬼の人脈を利用して、吸血鬼に血を提供したいと本気で思っている人間を密かに探り、こういった場所を提供する仕事もしていた。ヒスン自身も同様に血が欲しいということもあって始まった生業だったが、親交の深い瑛次と三月には、毎回、それを共有してくれているのだ。

 表立って人間を殺すことはできない。生き延びる術として、こうして数人から少しずつ提供してもらい、その場で飲んだり、瓶に詰めて丁重に今後の糧にすることは多かった。瑛次たちは普段は、医療関係者から不要になった死人の血液を恵んでもらったり、こういった人脈を利用して誰かが採取したものを買ったりしている。

 だが、実際、新鮮な生き血ほど求めてやまないものもなかった。ヒスンはその点、商売上手だ。同様の事業を展開している吸血鬼や人間は他にもいるが、結局ヒスンのところが最も信頼できた。味も、セキュリティ面でも。

 意識が浮上し始めた女性の下で、瑛次に噛まれた男性が艶めかしい声を上げた。痛みを感じないように睡眠薬を飲んでもらっているため、無意識に上がった声だろう。

 瑛次は一度中断し、肌が柔らかくなるよう、噛んだ場所を何度か舐めた。

「気持ち良くなるに決まってるだろ。俺たちは蚊じゃないんだから」

 昏睡状態の人間に向かってぶつぶつ話す瑛次をよそに、三月はソファーの背に頭を預けて脱力したままぼんやりした。天井でゆっくり回るファンが脳を酔わせるようだ。眠気はなかったが、なんとなく夢心地になり瞼を下ろした。

 三月先輩、と呟く声が蘇る。

 目を閉じたまま咄嗟に眉を寄せた。

 陽の目を見つめるとき、その瞳に宿る素直でいっそ愚直な光にいつも不意を突かれて、妙に落ち着かない心地になることがよくあった。人間や同族から向けられる恋慕や崇拝のまなざしにはすっかり慣れていたが、陽の虹彩には、血の通った人間らしいあたたかさと誠実さだけではなく、深い孤独のようなものと、時に残酷に感じるひたりとしたものが混じっていた。あれは光度が溢れる影に隠れるようにして確かに存在する、野性だ。

 三月は、腹の中に広がる海の奥深いところで一匹のクジラが鳴き、その侘しさに共鳴するように、陽を呼び寄せてしまったのではないかと危惧している。陽の心臓の熱い鼓動を感じるたび、新緑のような息づかいを浴びるたび、まるで自分が再び人間に還って、重ねてきた罪を全て赦されて抱擁されているような気持ちを強めた。

 本当は、名前を呼ばれるとたまらないものがあった。

 正直なところ、陽の良いも悪いも全てを暴いてやって、あの人間の人間らしいところと人間らしくないところ全てを暴いてやって、その全部を俺が赦してやりたいと思っていることに気が付いていた。

 ……バカバカしい。

 飽きた人生だ。

 今さら生命の息づかいなんてない。

 瑛次が噛みついている人間がひときわ通る嬌声を上げた。三月は唐突に目を開いた。

 そして立ち上がり、先ほど瑛次が歯を立てていた女性が横になっている傍へしゃがんだ。それから、首筋に鼻を近付けてすんすんとにおいを確かめ、首を傾げて「まあまあかな」のような顔をすると、彼女の細い手首を掴んで引き寄せた。

 大きく口を開け、骨のある場所を避けて歯を突き刺し、肌を破る。血管を狙うのには慣れている。唇をじんわり、そしてぐわっと濡らしたあたたかい液体を口内にふくみ、胃に通した。

 しかし、喉を何度か鳴らしはしたが、三月はすぐに彼女から離れ、傷口を塞いでしまった。

 瑛次が薄い横目で三月を見た。

「不味そうな顔」

「おえ。苦い」

 三月は、口をへの字に思い切り曲げた。唇を真っ赤に染める血が喉仏へ伝う。テーブルにあったティッシュペーパーを数枚引き抜き、吐き出した。

 そして、三月は立ち上がって部屋を後にした。

 不味い血を飲んで気分が悪い。瑛次はよくあんなの飲めたな。と思いながら廊下を進み、携帯電話を見ると、何度か陽からの着信履歴があった。

 そういえば、まだラインは教えていなかった。瑛次いわくこちらを探していたようだし、見つけるかと思い、そのまま地下一階へ上がった。もしかしたらこの気分の悪さを、あの子の血で上書きできるかもしれない。

 舌先で歯の輪郭を撫でつつ、フロアを突っ切る。

 DJブースには、もうヒスンはいなかった。別のDJがフロアを沸かせている。バーテンダーにでも陽を見かけなかったか聞こうかと、バーカウンターに向かうと、そこにヒスンの姿があった。

 彼は三月を見つけると、手招きして傍へ呼んだ。

「ちょっと付き合えよ」

 と、笑う。

 少し雑談し、三月は今夜の血のおすそ分けの礼を渡した。今日はどうやら三月の奢りの番らしかったので、二人分だ。

 ヒスンはそれをざっくり確認したあと、ぐしゃりとポケットにしまい込むと、入れ替わりにシルバーのシガレットケースを取り出した。

 煙草を一本取り出しては口の端に咥え、三月にも同様にするよう促す。三月は首を振った。

「もう吸ってないから」

「やめたのか?」

「お前が吸ってたから真似してただけだよ。あの頃は」

 聞くと、ヒスンは薄く笑った。

「煙草とコーヒーは血のにおいが隠せる。やってたほうが役に立つじゃん」

「コーヒーなら毎日、血より飲んでるけど」

 三月の冗談を聞いて、ヒスンはトントンとカウンターを爪の先で叩き、バーテンダーに合図した。すぐにグラスが二つ用意された。中で揺れる液体は重そうに赤く、怪しく鈍く光っていた。

「俺がさっき採った」

 差し出された一つのグラスを、三月は受け取った。ヒスンが自分の分をくっと勢い良く喉に通すのを見てから、同じように口をつけた。

 が、三月はそれをすぐに吐き出してしまった。ブッ、と慌てて紙ナプキンに吹き出して、涙目で顔をしかめる。

「なんだよ」

 ヒスンが笑った。

「そんなに不味かったか? 健康な若い人間の血だぞ?」

「いや、ごめん、なんか最近どうも調子悪くてさ」

「調子? 喉の?」

「なにもかも」

 真面目に答える気がないのを隠さずそう言う三月をじっと見つめ、ヒスンは表情を一段ふっと落ち着けた。

 片方の肘をバーカウンターにかけたまま、距離をつめて三月にライターを渡す。三月はヒスンの目を見たままそれを受け取り、片手で風避けをしながら、ヒスンの咥える煙草に火を点した。煙が一本上がり始めた。

 三月がライターを返そうと差し出すと、ヒスンがその手首を掴んだ。そして自分のほうへ引き寄せる。

「しばらく東京にいるんだ」

 喋ると、咥えた煙草が上下した。

 三月は片口を上げて微笑んだ。

「そういえば、ソウルに一戸建て買ったってニュースになってたな。どこらへん?」

「教えたら来てくれんの?」

「え?」

 聞こえなかったふりをした三月に、ヒスンは口に含んだ灰色の煙をほうと吹きかけ、じっと瞳を見つめた。煙に目をしぱしぱさせる姿を眺め、くっくっと笑う。

「三月、お前、ほんと綺麗になったよ。昔よりずっと」

「……口説こうとしてるなら、その気はもうあんまりないけど?」

 ふらりと距離を取ろうとした三月の腰を、ヒスンが目敏く引き寄せた。

「背中の傷はどう? まだ痛むのか」

「たまにね」

「見てあげようか。後ろからされながら傷舐められるの、好きだっただろ」

 腰を抱いていたヒスンの手がするりと移動して、三月の臀部をやわく掴んだ。

 すると、そこに新しい声が割り込んできた。

「三月さん? やっと見つけた」

 陽だった。

 彼は一目散に三月に近付くと、ヒスンとの間に割って入り、両手で三月の片腕に掴まった。ヒスンがその背後で目を剥き、三月に向かって「み、つ、き、さ、ん?」と声を出さずに口の動きで詰める。

 三月は、影になっていて二人に見えていないほうの口角だけをくっと持ち上げた。

「今までどこにいたんですか? そこらじゅう探したんですよ。電話もしたし。初めて来るところだから、何がどこにあるか全然わからなくて」

 唇をとがらせ、捨てられた子猫のような目をして三月の腕を離さない陽だ。

「あー……」

 そんな彼を後ろからとんでもない表情で凝視しているヒスンを見たまま、三月は笑いを堪えた。

「だめだろ、人前でそんなかわいい顔見せちゃ」

 と、陽のえりあしを撫でる。

「このヒスンって奴、ヤンキーなんだ。お前なんてあっという間に食われちゃうよ。逃げよう」

 と、冗談にしてふざけて笑う。

 三月は陽の背中に手を回して軽く押し、ヒスンに

「じゃ、また」

 と挨拶すると、背を向けて歩き出した。

 去って行く途中、陽が顔だけでヒスンを振り向いた。そして、ついさっきまで見せていた可愛らしい表情とは裏腹に、きつい睨みを効かせた。

 ヒスンは「おぉ」と苦笑した。ちょうど横にやって来た瑛次に、「あいつ、誰?」と聞く。

「三月、恋人でも作ったのか? あれ、人間だよな」

 瑛次はあけすけに言った。

「恋人っていうか……よくわからない。セックスはしてる」

「『三月さん、やっと見つけた!』だって。肝が据わった人間だな。すげえ睨まれた」

「陽は俺たちのこと知らないから」

「は?」

 ヒスンが目を剥く。

「知らないでここに連れて来てんのかよ」

「バレてもいいと思ってるんだろ、三月は。俺としてはバレないほうが都合良いんだけどな。あの子、いま通ってる大学の後輩だからさ、バレたら通いづらくなる」

「お前、また大学通ってんだ。いくつめ?」

「七」

 瑛次はヒスンが持っていた血を飲み、美味しそうに顔をしかめた。ヒスンが笑う。

 最後、メロウな曲調の音楽が流れる中、ヒスンは、去って行く瑛次の背中に大きく言った。

「壱依兄さんによろしくな!」

 人混みの中、瑛次の腕が上がって、親指をぐっと立てた後にひらひらと手を振るのが見えた。ヒスンはため息をつきながら、微笑む。

 

 

 

「ん、あ、あ……っ」

「っ陽、ちょっと待って、出そう」

 二人は三月の車の中にいた。

 三月が、食いしばった歯の間から息を漏らす。足元の出っ張りの部分に踵をかけ、体勢を少し直した。股上に向き合う形で乗った陽は、奥深くまで三月の性器を飲み込むために大きく開脚して体を反らしているので、官能的過ぎて困った。

 愛車のフロントガラスは曇り、陽の動きに合わせて車体が揺れている。リクライニングを倒して後ろに下げた座席は、それでもこの行為をするには狭いことに変わりなかった。

「陽……場所変えない?」

「やです、だめ」

「あー、待って待って、マジで出る」

「まだだめです」

「よーお、なあ、無理、出しちゃうもう」

「だめですってば」

 陽は仕方ないように動きを止め、湿った唇を街灯にてらてらさせて、三月の首に腕を回した。唇を奪われ、濃厚なキスをされる。三月は陽の背中に手を添えた。

 密室は血のにおいが逃げない。だからやばい。とは思うものの、荷物を取ろうとして車に乗り込んだ途端に陽に跨がれたものだから、どうにも制御がきかなかった。

 陽は案外、独占欲の強いたちなのかもしれない。踊りながら女性とくっついたり、ヒスンと親密な雰囲気だったりしたのが、そんなに嫉妬を呼び起こしたのか。

 吸血鬼は耳も目も、人間よりずっと良い。陽が三月の名を呟いたことも、あれを見ていたことも知っていた。本当は、トイレで女性を抱いているときにもうっかり現れてほしかった。

 この子に慕われるというのは存外、良い気分だ。帰り際、ヒスンの前で「三月さん」なんて言って駆け寄ってきたのも、良かった。かわいかった。

 三月は陽の背中を撫で、目を見上げた。

「陽んち行く? それかホテル」

 それを聞くと、陽は息を荒げたまま少し寂しそうな表情をした。

「先輩の家には連れて行ってくれないんですか」

「んー、だめ」

「どうして?」

「同居人がいるから」

「……え?」

 一瞬にして、陽の顔が曇った。ああかわいい。

 三月はたまらず、肉厚な頬にむにむに触れた。

「なんもないよ、マジで。ただの親友」

 餅のように横に伸ばされた頬のまま、ずうんと目元を暗くする。

 陽は小さく続けた。

「先輩にとって、僕って何なんですか? 僕たちって付き合ってるの?」

 するとそのとき、車の窓をドンドンと叩く音がした。

 陽は慌てて脚を閉じようとする。

「大丈夫。スモークかかってるから外からは見えない」

 おそらく深夜のパトロールをしている巡回の警官だろう。じっと静かにしていると去って行き、見えなくなった。

 不意に携帯電話が震えた。

 見ると、瑛次からのメッセージだった。

「ヒスンと飲んでそのまま泊まるけど、お前も来る?」

 ちょうどいいこともあるものだ。

 三月はすぐに「俺はいいや」と送り返し、顔を上げてにっと笑った。

「やっぱり俺んち行こうか」

「え、いいんですか?」

「うん。同居人、今日は帰らないってさ」

 そう言うと、陽は心底嬉しそうに目を細めた。奥歯がかゆくなるような思いで可愛いと感じたので、彼を膝の上に乗せたまま口付けた。何度か唇を重ね合わせて、息をつく。

 二人ともパーティで飲酒していたので、三月の車は置いたままにしてタクシーで移動した。

 タクシーの中にいる間も陽はずっと熱が収まらないようで、三月の顔を覗き込んだり指を絡めたりしてきたので、肩に腕をまわして口付けた。合間に、はあ、と息をついて、とろんとした表情を隠さず見つめてくる。

 なるほど、かわいすぎて食べちゃいたいとはまさにこのことか。と納得しつつ、三月は運転手に聞こえないように耳元で「あんまりかわいい顔するなよ。勃ちそう」などと囁いた。陽が視線を落とそうとしたので、すぐにまたキスをした。

 タクシーにはマンションの地下の駐車場まで入ってもらって、エレベーターホールの出入口の手前で降車した。三月は、陽が感心したようにホールの中を覗いている間に、暗証番号を入力して指紋を押し付け、セキュリティを突破した。

 音もなく左右に開いた自動ドアを抜けて、二人は地下のエレベーターホールへ入った。深夜ということもあり、しんと静まり返っていた。上の階へと向かうボタンを押下する。

 陽は居心地悪そうに、三月のすぐ隣へ寄ってきて、ぴったり腕にくっついた。

「前から思ってたんですけど」

「ん?」

「先輩って、お金持ちの人ですか?」

「なにそれ」

「だってこんなマンション……」

 すーっと、下りてきたエレベーターの扉が開いた。三月はさっさと中へ入って最上階を示すボタンを押すと、後から乗り込んできた陽を壁の隅に寄せてキスをした。

「ん……っ」

 ついさっきまでは第三者がいたから堪えていた声が、陽の鼻から漏れ出した。ティーシャツの中に手を滑り込ませて、肋骨を覆う肌を上へと撫でる。三月の首に抱きついた陽の体が少しもぞりとした。

 唇を離して、鎖骨の窪みの上に顔をうずめる。鼻で大きく息を吸い込むと、やっぱり彼の血液のにおいにはどうしようもなく興奮した。これは、これなら、絶対に美味しそうだった。

 ああ。ここを噛みたい。歯を突き立てて、肌にぶっつり穴を開けて、中にある魅力的なその赤い液体で腹を満たしたい。

 エレベーターが止まり、扉がまた開くと、陽は三月の背中を軽く叩いた。

「先輩、つきました」

 陽の血の香りにぼうっとしていたので、気付くのが遅れた。三月は目眩がするこめかみを押さえつつ、陽の手を引いて外へ出た。

 廊下はなく、エレベーターから出てすぐがもう部屋だった。陽はびっくりして目を見開いた。このフロア全てが家ということか。

 出た場所は建物の二階分の高さがある吹き抜けになっていて、大きな観葉植物が置いてある、開放的なロビーだった。上品に照明がしぼられている。まさにホテルのロビーのように、待ち合わせだとかアフタヌーンティーだとかをするかのような椅子やソファーもあった。

 夜景を見渡せる窓のないほうには、何かしらの透明な素材でできた半螺旋階段があり、そこを上がった先には、二階部分にも部屋があるのが見えた。

「そこらへんのお酒、好きに飲んでいいよ」

 口をあんぐり開けたまま、三月が指した方向を見てみると、小振りなバーカウンターがあった。ワインやらウイスキーやら、アルコールの他にもレモンの浮かんだ水や果物などがあり、キラキラ輝いている。奥の冷蔵室のガラスの向こうには、赤黒い飲み物が詰まったワインボトルがラックに何本も保存してあった。

 あれはどんな種類の赤ワインだろう? と思っていると、いつの間にか背後に立っていた三月が、陽のうなじに鼻を寄せて、すうと息を吸い込んだ。

「陽」

 シャツの襟を引っ張られて、何度も何度も、背中の上部まで唇を押し付けられる。

 陽はつい、バーカウンターに両手をついた。

「お前の体はドラッグみたいだ。唇も、肌も、……血も」

「っ先輩、」

「これを前にしたら、正気じゃいられなくなる」

 背後から三月の手が滑ってきて、スキニーの上から股間をしっかり撫でられた。

「シャワー浴びよっか」

 また気持ちが高揚してきた陽はくらくらしてきて、耳たぶを強めに噛まれながらそう囁かれるのがたまらなくて、こくこくと頷いた。おまけに脚の間を何度もいやらしく撫で回されるので、じわじわ勃起してしまって、貧血気味のときのように目眩がした。

 

 

   四  ダンピール

 

 

 目が覚めたとき、寝室には静寂をつんざく電話の音が響いていた。

 陽は朝が苦手だ。しかし今日は、三月の自宅に初めて泊まった翌朝だったので、普段どんなに爆音の目覚まし時計でも起床できないほど目覚めが悪くても、今日だけはハッと目を開けられた。

 深い黒一色のベッドの中で肘をついて少し体を起こすと、隣で、三月がこちらに背を向けてまだ寝ているのが見えた。背中の傷が痛々しい。しかも今朝は、腰周りや肩のあたりに引っ掻いたような痕もあり、陽は少し恥ずかしくなった。昨夜、あれからシャワールームや寝室で散々乱れた形跡だった。

 電話はずっと鳴り続けていた。シーツに放り出されていた三月の電話から鳴るものだったが、彼が起きないのでどうしようかと思う。

 迷った末、陽はそろりと画面に指を滑らせた。端末を耳に当てる。

「……はい」

「あっ、三月先輩! 何してるんですか、あなたが遅刻なんてあり得ませんよ」

 聞こえてきたその声には、聞き覚えがあった。陽の脳の上のほうに、ポンと、三月が働くカフェの店員のうちの一人が浮かぶ。きっとあの、テキパキした爽やかな青年だ。

 青年は、電話を取ったのが三月ではない人物だとは気付かないまま、喋り続けた。

「今日のシフトはランチから僕と先輩の二人なんですから、それまでには絶対に来てくださいね。また朝帰りなのか知らないですけど……」

「朝帰り?」

「えっ?」

 そこで、彼はやっと電話口が三月ではないと気が付いた。

「だ、誰ですか?」

 動揺を隠せない声色が言う。

 誰なのかと聞かれると、返答に困った。三月先輩の知り合いです? それとも、三月先輩の恋人です?

 どう答えるべきか迷っていると、携帯端末が手からふわりと奪われて顔を上げた。目を覚ました三月が、寝転んだまま電話を耳に持っていった。

「あー、理人、ごめんね? すぐ行くよ、ごめんって。はいはい」

 すぐに話を済ませて、三月は腕を電話ごとパタンと落とした。

「悪い子だな、陽。勝手に俺の電話取ったの?」

「ごめんなさい。ずっと止まらなかったから、つい」

「うん」

 三月は、寝惚け顔のままふにゃふにゃ笑った。そして起き上がってベッドから下り、軽く伸びをした。

 陽がベッドの中からぼんやり見ているうちに、三月はその細い脚に下着を通してスラックスを履き、ベルトを締めながら全身鏡の前で体を反回転させて、自分の体をチェックした。そして、もがれた翼の痕を隠すようにシャツを羽織る。

 ボタンをとめている三月と鏡越しに目が合って、陽は、顔を半分シーツに埋めながら「今日もかっこいいですね」と呟いた。

「でも先輩、朝帰りってなんのこと?」

 もしかして僕には聞く権利がないかもしれない。と思いながら聞いてみると、三月はボタンをとめる手を止めずにニヤリとした。

「なんのことだと思う?」

「もし僕以外にも関係を持ってる相手がいるなら……」

「お前んちで寝た日のことだよ」

「……本当に?」

「んー?」

 着替えを終えた三月はまたベッドのほうへ戻ってきて、陽に顔を近付けた。

 が、キスしようとして首を伸ばした陽を、ふっと避ける。陽はむっとした。

「意地悪しないでください」

「意地悪じゃない。もう行かなきゃならないから」

 陽をからかった三月は愉快そうだった。

「お前も大学あるだろ」

 手探り、陽は携帯電話を明るくして画面を見た。

「ほんとだ、もう行かないと。なんで月曜日に一限入れたんだろ」

 やっと布団を剥いでシーツから抜け出て、陽も立ち上がった。

 三月は服を着始めた陽を置いて寝室を後にして、洗面所へ向かった。通常であればシャワーを浴びたいタイミングだったが、理人にああも怒られてしまっては敵わないので、それは諦めて洗顔だけして髪をセットした。

 それから下の階へ向かい、ロビーを突っ切ってダイニングルームの冷蔵庫を開ける。陽がトイレを流す音が聞こえたのを確認してから、扉側に整列している小瓶のうち一つを手に取った。しかしそれには「瑛次用」とご丁寧にも記名があったので、隣の物を選び直した。

 二十六歳、女性、手首。

 記載の採取日から数日経っているとはいえ、比較的上等なものだった。ヒスンから買ったものだろうか。とにかく、陽に変に迫ったりしないようにするためにも、血を腹に入れておきたかった。三月は開封するなりそれをくっと喉に通し、胃に流し込んだ。

 その途端、液体が苦い塊になって食道をのぼってきた。三月は慌てて口を押さえてシンクへ駆け寄り、鮮やかに赤い液体を胃液と共に吐き出した。

 明確な拒絶だった。体が喜ぶはずのものが、気持ちの悪さと一緒になって嘔吐になる。

「先輩?」

 吐いている様子を聞いて心配して、陽が早足でやって来るのが聞こえた。

 三月は急いで水道水を勢いよく出し、シンクと口元を汚す赤色を流し落とした。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫」

 ひらひら手を振ってみせる。

 大丈夫ではないのは自分が最もよくわかっていた。これを飲まないとみるみるうちに体力が落ちて、やがて歩くことすら困難になることを、吸血鬼ならみな知っている。

 三月は一度陽に、

「心配ないから準備してな」

 と言ったものの、気にかけた表情のまま去ろうとした彼の手首を、ぐっと掴んで引き止めた。

 腕の中に収めて、きつく抱きしめる。

「陽、お前だけは俺を裏切っちゃだめだよ」

「え……?」

「わかった?」

 促されて、陽は「はあ」とぼんやり返事をした。背中に手が触れて、気遣わしげに優しくさすられる。少し気持ちが落ち着いた。

 大学へ向かった陽と別れたあと、三月は車を取りに行った足で昨晩のクラブへ顔を出したが、そこにヒスンの姿はなかった。愛車に戻ってカフェへと移動しながら、瑛次に電話をかけてみたが、彼も応答はなかった。まだ寝ているか、彼も陽と同じように講義中か。

 信号待ちの時間で連絡先を見ていく途中、一瞬、「壱依兄さん」の名前で目が止まったが、まだ彼に縋るのはやめておいた。

 ハンドルを指先で神経質に叩きながら、脳内で日付を遡る。

 いつからきちんと飲めていないっけ。

 

 

 

「朝電話出た人、もしかしてここにたまに来る大学生ですか?」

 カフェに到着した三月の姿を見るなりそう聞いた理人に、三月は何の気なしに「うん」と答えた。

 彼の様子はなんだかおかしいように見えて、理人はなんとなく心配した。顔が白いようにも思えるし、心なしか、頬がほっそりし過ぎている。

「付き合ってるんですか?」

 名前も知らない一人の客を思い浮かべながら、理人は聞く。

 三月は上の空で、肯定とも否定とも取れない曖昧な返事をした。彼の名前は楠木陽というらしかった。そこまで聞いてふと見ると、三月がかき混ぜているカフェミストは泡が潰れ、無残な姿になっていた。

 理人は、素早くそれを奪い取った。

「大丈夫ですか? 先輩」

「うん」

「体調が悪いなら休んだほうが……」

「平気だって」

 ランチの時間になると、アルバイトの学生のシフトが終わって帰っていったので、理人と三月の二人で店を回す流れになった。平日の昼間から夕方にかけては、日頃からそこまで混雑しない。だから、このように少人数で対応することは、よくあった。

 日が落ちてきた頃、店内には、ノートパソコンを広げたサラリーマン風の男性と、上品な雰囲気の高齢女性三人組しかいなかった。夜になればその二組も帰っていき、誰もいなくなった。

 すると、三月の携帯電話が鳴ったので、彼は電話を耳に当てながら理人に一言告げ、スタッフルームへと下がった。

 ちょうどそのタイミングで、店の扉が開いた。

 いらっしゃいませと声を上げながら顔を向けると、数時間前にここで噂話に挙がった男性、陽が、ひとりで入って来たところだった――そういえば彼はいつもひとりだ。単独行動が好きなのだろうか? 理人は思った――陽は、毎回座る窓際の席に落ち着いた。

 彼は三月を探しているのか、しばらく店内をきょろきょろしていたが、今は店員が理人しかいないようだとわかると、ゆったり座り直した。

 来たことを三月に教えたほうがいいのだろうか、と裏で電話をしている彼のことを思いながら、水とふきんを配膳に向かう。

「ご注文が決まったらお声かけください」

 理人がそう言って下がろうとすると、陽が前髪の間からこちらを見上げて何かを聞きたそうにしているのがわかったので、理人は少し話しておくことにした。

「あの、三月先輩のことなんですけど」

 陽が目を丸くする。

「今ちょっと、裏で他の仕事してます。すぐ出てくると思います」

「あ、それは……ありがとうございます」

 と、陽はにっこり笑った。

「今日、少し体調が悪そうです。早めに上がってもらうようにしますね」

 そう付け加えると、陽は笑顔を一段階暗くしてもう一度礼を告げた。

「今朝からそうだったけど、どうしたんだろう」

 他の客がちょうどいないのをいいことに、理人は陽のいる隣のテーブルに軽く腰を寄りかけて、言った。

「あの……陽さん。三月先輩と付き合ってるって聞いたんですけど」

「えっ?」

 陽は話題に驚いた様子だった。

「付き合っては……うーん、わかんないけど」

 と、もごもごする。

「それがなにか?」

「いえ、大丈夫なのかなと思って」

 陽はきょとんと理人を見た。

「三月先輩に血をあげてるんですか?」

 しん、と、沈黙が流れた。

 陽は聞かれている内容がわからず、「はっ?」と呟いて首を傾げた。

 理人は、何かまずいことを言ったかなと焦った。

「え? いや、だって陽さんは人間ですよね?」

「そりゃそうだけど、何のことですか?」

「あの人たちと親しい人間なんて今までそういなかったから、聞いてみたくて」

「はあ……? 君はさっきから何の話をしてるの?」

「三月先輩の話ですよ。さっきからずっと、三月先輩の話をしてます。あの人に血液を飲ませてるんですかって聞いたんです。もしそうだったら危険な場合もあるから、僕が貧血に効く飲み物とかを教えたいなと思って――」

「理人」

 低めに呼ばれた声に振り向くと、三月と、もう一人の姿がいつの間にか店内にあった。

 スタッフルームの扉に寄りかかって携帯電話をスラックスのポケットにしまい、三月は後頭部を扉につけて下目に理人たちを見ていた。長いため息が伸びる。

 カウンターを乗り越えてテーブルの並ぶほうへ出てきたのは瑛次で、彼は大股で歩きながら店のブラインドを全て下ろした。店内が薄暗くなる。彼は扉も施錠した。

「三月先輩。瑛次さん」

 理人は腰を浮かせた。

「かわいいかわいい理人ちゃん。お口が滑っちゃった?」

 三月はそう言い、カフェエプロンを引きちぎるように脱いで床に放り出した。

 瑛次は理人達のほうへ歩み寄り、近くに置いてあった椅子の背もたれに尻をかけて軽く腰掛けた。

 理人は息を飲んだ。

「え……? え、まさか、知らなかったんですか?」

 と、陽をバッと振り向く。

「知らないで付き合ってたの?!」

「待って。何の話ですか?」

 ただ事ではない雰囲気に動揺して、陽も立ち上がった。

 理人は話し続けた。

「じゃあなんで陽さんを生かして……? まさか、先輩たちは陽さんを吸血鬼にするんですか? じゃあ僕は? 僕のほうが先に先輩たちのことを見つけて、ずーっと約束守って言うこと聞いてきたじゃないですか! 秘密だって漏らさなかった。なのに」

 理人は瑛次に詰め寄った。

「早く僕を仲間にしてください!」

「人間は吸血鬼になれるけど、吸血鬼は人間になれない。一度俺たちのようになったら、二度と戻れない。そう急いでなるものではないよ」

 瑛次が言った。

 理人はすぐに反論する。

「わかってます。でも僕は普通の人間じゃない」

「うん。瑛次、俺も理人のことは早く完全な吸血鬼にしたほうがいいと思う」

 と、三月。

「この子はダンピールだ。ヴァンパイアハンターなんかになられる前に仲間にしたほうがいい」

「とにかく成人はさせないと。壱依兄さんもそう言ってるだろ」

「僕、来月ではたちです!」

 言い張る理人の横を通り越し、三月が陽の傍へ寄ってきた。彼は口元を緩めると、わけがわからないといった顔をした陽の隣に来て、肩に手を置いた。

「理人。俺たちは陽のことは仲間にはしないよ。人間としてうまくやれる。食事のときに隣でちょっと赤っぽい液体を飲むかもしれないけど」

 そう言い、三月は陽に向かってにっこりした。

「な、陽。俺、ちゃーんと人間のふりできてたよな?」

 混乱。

 陽は取り乱し、首を振った。

「は……? 僕、あなたたちが何の話をしてるのか全然わかんないんですけど」

「陽」

 瑛次が努めて落ち着いて声をかけた。

「騙してて悪かった。信じてもらいたいんだけど、俺たちはいわゆる……ヴァンパイアなんだ」

「はぁ?」

「人間の血を飲んで生きてる」

 大の大人が揃いも揃って何を喋っているんだ。突拍子もない展開に言葉を失っていると、瑛次が観念したようにため息し、羽織っていたジャケットの胸ポケットから小瓶を取り出して中身を呷りながら、陽の目の前に移動してきた。

 そして、自分の上唇を持ち上げ、陽の目をじっと直視した。

 今や瑛次の虹彩は、水銀を濁りのない湧き水に限りなく薄く溶かしたような冷たい色をしていて、そこに縦長の瞳孔が埋まっていた。上の歯茎から生える犬歯はよく見る人間のものより長く、先が鋭く尖っている。

 陽は一瞬、後ろによろけた。

 三月がそれを支える。

「言わなきゃとは思ってたんだ。お前を怖がらせたくなかったけど」

 そう言った三月を、陽は穴が開くほど強く見つめた。

「冗談ですよね?」

「瑛次は冗談で人間に牙を見せるようなことはしないよ」

「本気で言ってるんですか? まさか」

 錯乱して半分笑い出している陽を、理人は気遣わしげに見ていた。

 するとその時、スタッフルームの扉がガチャリと開いた。全員がその方向を見た。

 新しい顔が登場した。

 スラリとした長身、そこに小さな頭が乗っていて、上品で落ち着き払った雰囲気の男性だった。艶のあるしっとりとした黒髪に、涼しげな切れ長の目、充血したように滲む赤色の唇、見とれるほどの美貌。陽は、一度だけこの人を遠目に見かけたことがあった。三月たちとクラブへ遊びに行った夜のことだ。

「壱依兄さん」

 陽の隣で三月が呟く。肩を抱いていた腕がさっと退けられたのがわかった。

 壱依がゆっくり歩いてくると、彼は値の張りそうな素材の黒いジャケットの中に深紅のシャツを着て、そのシャツと同じような色合いに、目尻が染まっているのが見えた。蝋でできたような肌だ。ほんの少し開いた唇からは、白い牙の先端が覗いていて、夜のカフェのぼんやりとしたライトに照らされて鈍く輝いていた。

 彼は瑛次を素通りし、一直線に陽と理人の元へ向かって来ていた。

 近付くにつれ、陽は、壱依が想像上の「ヴァンパイア」の姿とあまりにも合致することに気付かずにはいられなかった。

 生唾を飲み込んだ。

 この人は確かに吸血鬼だと思った。

 人間らしい空気感が全くない。まとうオーラに温度がない。瑛次や三月にはまだ感じる新緑の息吹のような生臭さ、が、壱依には一切なかった。身震いが走る。

「三月、あとでゆっくり話そうね。二人きりで」

 壱依は穏やかにそう言い、三月の肩を二度叩いた。まるでその反動でそうさせられたかのように、三月はどさっと椅子に腰を落とした。さあっと、顔が青くなる。

「情報は命より重い。って言葉、知ってる?」

 壱依は吸血鬼の仲間たちに向かって話しかけた。

「お前たちは自分の都合だけで人間とお喋りしたり、遊んだり、性的なことをしたりしてるんだろうけど、」

 三月が目を逸らす。

 壱依は構わず続けた。

「ちょっとの情報漏洩が一族の破滅に繋がること、忘れたわけじゃないでしょ? 知られたからには野放しにしておけないよね。理人はともかく、そっちの人はどうするつもりなの? 殺すわけにはいかないでしょ」

「兄さん」

 ビッ、と、壱依が人差し指を突き立て、弁解しようと口を開いた瑛次を一瞬にして黙らせた。

「彼、動転してるようだから、落ち着けてからしっかり家に帰してあげて」

 壱依が陽を見た。目が合う。

 静かに落ち着いた壱依の切れ長の目は、鷹を思わせる黄金の瞳をしていた。途方もなく膨大な惨劇と、莫大な情報量をそこに湛えているかのように深く、哀しく、優しい目だった。

 現実離れした美しさを纏う彼の存在そのものが、この世の理を揺るがすようだった。全身が震え、冷や汗が滲むほどの緊張感が走るのに、不思議と目を逸らすことができない。

「わかったね。三月。瑛次」

 呼びかけられ、三月は項垂れたまま頷いた。

 瑛次はまだ何かを言いたそうにしていたが、結局口は挟まずにいた。

 雰囲気がすっかり変わったカフェの店内を、壱依は何の未練もなく滑るように歩き、そのまま静かに出て行ってしまった。

 扉が閉まると、部屋の温度が数度上がったように思えた。

 三月が、はあと大きく息をつき、だらりと上半身を伸ばした。

「さいっ……あくだ」

「兄さんを出し抜けると思うなって言っただろ」

「やばいな。謹慎じゃ済まないかも」

 三月はもう一度重いため息をついた。

「僕のせいですよね。ごめんなさい」

 理人がしゅんと小動物の耳を垂らした。

「てっきり陽さんは知ってるのかと思って……」

「いや、お前のせいじゃないよ」

 と、三月。

 瑛次も「そうだよ、理人のせいじゃない」と続けた。

 それから瑛次は突っ立っていた陽の腕を引き、自分と三月の間に座らせた。

 目が回りそうなスピードでとても信じがたい展開になったため、陽は疲れていた。膝に触れてきた三月の手が、ぽんぽんと慰める。そこにちゃんと体温があって、安心した。

 瑛次の向かい側に、理人も腰掛けた。

「……本当なんですね」

 陽が静かに言う。

 瑛次が、うん、と認めた。

「騙したくてそうしてたわけじゃないんだ。俺はただ、大学で勉強がしたいから人間の生活をしてるし、三月だってなにも君を殺そうとしてるわけじゃない」

「……まだ信じられません。先輩たちの仲間はたくさんいるんですか?」

「いや、そういないよ。特にアジアは少ない。東京で言ったら、さっきまでここにいた顔と、あと十数人しかいないはずだ。あ、こないだクラブで会ったヒスンとかもそうなんだけど」

「さっきの壱依兄さんという方は……」

「俺たちは人間よりずっと文化的で長い歴史があるけど、同時に人間より動物的でもある。壱依兄さんは、この辺りでは最年長の吸血鬼で、ずっと仲間の長として俺たちの存在を人間に隠しながら長生きしてるんだ。俺なんて八十年いかないくらいしか生きてないし、三月だって百年ちょっとだけど、あの兄さんは……あー、何歳だっけ。忘れちゃったな。とにかくそういう人なんだ」

「情報漏洩が一族の破滅に繋がるっていう話は、吸血鬼の存在が人間に広まったら怖がられて殺されるからとか、そういうことですか」

「大体そうだね。それに、これも人間は知らないだろうけど、吸血鬼を殺す専門家もいるんだ。そいつらからも身を隠してる」

「専門家?」

「ヴァンパイアハンターのことです」

 理人が答えた。

「日頃から吸血鬼を殺すために動いている人間のことです。その中には、ダンピールもいます。ダンピールっていうのは、人間と吸血鬼の間に生まれた子のことで、吸血衝動はほとんどないけど、人間のふりをして生活している吸血鬼の正体を見破ることができるんです。実は、僕がそれなんですけど」

「え、じゃあ君は先輩たちの敵なの?」

「いや」

 瑛次が緩く頬をほころばせた。

「理人はダンピールだけど、ハンターにはなってないんだ。ハンターの奴らからもよく自分たちに協力するよう声はかかってるけど、断り続けてる」

「僕は完全な吸血鬼になりたいんです」

 ふん、と鼻をならす。

 理人は胸を張った。

「事情をよくわかってなかった頃、ハンターから説得されそうになってたところで瑛次さんに出会って、絶対にこの人の仲間になろうと決めたんです。僕、瑛次さんとの出会いで人生が変わったっていうか……」

「オーケー、オーケー」

 熱烈な尊敬の眼差しを受け、瑛次は照れたように笑ってぶんぶん手を振った。

「俺は、子どもの頃にどこかの吸血鬼に噛まれて以来、半ヴァンパイアになっちゃってね。ダンピールと違って、吸血衝動があるほうの半分吸血鬼なんだけど。生き方がわからなくて絶望してたところを、壱依兄さんに助けられたんだ。完全な吸血鬼にしてもらった」

 瑛次の昔話を聞き、陽はぎょっとした。

「人をきゅ……吸血鬼にする?」

「うん」

「それってどうやるんですか?」

「血を吸うんじゃなくて、血を入れるんです」

 と、理人が答える。

 そこに瑛次が補足した。

「厳密に言うと、毒だ。俺たちが人間に噛みつくときに牙から分泌する毒を、痛みとか快感を与える程度じゃなく、全身に染み渡るように大量に注入する。それか、俺たちの血液にもその毒は混入されてるから輸血することでもできるんだけど、こっちは効果が薄いし、中途半端になる可能性が高い。どちらにしろ、吸入する分と同じ量の血を飲むことになるから、相当な自制心がないとできない……俺たちは、ヒトの血を飲むとき興奮状態になるんだ。これまでも、ヒトを吸血鬼にしようとして殺してしまった例をたくさん見たよ。だからそんなことをやりたがる吸血鬼なんてそういない」

 陽は隣を見た。

 じっと黙っている三月の様子を窺うと、彼はどこかテーブルの脚らへん一点をぼうっと見つめて、考え事をしているようだった。

 先輩、と呼ぶと、はっとして顔を上げる。

「そういえば、電話の要件はなんだったんだ? 相談があるって。そのためにここへ来たのに」

 瑛次が三月に言った。

 相談? と、陽は首を傾げた。

 が、三月は手首を左右に振った。

「いや。なんでもない。大丈夫」

 そしてゆっくり立ち上がり、ブラインドカーテンの一本を下げて外の様子を観察した。店の外には人ひとりの姿もなかった。

 

 

   五  エヴィル

 

 

 三月は本当に自宅謹慎の身になったようだった。

 いつものように陽がカフェに顔を出しても、三月はおらず代わりに理人が駆けてきて、

「陽さん! 何か食べて行きますか? 三月先輩はいないですけど……」

 と、にこにこするだけである。

 親友が外出できないからか、大学で見かけた瑛次も退屈そうな表情をしていた。陽は後を追いかける。時間があったので、キャンパス敷地内の青い芝が切り揃えてある中庭のベンチで、ランチをすることにした。瑛次はサンドウィッチと紙パックのコーヒー牛乳を持っていた。

 陽は背筋を伸ばしたまま、向かいに座る男性を盗み見た。

 あの日から、初めて対面した。この人たちが実は人間ではなく「なんとかかんとか」なんて、いまだに信じきることができず、よくわからなかった。

 あの夜、あれから陽は三月の車で自宅のアパートまで送ってもらったが、三月たちの正体の件については何も話さなかった。助手席から見る彼の横顔は、彼が人間であろうとそれ以外の何かであろうと、なにも変わりないように思えた。普段だったら、どうでもいいくだらない話で爆笑したり、スイッチが入っていちゃついたりしている車内だが、あの夜はただただ静かな空間だった。

 三月は何を考えていたのだろうか。

「……血以外のものも食べたり飲んだりするんですね」

 コーヒー牛乳を美味しそうに啜ってサンドウィッチのパン部分をもりもり頬張る瑛次を眺めながら、おにぎりを片手に陽がぼそりと言うと、瑛次は鼻から笑った。

「俺たちの体内に吸収された血は、たちまちものすごい量の脂質やたんぱく質に変貌する! とかだったら、むしろ便利でいいけどね。血を定期的に摂取しないと生きられないだけだよ、残念ながら。肉も野菜も普通に食べる」

「考えてみれば当たり前ですね。エネルギー源が必要な肉体があるんだから」

「うん」

 瑛次はいっそ愉快そうだった。

「俺たちにまつわる言い伝えって、大抵が間違ってるからね」

「そうなんですか? 例えば、ニンニクが苦手だとか?」

「ニンニクね。それは、吸血鬼それぞれの味の好き嫌いの話だからなんとも言えない。人間だって同じだろ? ピーマンが苦手な人もいれば大好きな人もいる」

「それはそうですけど……、そういう話なんですか」

「昔はニンニクの魔除け効果のせいで吸血鬼がそれを嫌うとか、恐れるって言われてたみたいだけど。俺たちは別に魔除けの類いが効く存在ではないからね。

 でもまあ、十字架に関して言えば、三月は苦手そうにしてるな。なんでなのかは本人もよくわかってないみたいだけど、見てると落ち着かないらしい。俺とかヒスンは別に目の前に十字架を突きつけられようとどうとも思わないから、これも個人差があるのかな」

 そういえば、陽は以前、十字架を象ったクロムハーツのピアスを三月に噛み壊されたことがあった。

 瑛次は話し続けた。

「あとはそうだなあ、例えば、永遠に生きるっていう話。吸血鬼になった時点から、細胞やら遺伝子やら脳やらの関係で、確かに歳は取らなくなる。自然治癒力が人間より格段に高いから、大体の傷はすぐ治るけど、だからって絶対に死なないってわけではなくて、当然、俺たちだって栄養失調になれば動けなくなるし、修復不可能なほどの重傷を負えば息絶えるよ。

 コウモリには変身できない。姿は鏡に映る。棺桶では寝ない。……あー、でも、壱依兄さんは棺桶みたいな箱に入って完全に日光を遮断して寝るけど、それは兄さんがちょっとでも日光に当たると危ないからで」

 瑛次は考えを巡らせるように宙を見上げた。

「日光に関しては、生きた時間の分だけ徐々に苦手になっていくみたいだ。最年長の壱依兄さんは一分も太陽の下を歩けないし、ヒスンは隙間なく日焼け対策してても数十分で意識が朦朧としてくるらしい。でも俺はまだ、人間の頃と同じようにこうやって日中大学に通えるし、一日中ビーチバレーとかしててもへっちゃらだよ。これは単純に、年月の経過に比例して増加する肉体の消耗具合の問題のような気がするな」

「……迷信よりずっと現実的ですね」

「あとは、あ、牙とか? 牙はあるけど、普段は人間だった頃と同じ形をしてる」

 陽は一度見た瑛次の牙を思い出した。チラと確認すると、現在の瑛次はごく一般的なサイズの歯でサンドウィッチを食べていた。

「目の色は、」

 と、瑛次は自分の片眼を指差した。

「牙と同じように普段は人間だった頃と同じ感じだけど、血を飲んだり、血を前にして興奮したりすると変わるんだ。俺は銀っぽくなる。三月は真っ赤になるな。あいつ、あの髪も瞳の色に合わせてあの色に染めてるから。おしゃれなんだかそうじゃないんだか……」

「僕、三月先輩が好きです」

 陽の唐突な発言に瑛次は驚かず、はは、と乾いた声で笑った。

「そうなんだろうなと思ってたよ」

「……」

 話の進路を逸らすために、わざと改めて三月の名前を出したのだろうと察した。

 瑛次は穏やかな空気感のまま、陽にそっと向き合い直した。

「俺たちが人間じゃないって知っても、その気持ちは変わらない?」

 陽は、しばらく黙ってから答えた。

「怖くなったのは事実です」

「うん」

「でも、なんだろう……だからといって三月先輩への気持ちが変わったかというと、そうではない気がします。まだ信じ難くて、混乱もしてるし、よくわからないけど」

「そっか」

「人間が吸血鬼に恋するのって、やっぱり変なことなんですか」

 なにが「やっぱり」なのかわからなかったが、一応そう聞いた。

 瑛次は発言を選んでいるのか、宙を見上げて雲を目で追うようにしながら、慎重に言葉を発した。

「人間にとって、吸血鬼が魅力的に見えるのは当然なんだ。外見の話でいうと、俺たちにとっての美しさは、獲物を引きつけるための手段だから。だから陽が一目で三月を好きになったのは、何もおかしくない」

 瑛次は続けた。

「吸血鬼は基本的にいつでも飢えてる。なぜって、この社会では人間を殺すことは犯罪だから、殺人をしないように気をつけながら、いろんな人からちょっとずつ血を飲んでるせいで、普通は誰もお腹いっぱい飲めないんだ。満たされてる吸血鬼は、きっと人間の目で見てもわかるよ。

 例えば壱依兄さんは、俺たちが補佐してるおかけで毎日満腹状態だけど、どう見えた?」

 陽は、あの夜に感じた壱依の印象を思い出した。

「人間らしくない美しさでした」

「うん。そうだよな」

 瑛次が頷く。

「あれは、あの人は、そうでなくちゃいけないんだ。俺たちは動物的だって前に言ったけど、俺たちには縄張りみたいなものがあって、基本的に自分たちのコミュニティの外の人間の血を飲むことは禁止されてるんだ。うっかり隣のテリトリーの人間を吸血した暁には、発覚した晩に処罰される。そういう取り決めでもしないと、殺人を厭わない吸血鬼が暴れて社会が崩壊するからね。平和に人間と共存すべきなのに……」

 やれやれと、瑛次は首を振った。

「ここの長男は壱依兄さんだから、兄さんはいつでも満腹で、美しくないと、縄張りを略奪しようとする他の吸血鬼に見くびられて攻め入られるんだ。幸い、今はすごく恐れられてるけどね。俺たちやヒスンの働きもあって」

 どうやら瑛次たちはそういった、壱依の補佐的役割も任されているらしかった。

「そんな風に、吸血鬼は通常、人間のことは食糧としてしか見てない。だから、陽のためを思って言うけど……三月がどうとかじゃない、吸血鬼そのものがもう、人間とは近付きすぎないほうがいいと思う。まあ、壱依兄さんがまず許さないだろうから」

「許さない?」

「あの人は人間を信用してないし、仲間の安全が脅かされることを絶対に許さないんだ。そうなるのは長男として仕方ないことだけど。だから、君が三月と一緒にいることを良く思ってない」

「だから三月先輩に謹慎を?」

「それもあるだろうね」

 陽は手元に目を落とした。

「僕はもう、三月先輩と一緒にいられないんですね」

 呟くように言うと、瑛次が、躊躇しながらも言った。

「一つ方法がないわけじゃない」

 瑛次は一瞬、迷う。

 しかし続けた。

「陽が吸血鬼になるんだ」

「え」

「俺たちの仲間になれば、俺たちは君を食いたいと思わなくなる」

 ひたりとした沈黙が流れた。

 吸血鬼になる。僕が。

 僕が。なる。

 そう考えた途端に、陽は突然、この状況を自分事として捉えられるようになった。どこか、自分にはどうにもすることのできない絶対的に超人的な領域だと決めつけていたものが、急に自分の手の中に降ってきた感覚があった。

 パズルのピースが揃う。

 砂時計の砂が全て落ちる。

 後ろから引っ張られた臍が正面に直る。

 不思議だった。まるで、何世紀も前からこの瞬間を迎えることが決まっていたかのような。

「……」

「でもね、それは本当に推奨しないよ。うん。だめだ」

 瑛次はさっそく自分の発言に後悔しているようだった。口先で、まずい、これ言っちゃいけないやつだったな、とか、バレたら処罰かも、とかブツブツ言っている。

 彼は慌ただしくベンチに座り直すと、言ってしまった言葉を吸い込み直すように大きく息を吸ってから、さっきの会話を脳内で切り取って削除したかのように白々しく続けた。

「だから、えーと、つまりね。陽が俺たちから逃げたいと思うなら、全く止めない。むしろ離れていてくれたほうがありがたいな。忘れてるかもしれないけど、三月や壱依兄さんだけじゃなくて、俺だって吸血鬼なんだ」

「……瑛次先輩は僕の血を飲みたいと思ってるんですか? 今も?」

「おもしろいことを聞くね?」

 新鮮な疑問だったようで、瑛次は笑った。

「人間を前にして常にそう思うわけではないけど、空腹のときには当然思うよ。陽だって、お腹が空いてるときにラーメンとかステーキとかを見たら食べたいと思うだろ?」

 瑛次は続けた。

「不便なことに、俺たちは人間の血を一定量飲まないと一年も生きられない。吸血鬼は不老不死なんて言説もあるけど、それはちゃんと血を飲んだら、の話だ。現代の俺たちは昔よりはだいぶ社会的になって、同じ立場の仲間と助け合って生きてる。殺人をしないで血液を採取する方法も、血液を売買するシステムも構築したし、仲間や協力者の医療関係者から血を譲り受けられるような人間との共存体制も整ってるから、仲間と繋がってさえいれば、満腹にはならなくとも血に困ることはない。だから、例えば俺が突然大学で陽を襲ったり、誰かを襲ったりするなんてことは、よっぽどのイレギュラーがない限りあり得ないよ」

 だから安心して、と笑う瑛次だ。

 ひととおり笑うと、何も言わない陽に改めて向き合い、言う。

「大学の先輩として、友人として、君が傷つかないように忠告しておきたいことがある。三月の話だけどね」

 陽は落としていた視線を上げた。瑛次の真摯な瞳と目が合う。

 瑛次は、三月の名前に反応して急に爛々とし出した陽の両目に一瞬怖じ気づいたように思えたが、意を決して続けた。

「三月は、人間と性行為しながら吸血するのが好きだ。最近の俺たちはコミュニティに属して、さっき説明したように協力し合って生きてるけど、あいつは最近まで、自分で近付いて親密になった人間から血を飲むことをよくしてた。当然、必要ない殺しはしてなかったみたいだけど、三月は孤立してたから、そうやって生き延びてきたんだ」

「孤立?」

「うん。三月は……、戦前、娼婦が客との間に作ってしまった息子でね。望まれて生まれたわけじゃなかったんだ。

 三月の母親は、三月を出産したあと、子なんて育ててたら仕事ができなくなるから、父親にこっそり三月を殺すように頼んだんだ。で、運悪くその父親が、吸血鬼の一派と良くない意味で繋がっててね、餌だと言って高価な値段で三月を引き渡した」

 雲行きが変わった話に、陽の唇が半開きになる。

「三月を譲り受けた一派には、ヒスンがいた」

 瑛次は静かに続けた。

「第二次世界大戦の最中になんで韓国人のヒスンが日本にいたかっていうと……わかるよな?」

「はい」

 陽は重く頷いた。

 重い雰囲気を引きずったまま、瑛次も何度か頷いた。

「この国はその頃、朝鮮半島を植民地支配してたからね。実際、今いる韓国出身の吸血鬼の大半はあの頃に人間を捨てさせられた――日本人の吸血鬼の牙で。そもそも戦前までは、アジアに吸血鬼なんてほとんどいなかったらしい」

「ヒスンさんは望んで吸血鬼になったわけではないんですか?」

「そうだね。まあどんな状況であれ、望んで吸血鬼になる人間なんてそういないよ。不老不死に目が眩んだ富豪くらいしか。といっても、そういう奴は大抵すぐに掟を破って処刑される」

 瑛次は思い当たる節があるのか、ため息をついて力なく首を振った。そして話を戻す。

「とにかく、まだ吸血鬼になったばかりで人間らしい感情が強く残ってた当時のヒスンは、連れられてきた三月を見てかわいそうに思って、咄嗟に、こいつは食うには赤ん坊すぎる、育てて立派な青年になった頃に血をもらったほうがいいと言って、三月を助けたんだ。(吸血鬼にとって二十年なんてあっという間だからね!)

 それで、本当にあの見た目の年齢まで三月を育てたんだけど、三月はただ殺すにしてはちょっと異質になってしまった――だって、人間なのに二十年の間も吸血鬼に育てられたから、吸血鬼の世界のことはもちろん熟知していたし、昔から利発的だったから、時には人間を騙して連れてきて夕食を恵んでくれたりもしてたらしい。それに、俺たち吸血鬼にとって、人間界との繋がりっていうのはかなり重要なんだ。さっき言ったようにね。

 それで、ヒスン含むその一派が、三月を殺そうか利用し続けようか迷っていた矢先、戦争が激化した」

 空が暗く曇ってきた。

 瑛次は構わず話し続けた。

「三月は、出生届の類いを出されてなかったから、戸籍上は存在していないことになってた。だから徴兵はされなかったけど、ある日、米兵に背中を二箇所も刺されて殺されかけたんだ。そこに駆け付けたヒスンが、背中からの大量出血で死にそうになっていた三月を吸血鬼にして、つまり永遠の命を与えて、助けた」

「それで、三月先輩はヒスンさんたちの一族と合流を?」

「いや」

 瑛次は重いため息をついた。

「三月は目を覚ますと、どうしてこのまま死なせてくれなかったのか、そんなに俺の血が飲みたいのか、裏切り者、とヒスンを責めて、そのまま一人で逃亡した」

「えっ?」

「俺はこれらの話を全部ヒスンから聞いたから、どこまで事実でどこまで脚色かはわからないよ」

 瑛次は弁解した。

「そこからの三十年間のことは、三月本人にしかわからない。きっと、だんだん吸血鬼になっていく自分の体と戦いながら、一人でどうにか生き延びたんだろうけど……。ずっと三月を探してたヒスンがやっと見つけたときには、あいつは、さっき言ったように一人で人間の血を飲んで生きる術(すべ)を身に着けていて、見た目もあんな風に……壱依兄さんでさえも綺麗だと褒めるくらい美しくなってた。つまり、人間を惹き付けて食う立派な吸血鬼になっていた」

「……そんな」

「それから色々あって、一時期はヒスンと交際してソウルに住んだり、なんだりしてたみたいだけど、結局、壱依兄さんと一緒にいた俺と合流して、今に至る。

 俺は壱依兄さんに吸血鬼にしてもらったけど、ヒスンも同じなんだ。だから俺と三月は親友だけど、血筋上は義理の兄弟みたいなものだ」

 瑛次はそこまで言うと、ふうと一息ついて話を落ち着かせた。

 頭上に重く広がる曇天は、今にも雨を降らせそうに黒く染みてきていた。慌てて棟の中へ移動する学生もいる。

 瑛次ものっそり立ち上がった。

「長々と話しちゃったけど、つまり何が言いたいかっていうと、」

 と、最後、静かに言う。

「人間は愛の証明のために誰かと性行為をする傾向があるけど、多くの吸血鬼にとって人間とのセックスは、獲物を喜ばせて血を美味しくするための狩りの一種でしかない。俺の知る限り、三月も例外じゃない。むしろ、これまで何十年もそうやって生きてきた、その傾向が強い奴だ」

 一ミリも動こうとしない陽を見下ろし、瑛次は鼻からため息をついた。

「愛されてるって誤解しちゃうのは仕方ないさ。だって陽は、人間なんだから」

 

 

   六  ヘル

 

 

 夢を見ていたような数ヶ月間だった。

 三月が陽の人生に現れてからというもの、時計の針の進み具合が遅くなったのではないかと感じるほど、濃密で非現実的なときを過ごした。それが過ぎてしまうと空虚な日々しか残らない。

 今週最後の講義を受けたあと、陽はぼんやりキャンパス内を歩いていた。帰るつもりだったが、足はその方向へ向かいたくなさそうだった。空腹なのに何も食べたくない。寒いのに温まりたくない。……

 辺りはもう暗い。隣の学部の棟から友人らと連れ立って出てきた同級生とすれ違ったが、その会話が、彼氏がどうのこうの、バイトがどうのこうのと盛り上がっているようで、陽は妙に沈んだ気持ちになりながら通り過ぎた。

 その後、たまたま准教授と鉢合わせて、楠木さんは相変わらず成績優秀で大変素晴らしい、と褒めちぎられたが、心が晴れることはなかった。勉強に打ち込んで気を紛らすしかできないだけなのだ。

 まるで、たったひとりで、似た見た目の全く別の世界に来てしまったようだった。吸血鬼がどうだとか、血液がどうなんていう話のほうがよっぽど作り物めいているのに、戻ってきた正常な日常のほうがむしろ、間違っていると感じてしまう。

 大学の学期が移り、時間割が変動して履修科目も変わったせいで、陽と瑛次が一緒に受けていた授業がなくなった。だから陽が主に通うキャンパスで瑛次の姿を見ることはなくなった。もともと学年が違うし、お互いどこかのサークルに所属しているわけでもないし、こうなってしまうと共通の教授もいないし、繋がりはぷつりと切れたように思われた。

 三月は、ラインで連絡しても既読になることはなかった。カフェのシフトがないはずの時間帯に一度だけ電話もしたが、コール音が延々と鳴り響くだけだった。

 カフェに行ってみたこともあった。三月だけでなく理人の姿も見当たらなかったから、前に彼らと同じシフトで働いていたのを見たことがある女子大学生に声をかけ、三月や理人のことを聞いてみたら、二人ともバイトを辞めてしまったと言っていた。

 三月のマンションに行ってみようかと思ったこともあった。実際、記憶を頼りに近くまで向かったこともあったが、あと少しのところで場所の判断に迷い、辿り着けなかった。

 本当に夢を見ていたのだろうか。

 生活に必要な行動全てに気力をなくした陽は、そんなことまで真剣に考えるほど参っていた。

 気付けば自宅のアパートの玄関に立っている。はっとして、扉を閉めて施錠したものの、鍵を回した格好のまま氷のように動かなくなった。

 ――これで終わりってこと?

 眼球だけが徐々に上向きに動き、玄関の扉を見つめる姿勢になった。

 僕は一体なにをやっているのだろう。

 陽は突然シャキシャキと動き出し、参考書やレポートの類いが詰まっている鞄をベッドに放り投げると、財布と携帯電話だけ持ち出し、クローゼットからダウンジャケットを取り出して羽織った。洗面所の鏡を見る。目の下にクマができていた。

 数秒後には家を後にしていた。情緒が安定しないことには自覚がある。それでも良かった。三月を諦めて生命の色をなくすよりは、三月を追い求めて狂気に飲まれるほうがずっと、ずっと良かった。

 ヒスンのクラブは営業時間前だった。当然、誰もいないし人の気配すらない。

 何も考えずに来てしまった自分が悪い、時間を改めてまた来ようと思い、引き返そうとすると、頭上からおいと呼び止められた。

「お前、こないだ三月といた奴だろ。なにしてる?」

 ヒスンだった。

 彼は、クラブの建物のすぐ隣に建っている雑居ビルの外付け階段の、一階と二階の間の踊り場に立っていて、柵に肘をかけて煙草を吸っていた。髪をセットしていないうえ、疲れたパーカーを雑に来ていたから、仕事前の一服でもしていたのかもしれない。

 陽はヒスンを見上げ、声を張り上げた。

「あなたに会いに来ました」

「俺に?」

 ヒスンは怪訝な表情を隠しもせずに言った。

「俺はお前に用なんてねえけど」

「僕はあるんです。三月先輩のことで」

 ヒスンは苛立っているのも隠さず、ムカムカと紫煙を伸ばした。片方の眉を吊り上げたまま何も言わないので、陽は続けた。

「先輩、元気ですか。どこに行けば会えるでしょうか」

「どこに行こうが会えねえよ。お前は」

「……は?」

「大体、三月の謹慎はお前のせいなんだろ? おとなしくしといたほうが身のためだぞ」

 ヒスンは煙草の火を柵に押し付け、消した。

「これ以上首を突っ込むなって話だ」

 吐き捨てるようにそう言い、ヒスンは背中を見せて手をひらひら振り、二階のほうへ去っていってしまった。あとから、バタン! と、ドアが勢いよく閉められる大きな音がした。

 取り残された陽は口をきつく結んだまま、じっくりと首を下げて、不服そうにしばらくそこに立ち尽くしていた。

 また当てがなくなってしまった。

 どうしよう。

 どうにかして、どんな手段を使ってでも構わないから三月にたどり着きたかった。しかしもう、頼れる先がない。ヒスンには相当嫌われているようだし、壱依の居場所なんて検討もつかない。瑛次の通うほうのキャンパスに、週明けにでも行ってみようか。それか、もう一度三月のマンションを目指してみるか。

 考えをぐるぐる巡らせていて、大勢の人が溢れる空気に触れたくなかったので、電車には乗らず歩いて帰ることにした。時間はかかるが大した距離ではない。

 明るい満月の夜だった。

 ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで歩いていると、やがて人気(ひとけ)のない道に差し掛かった。線路に沿った道を歩いていたので、常に横を電車が往来してはいたが、頼りない街灯だけでは足元は暗く、心細かった。

 パキ、と、背後で音がした。

 つい、ぎくりとして振り返る。誰かの気配がない夜道だったから恐怖を感じたが、音の正体は猫だった。排水溝の上に散乱している小枝を踏み、折った音が、パキパキと鳴っていた。

 やがて猫はすっと闇夜に消えていった。

 そういえば、初めて二人で食事に行ったとき、三月に

「陽ってなんか猫みたいだもんな」

 と言われたことがあった。

 初めて名前を呼ばれてどぎまぎしていたっけ。懐かしい。もう随分と遠い昔の記憶のようだ。

 あのときも、三月先輩は吸血鬼だったわけだ――陽は下唇を噛んだ。最初から僕の血を狙って、僕の誘いに乗ったのだろうか? あの笑顔も、あの夜も、全部が僕の血を飲むためだった? ……本当に?

 瑛次にはああ言われたが、陽は本心から三月に裏切られた気持ちにはなれないでいた。

 だって血を飲めるタイミングなんていくらでもあったはずだった。何度も二人きりで会ったし、セックスだって何回もした、それにどう見ても陽は最初から三月に夢中だったのに、三月もそれを知っていたのに、それを利用しなかったのは他ならぬ三月なのだ。

 最後に夜のカフェで見た三月の、思い詰めた横顔が忘れられない。

 そのとき突然、道端の茂みから成人大の影が躍り出てきて、陽の行く手をバッと阻んだ。街灯の逆光で顔は見えない。ただ、筋肉質な腕を大きく広げながらじりじりと距離を詰めてこられているのはすぐにわかった。

 咄嗟に足を止める。

 直感がまずいと告げていた。

 不審者から逃げようと振り返ると、背中のすぐ後ろにぴったりと張っていた別の男がいた。

 陽は恐怖で息を飲んだ。足が竦んで動けない。逃げ道を探って横を見ても、騒音を立てながら走り去る電車が見えただけで、反対側を見ると、なんともう一人違う影がこちらに向かって来ていた。囲まれた。

 男の一人に背中側から腕を回され、封じ込まれた。喉を絞められて息が詰まる。苦しくて男の腕を叩いたが、びくともしなかった。

 涙で歪む視界の中、正面から飛びかかってきた男が、陽の反応を楽しむように口角を上げたのが見えた。男は刃物を持っていた。

「――っ!」

 殺される、と目をつむった瞬間、音もなく時が止まった。

 ゴン、ドサ、という重量のある鈍い音がして、「なんだ!」と男のうちの一人が叫んだと思ったら、ボキッという嫌な音がすぐ背側で聞こえた。男たちの悲鳴が上がる。次の瞬間には、三人は一目散に駆けて逃げ去っていた。

 急に呼吸ができるようになって、陽は咳き込みながら地面に膝をついた。その背中をさすってくれる手がある。

 隣を見た瞬間、陽は目を見開いたまま、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。

「……みつ、き……先輩……っ」

「ここのテリトリーの奴らじゃないな」

 三月は陽の横にしゃがんで、何度も背中を撫でてくれながら、男たちが逃げていった方向を睨んでいた。

「吸血鬼と会ったあとは、吸血鬼から狙われやすいから気をつけたほうがいい。ああやって他の縄張りの奴らが襲ってきて、人間を殺して、関係性を口実にこっちの縄張りのせいにするんだ」

 三月は重く語った。

「知識は積み重なっていくけど、認識は上書きされるものだ。――って、瑛次がよく言うけど。ああいう乱暴なことは元人間じゃない奴か、壱依兄さんみたいに人間だった頃の感覚をすっかり忘れた奴しかしない。俺たちがみんなああいう風なわけじゃないから……って、聞いてる? 陽」

「っ、聞いてません」

 陽は歩道にへたり込んでしまった。意思に反して次々にあふれ出てくる涙が、口に入り込んできてしょっぱかった。鼻の奥がキンと痛い。

 三月は複雑な顔で薄く微笑んで、陽の背中を撫でていた手で今度はえりあしを撫でた。

「三月先輩……っ」

 会いたかったと言ってしまえたら楽だった。

 それより、会ってしまってはだめだったと強く感じた。

 狂うほど会いたかったのに、会うと、自分はこの人から離れられるわけがないのだという真実を突きつけられて、その凶暴な結果に対峙せざるを得ないのだった。

 三月はしばらく見ないうちに、ずいぶん窶れていた。頭上から静かに降り注ぐ街灯の蛍光灯と、満月の明かりに照らされて、彼の顔は非常に青白くも見えた。外出を禁じられているからだけにしては、異常な衰弱の仕方だった。

 まさか病気だろうかと思い、怖くなって、何も言わないまま三月の肩を抱き寄せた。体温は確かにあったが冷えていた。

 三月はちょっとだけ陽を抱きしめ返したが、すぐに体を引き離した。

「汚れる」

 と、自分の服を指差す。三月の上着には返り血が撥ねていた。さっきの男たちのものだった。よく見ると、頬や額にも赤い点がついていた。

「きったな。同族の血なんて浴びても何も嬉しくないよな」

 そう言い、三月は迷いなく上着を脱いだ。

「僕の家、来ますか」

 小声で陽がそう言うと、三月は乱れた髪を直していた手をピタッと止めた。

「シャワー、貸せます。……」

 沈黙が流れた。

 大泣きして鼻の詰まった声でこんなことを言って、みっともないや情けないなどとごねる余裕はなかった。ただ、いま傍に三月がいることが奇跡のように有り難くて、この時間が一秒でもいいから長くあってほしいと、それだけだった。

 三月は、しゃがんでいた姿勢を崩して陽のように地面に尻をつき、目の前で胡座をかいた。

「お前は、……」

 陽はじっと三月の言葉を待った。

「……お前は、逃げないの? 俺から」

「逃げ……? どうして?」

「人間じゃないから?」

 三月は自嘲的に笑った。

 こんなときでも、残酷なほど美しかった。

「瑛次が全部話したんだろ。壱依兄さんがそう頼んだって言ってた」

「頼まれてたんですね。だから瑛次先輩、あんなになにもかも教えてくれたんだ」

「兄さんは今、俺からお前を引き離すのに必死だから」

 と、胡座をかいた膝に肘をかけて、頬杖をつく。

「今のこの状況だって、兄さんに見つかったら殺される」

「そんなことする人には見えませんでしたけど」

「恐ろしいよ、あの人は。すごい人だけど」

 三月は遠い目をした。

「人間の頃の考え方とか感覚は、百年くらいじゃ全然消えない。俺はまだ怪物になりきれてないから、兄さんを見てるとたまに本気で怖くなるよ。お前に対してだって、いつ何されるか予想できたもんじゃない。……」

 三月は陽を見つめて口を閉ざした。

 陽も三月を見つめ返した。

 終電も過ぎたのか、もう電車は通り抜けなくなった。

 人も、猫も、何もいない。

 世界に二人だけ取り残されたみたいだった。

「さっきは助けてくれてありがとうございました」

 陽が囁くように言うと、三月は鼻息だけで吹き出した。

「今言う?」

「言いそびれてたと思って」

「うん」

 陽の指と三月の指が触れた。ピリと電流が走る。

 それからどちらともなく指先を触れ合わせて、絡めた。

「本当に人間じゃないんですね」

「うん」

「本当に、吸血鬼なんだ」

「そうだよ」

「ずっと僕の血を飲みたいと思ってたんですか」

「うん」

「だから僕と一緒にいたの?」

「……」

「だから僕に良くしてくれたの?」

「……」

「先輩?」

「……。確かに最初はそのつもりだった。お前は美味しそうだったし、俺は今までも恋人ごっこみたいなことしながら人間を食ってたから」

「今は? 今も僕の血を飲むために、それだけを狙って、こうして現れたんですか?」

「それに答える前に、俺からも聞いていい?」

「なんですか?」

「陽は俺が好きなの?」

 陽は押し黙った。

 そして数秒の間のあと、じっとりと答える。

「伝わってなかったんですね」

「いや、前そうだったのはわかってるよ。今の話」

「今?」

「俺が吸血鬼だって知ってもそうなの?」

「はい」

「……」

「あなたは、僕の人生の中のあなたのことを見くびりすぎです。ついさっきまで、先輩にどうにか会おうとしてストーカーみたいになってたのに」

 三月は笑った。

 そして、よっこらせと呟きながら立ち上がり、尻についた汚れを手で払った。陽も立った。泣き腫らした目と頭が痛くなってきて、少しふらついた。

「さっきの質問の答えだけど」

 三月が、陽の家の方向に歩き始めながら言った。

「今は違うよ」

 

 

 

 陽の部屋は、大学から一瞬だけ帰ったときの状態のまま放置されていたから、ベッドには参考書やタブレットが飛び出た鞄が放り出してあったし、洗面所の照明もつけっぱなしだった。

 三月には几帳面なところがあるが、この散らかし具合については、今回は見逃してくれた。

 シャワールームの扉を閉めた音がした。

 寝室に入ってきた下着だけの姿の三月が、無言のまま陽をぎゅうと抱き寄せた。陽も同じように腕を回して、頬を寄せた。まだ湯で濡れている肌が内部からほんのりあたたかくて、安堵感に包まれる。背中をさすった指先が、三月の肩甲骨にあるもがれた翼の傷口に触れた。濡れた三月の髪から水滴が垂れ、陽の服の肩口を濡らした。

 陽は、瑛次から聞いた話を思い出していた。

 ――この人が噛みしめてきた孤独は、一体、人間何人分に相当するのだろう。

 生まれた瞬間に捨てられて、拾ってくれる手があったと思ったら、迷路のような大海原にひとり放り出されて、それで、自分の中の人間性を自分で殺しながら這いつくばって生きてきた。百年もの生涯を。

 どうして誰かが隣にいてくれなかったのだろう。陽は、これまで三月が彼自身の百年の人生において会ってきたあらゆる存在の、全てを憎んだ。どうして彼を一人にさせたのか。どうして彼を傷付けたのか。どうして誰か、彼に明るくて広い場所を用意してあげなかったのか!

 いつか言われた「お前だけは俺を裏切っちゃだめだよ」という言葉が、今は痛烈に響く。

 この人を絶対に裏切りたくない。そう強く誓いながら、同時にどうか僕に傷付いてくれと思う。

 陽は、静かに言った。

「僕も吸血鬼になりたいって言ったら、どうしますか」

 三月は陽を抱き締めた格好のまま、しばらく動かなかった。声も発しなかった。

 彼はやがて、体を離すと、床に落ちていたタオルを思い出したように拾いながら言った。

「……何を言い出すのかと思えば」

「そうすれば一緒にいられます。僕が吸血鬼になれば、先輩は僕の血を飲みたいとは思わなくなるでしょう? 我慢して苦しむこともなくなるはずです」

「そりゃそうだけど」

「瑛次先輩も言ってたんです。先輩の傍にいられる方法がひとつないわけじゃないって。それがこの方法だって。僕はそれを望みます。先輩の仲間になって、共に生きていきたいんです」

 三月は数秒間、一切の動きを止めた。高速で何かを考えたようだった。

 そのうち、濡れたタオルを首に引っかけて、口の端を片方持ち上げて笑いながら言った。

「人間のままでいいだろ? 俺が他の人間を食って、お前の血を飲みたいのを我慢すればいいだけなんだから」

「それって、我慢できるものなんですか?」

「ん? できない」

 三月は冗談に笑いながらそう言い、陽に一歩近付いて唇を奪った。

 そして、腰を抱いて爪先を浮かせて横にずれてから、陽の体を仰向けになるよう後ろに倒した。倒された場所にはベッドがあったようで、背中がふわりとシーツに包まれた。

 すぐにその体に跨がって、三月はキスを深めた。陽は三月の首に腕を回して、しっとりと何度も唇をすり合わせて、食んだ。ん、と、鼻から湿った声が漏れる。

 こうしているときだけは、この平安が永遠に続く確信が持てた。数分が一時間に感じる。一生が永遠に感じる。そもそも、ただ人間がそう認識して勘違いしているだけで、時間なんてものは本当は存在しないのかもしれない。

 やがて三月のほうから離れていった。

 陽はそっと目を開けた。冷たい水滴が三月の髪から頬に落ちてきて、肌を伝った。三月はそれにまでキスをして、陽の輪郭を手のひらでそっと撫でた。

 見上げる陽のシャツのボタンをひとつずつ外しながら、首や鎖骨にキスを落としていく。三月が冗談で陽の首筋に歯を立てると、陽の体がピクリと小さく跳ねた。

「怖い?」

 陽は首をぶんぶんと横に振った。

 しかし、しばらく間を置いて、弱く縦に振り直した。

「噛んだら痛みますか?」

「最初だけね」

「あとは痛くない?」

「後半は気持ちいいよ。お前はイきっぱなしになっちゃうんじゃない?」

「えっ?」

「やってみる?」

 もちろん本気ではない。

 しかし、三月をじっと見上げる陽の表情は、本気だった。

「先輩にだったら飲まれてもいいです」

「え?」

「血。僕の血があなたのエネルギーになれるって、普通に幸せだから」

「……そういうことは冗談でも言うな」

 三月は陽に覆い被さったまま、こうべを垂れた。

 二、三度息をつく。

 そして、

「考えただけでこうなるんだから」

 と、再び陽の目を直視した。

 見上げた先を陽がよく見てみると、三月の瞳は見たことのない色素を浮かべていた。

 真っ赤な虹彩だった。髪と同じワインレッド、いやそれよりも濃く深く、充血したようでもあるが、濁ってはおらずむしろ透き通っていたので、ルビーの宝石をそこに埋め込んだかのようだった。縦に長く切れ込んだような瞳孔は、猛禽類の眼球のよう。

 そして、いつの間にか存在していた牙は伸び、下の唇に触れて食い込んでいた。

 三月は元から端正な甘い顔立ちをしていて、ときに可憐な少女のように見える瞬間すらあるほどだったが、今はそれが鋭利な刃になって、その美しさで他人を薙ぎ殺すような攻撃性があった。

 確かに、恐怖は抱いた。

 現に、彼の目尻に触れて横に滑らせた親指は小刻みに震えていたし、逃げたくなって呼吸が乱れた。人間だったはずの姿が人間に近い別の物に突然変異したようで、その異様な存在を前に、これが現実だと飲み込みたくない抵抗感が湧き上がった。

 しかし、逃げるという行為に至るには、これが三月であるという現実の前では理由が足りなかった。

 陽は下から、三月の頬を両手で包んだ。

「綺麗」

 なんて恐ろしくて、哀しくて、きっと綺麗な。

 陽は自分の胃の底のほうから、言い難い感激がじわじわと起きてくるのを感じ取っていた。

「冗談なんかじゃないですよ。僕、本当に、先輩にだったらいいんです」

「……」

「あなたが何者だろうと、あなたがあなたである限り、愛してます」

 その言葉を聞いた三月は何度か唾液を飲み込んで、何度も、言葉を選んで発言をためらった。ようやく声になって出てきた台詞は、吐息だった。

「陽。お前がかわいい。誰よりも。こんなに飲み干したいと思うのに、それよりもっと、お前が健康で生きてるほうがずっといい」

 絞り出すような声だった。

 陽はこの吸血鬼を引き寄せて、できる限りやさしい力で抱擁した。

 それからそっと体を横にさせる。

「今日はこのまま寝ましょう。ね。ゆっくり休んで」

 陽の安いシーツに沈む窶れた三月は、まるで億の価値がつくクラシカルな芸術品が人知れぬ里に置き去りにされた宵のように、背徳的で、退廃的な甘美をたたえたまま動かなくなった。呼吸で上下する胸が痛々しいくらいで、睫毛が小さく震える様は、見つめているこちらも息苦しくなってくるほど弱々しかった。

 どうして三月が衰弱し続けているのか、瑛次からは何も聞かなかった。

「陽」

 三月が呟く。

 もう瞼を持ち上げる気力さえ残っていないようだった。

「おやすみ」

「……おやすみなさい。三月先輩」

 たとえあなたが灰になっても傍にいよう。

 陽は寝ずに、三月の寝顔を見つめ続けた。

 

 

 

 夢にまで陽が出てくるようになって、三月は狼狽する。

 愛しています、僕も吸血鬼になりたいです、なんて、言葉で言われてしまったからには、もう逃れられなかった。金でも永遠の命でもない、他でもないこの俺と一緒にいたいがためだけに、陽は人間を捨てようとしている。呪縛だった。

 ……。

 いいのだろうか?

 こんなに俺に都合が良くて?

 三月は神経質に爪を噛んだ。

 吸血鬼となった陽はどんな調子だろう。きっとあの聡明な雰囲気はそのままに、今以上に色気を湛え、ときに愛らしくときに冷酷なヴァンパイアとなることだろう。

 瑛次のように勉学を続けたがるだろうか。それとも優雅に働くか。長寿の分だけ金は貯まる。三月が趣味程度に気楽にカフェに通勤していたのも、瑛次と二人で遊び歩いていられるのも、全ては貯蓄がたっぷりあるからだが、陽が共に生きるとなると彼もそれで暮らすはずだ。贅沢をさせてやりたいし、望む時間の使い方をさせてやりたい。

 二人で世界旅行なんかに行くのもいいかもしれない。吸血鬼は年齢を重ねるたびに日光に弱くなるから、ビーチや砂漠などには早いうちに行ってしまって、あとの人生でのんびりと行きたい国へ全部行こう。ルーマニアに渡って、元祖吸血鬼の故郷を案内するのもいい。

 きっとあっという間に多言語話者にもなるだろう。記憶力だけではない、体力も跳ね上がるから、これまでは陽が先にへばってしまって三月がいつまでも元気だったセックスも、何時間も続けられるようになるだろう。

 しかし、それらがどんなに喜ばしい進路だろうと、陽に人間としての人生を諦めさせたいとは全く思わなかった。

 それが困った。

 自分はもっと身勝手な性格だと思っていた――三月はのろのろと道を進みながら、ぼんやりと物思いに耽った。

 ここ五十年くらいは欲しいものを我慢した覚えはないし、特に人間に対しては、故意に乱暴な行為を加えることはないにしろ、丁寧に丁重に扱ってきたわけでは全くないのだ。

 それなのに、だ。

 陽に対して、お前も一緒に怪物になってくれとはとても言えなかった。例え愛してると言われても、共に生きたいからそうしてほしいと言われても、彼に短く儚くも尊い人間の命を捨てさせるなんて、耐えられない。

 血を飲み干して殺したくはない、それなのに吸血鬼にもさせたくない、ああ、確かに俺は身勝手だ。……

 一体どこまで続くのかと思われた長すぎる廊下を進み、扉を開くと、広いダイニングルームのテーブルには、ひとりの男性が座っていた。

 ちょうど今、夕食を終えたところのようで、空になった食器を前に白いナプキンで口元を拭いていた。ワイングラスに注がれた血液の赤ワインをくっと飲み干す。上品で美しい男性だった。

「ああ、三月」

 壱依は来客に気付くと顔を上げ、自分の向かい側に座るよう促した。

「よく来たねえ。待ってたよ」

 彼は瑛次や三月、そしてヒスンと比べると日光がずっと苦手で、数分と直射日光を浴びると肌が爛れてしまう。それなので、どの国に滞在していようとこうして地下に住まいを構えて暮らしていた。

 ここに三月を呼び出したのは、他ならぬ壱依本人だった。こっそり陽に会ったことがもうばれたのだろうか、と、三月は気落ちした状態で足取りも重くここへ来た。

 壱依にはとことん敵わない。世界中に目があるようだ。きっと耳もある。兄さんは瞬間移動やタイムリープさえ本当はできるのではないかと、真剣に瑛次と話したことすらあった。

 三月が椅子を引いて腰掛けると、壱依は口元に穏やかな微笑みを浮かべたまま、グラスに赤々とした液体を注いだ。三月は一瞬、嬉々として手を伸ばそうとしたが、思い直して手を引っ込めた。

 壱依はそれを見逃さなかった。

「あれから大丈夫だった? あの子は」

 聞かれているのが陽のことだというのは、すぐにわかった。

「説明できるところまでは話して、黙っててくれるように伝えました。大学には瑛次がいるし、理人とも仲良くなったみたいなので、まあ大丈夫だと思います」

「うん」

「理人はもうすぐ成人しますし、近々――」

「それより、楠木陽の話がしたいんだけど」

 話を反らそうとしたことすら見破られたのか、壱依は即座に話題の軌道を戻した。

「単刀直入に聞くけど、あの子のことはこれからどうするつもりなの?」

 返答に困り、三月は視線を横に追いやった。テーブルに置いてあったフォークの柄を意味もなくいじり、貧乏揺すりを止めない。

「どうって」

「知られたからには野放しにしておけないって言ったよね」

「殺すつもりはないです」

「傍で働かせるってこと? 他のそうしてる人間みたいに、血をくれる契約をして?」

「そうじゃなくて……普通に」

 答えると、壱依は目を伏せてふっと笑った。

「陽とはもう会ってません」

 三月が慌てたように弁明する。

 しょうがない弟だなあ、とでも言うように、壱依はもっと微笑んだ。

 そして、

「重要なことをこれから話すよ」

 と、壱依は小さく話し出した。

「あのね、三月。結論から言うけど……、俺たち吸血鬼は、人間を愛してしまうと、その人の血しか飲めなくなるんだ。他の人間の血を飲もうとしても、どれもまずく感じたり吐いたりして受け付けなくなる。好きになればなるほど、愛せば愛すほど、他の血への拒否反応は強くなって、反対に、愛する相手の血はますます強く欲しくなっていって、いつか堪えきれなくなって全て飲み干してしまう。飲み干して殺したくなければ、吸血を我慢して自分が餓死するしかない。だから俺たちと人間の恋は例が少ないんだ。みんな、最後にはどっちかが死ぬからね」

 壱依の声がずいぶん遠くに聞こえた。

 つむじから爪先まで全てが凍りついた。

 三月は、もう指一本動かせなくなった。

 無理やり目線だけを上げると、壱依がじっと静かにこちらを見つめていた。優しい眼差しが、逆に怖かった。

「心当たりがあるんだね?」

 と、テーブルの上で三月の手の甲に触れる。

「どうりでここのところずっと弱ってると思った。いつから飲めてないの?」

「……」

「じゃあ、つまり、これは採って良かったってことだね」

 トン、と、テーブルの目の前に小瓶が置かれた。

 波打つほどもない少量の赤い液体が、小さな瓶にとっぷり入っていた。しっかり封がしてあるにも関わらず、瞬時にわかった。

 これだ。自分が今、何よりも求めてやまない生命の源。宝石。お伽話の中の若返りの水。

「お前はずっとこの味が知りたかったんでしょ」

 そう言い、壱依は数センチしかない小瓶のコルクを爪で引き抜き、再びテーブルに置いた。

 そして、先ほどは置かなかった他の何かを横にカランと転がす。

「誰の血だと思う?」

 見ると、小瓶の隣にシャネルのピアスが置いてあった。血痕がついている。

 三月は絶句した。

 嘘だろ。――三月の口を使って誰かが言う。

「ちょっ……と、待ってください。これは、」

「食事の時間だよ、三月。ちゃんと座って」

「兄さん!」

 急に言うことを聞いて動くようになった体が、立ち上がり、壱依に噛みつきでもしそうな勢いで叫んだ。

 しかしその声量も威勢も、長男に厳かに目で咎められるとすぐに詰まった。

「座って。三月」

「陽に何をしたんですか」

「三月」

「答えようによっては、いくら兄さんでも許さない」

「聞こえてる? 三月。座りなさい」

 三月は従うしかなかった。

 腰を下ろしながら壱依を睨む。

「答えてください。陽は生きてるんですか」

「必要ない殺しはしない。それが俺たちの決まりなのは、お前もよく知ってるはずじゃない?」

 壱依は椅子に深く寄りかかり、ため息をついた。

「驚いたな。ただの人間の血だよ?」

 そして続ける。

「あの子が自分で俺に会いに来たんだよ。どうやってここを突き詰めたのか知らないけど、人間が自分から来るなんて、いい度胸だよね。『注文の多い料理店』かと思った。知ってる? 宮沢賢治」

「よ、陽が、来た?」

「うん」

 壱依は退屈そうに、空の皿の縁を指でなぞって手遊びを始めた。

「僕を吸血鬼にしてくださいって、言いに来たよ」

「え……? それで兄さんは、何て」

「三月に頼みなって言った」

 三月は愕然として口をあんぐり開けた。

「あの子はお前が好きすぎるあまり、どうしてもこの先も一緒にいたくて吸血鬼になりたいんだって。食糧としてじゃなくて、仲間として傍にいたいって言ってたよ。あの子はちょっと変わってるね。頭がいいのに野生動物みたいだし、俺みたいに挑戦的だ」

「だからってなんで俺が」

「逆に聞くけど、瑛次とかヒスンを楠木陽の兄にしても、お前はいいの?」

「陽を吸血鬼にするとは決まってない……」

「そうだね」

 壱依は今度は、鈍く輝くフォークと鋭利なナイフで手遊びし始めた。

「ねえ、俺のかわいい三月」

 ナイフとフォークに目を落としたまま、壱依が言う。

「お前は、楠木陽を吸血鬼にするのが怖いんじゃないの?自分の気持ちが愛なのか食欲なのか、わからないから。楠木陽を吸血鬼にしたとたん興味を失うかもしれない」

「……」

「お前は本当にかわいいねえ」

「からかうのはやめてください、兄さん」

「やだなあ、からかってなんかいないさ」

 壱依は片肘で頬杖をつくと、少し身を乗り出して、もう片方の腕を伸ばして人差し指で三月の顎に下から触れ、軽く持ち上げた。

「俺はね、」

 壱依は切れ長の、毒気があるほど美しい目を細め、三月を見つめた。

「お前のこの綺麗な顔が、人間に敗北して朽ちていく様なんて見たくないんだよ。お前は今みたいにちょっと痩けてても綺麗だけど、もっとはつらつとしていたほうが、もっと愛らしい。人間にうつつを抜かすのもスリルがあって楽しいだろうけど、もうよしたらどう? 自分のあるかわからない愛に懸けて弟を作るより、さっさと食って吸血鬼らしく堂々とすることだ。たった一人の獲物も噛めないなんて、お前らしくない」

 壱依は話し終えると三月を離して立ち上がり、自分の役目は終えたと言わんばかりに歩き始めた。

「どうなろうと、俺はお前を見捨てたりしないよ。兄弟だからね」

 と、扉に手を掛ける。

 壱依はそこで振り向き、思い出したように「そうだ」と呟くと、微笑んで囁くように言った。

「三月、夜の間中ずっと楠木陽の様子を見張るのは本当にやめなさい。ストーカーとやらで人間の警察に逮捕なんて、されたくないでしょ? わかったね?」

 言い残して、彼は靴の音を響かせながら立ち去った。

「……はは。何もかもお見通しってか」

 ひとりになったダイニングルームで、三月は独り言つ。

 小瓶の中で大人しくじっとしている僅かな陽の血が、目に留まる。

 

 

 

 午後の講義の全てを終え、図書館に寄ってから帰ろうと思いながらキャンパスを歩いていると、陽を呼び止める声がかかった。

 キャンパス内にある噴水の向こう側から、大きく手を振って大股でやって来るのは、瑛次の姿だった。角がバラバラに重ねられた書類をたくさん腕に抱えていて、走る動きに合わせて、いつも講義の間だけかけている眼鏡が揺れている。

「陽、久しぶり。よかった。追いついた」

「どうしたんですか」

 二人は並んで歩き出した。夕方のキャンパス内にはぽつぽつ人の姿があり、日暮れの明かりが周辺をオレンジ色に染め上げていた。

「三月から聞いたよ。壱依兄さんのところに行ったんだって?」

「はい。行きました。吸血鬼にしてほしいって言いに」

 陽は瑛次の表情を見た。

「壱依さんには、三月に頼みなって言われました。兄になるなら三月だろうからって。兄になるって、どういうことですか?」

「陽を吸血鬼にするってこと。俺にとっての兄が壱依兄さんなように」

 瑛次は慎重に続けた。

「陽。俺もうっかり、君が吸血鬼になれば三月も君を食べようと思わなくなるなんて言っちゃったけどさ……よく考えたことなんだよな? 後悔はしてほしくなくて」

「そりゃあ考えましたよ、もちろん」

「でも陽、吸血鬼になるってことは、人間に戻れないってことだ。正体を明かすわけにもいかないから、家族とか友達とか、人間だった頃に関わってた人とは縁を切らなきゃいけなくて、もう会えなくなるよ」

「そうですよね」

「いいの? それで」

「はい」

 陽はまっすぐ前を見たまま言った。

「瑛次先輩は気付いてるでしょうけど、僕、友達なんていないんです。昔から、親のことが理由でいじめられてたから、ずっと一人で生きてきました。母にもう会わなくていいなんて、こんなに嬉しいこともない」

 陽の聞いたことのない低い声と内容に、瑛次は言葉を失った。

 陽は一瞬隣を見て、瑛次の様子を窺ったが、彼の様子を見て我に返り、取り繕って続けた。

「確かに先輩たちは人間よりも賢くて、体力もあって、五感も冴えてるかもしれませんけど、人間にだって脳はあるんです。ものを考えることができるのは、吸血鬼だけじゃありません。後悔はしませんよ」

「うん……」

 それでも瑛次は釈然としない様子だった。

 それから、陽は瑛次と一緒に彼らのマンションへ向かった(三月の言っていた同居人が瑛次だったことは、瑛次が教えてくれた)。

 三月は相変わらず家から出られないようで、ダイニングルームのテーブルには瑛次用の夕食がすでに綺麗に並べられていた。お腹をさすり、そこにはいない三月に礼を言いながら席でナイフとフォークを持った瑛次をよそに、陽はまっすぐ階段を上っていった。

 久しぶりの三月の部屋だ。しっかり閉められている三月の寝室の扉を、数回ノックする。すると、中から返事が聞こえてきたので、陽はノブを回して戸を開けた。

 部屋に入った途端、時間が止まったような気がした。吸い込んだ息が震えた。先輩、と呟いた声が、吐息に変わって消えた。

 三月はまるで別人だった。

 クッションにだらりと背中を預けてベッドの上に座っていたが、ただのその姿が、時を忘れて見惚れるほど美しかった。宝石のような肌は露をも弾くようで、後ろへ流した髪は発光しているよう。つい先日に見た今にも枯れそうな荒廃からは程遠く、溢れんばかりの活気と瑞々しさと生命力を湛え、人間離れした艶麗さは、そこに存在があるだけで周囲の命の輝きを吸収しているほどだった。

 陽は、いつかの瑛次の「満たされてる吸血鬼は、きっと人間の目で見てもわかるよ」という台詞を思い出した。もしかして、これが、飢えの状態にない三月の姿なのか。

 一体どれくらい放心していたかわからない。ハッと我に返り、陽は三月に近付いた。

「先輩、先輩」

 ベッドに乗り出し、詰め寄る。

「あなたをそんな風にしたのは誰ですか。誰の血を飲んだの?」

 三月は、陽が連絡もなく自宅にやって来たことには全く驚かず、壱依を気にして陽に会わないようにすることもせず、陽の姿を見遣るとゆっくり瞬きをしただけだった。そのたった一つの動作だけでもう、正面から強風の煽りを受けたような衝撃だった。

 三月は陽の耳朶に触れ、指先で弄んでいたシャネルのピアスを穴に通した。

「せんぱ……」

「どうしたの。ぼーっとして」

「っだって、先輩、が……誰の、誰の血を飲んだんですか」

「わからない?」

「え? わかるわけ……」

「いま俺の目の前にいる人間の血だよ」

 と、うっすら微笑む。

「……まさか」

 陽はまた思い出した。

 壱依の元へ行ったとき、研究のためだとか何とか言われ、少量の血液を採取されたのだった。

「ほんの少ししか採ってないのに。あれだけじゃ満腹になんてなれないんじゃ」

「量だけの問題じゃなかったってことだ。それだけお前の血は最高なんだよ。俺にとって」

 三月は身を起こした。

 体勢を逆転させて、陽を仰向けに寝かせてしまう。枕元にあるつまみを回して照明を落とすと、ダウンライトから僅かに降ってくる明かりで、陽の瞳の中に小さな光の玉ができた。三月はそれを気が済むまで眺めてから、彼に口付けた。

 指を絡ませてシーツに押し付け、沈める。それから、着ていたシャツを脱がせて床に放り投げた。

「壱依兄さんがなんでお前にいい顔しないか、よくわかった。兄さんは俺がかわいいんだ。兄弟だから」

「え……?」

「でも、俺だってお前がかわいい」

 三月は、陽の唇から顎、喉、胸元からヘソまで、肌に触れるか触れないか程度の弱さで舌先をつーっと滑らせた。陽はびくびくと体を跳ねさせた。

「っ、先輩、」

「陽。死にたいほど愛してるよ。お前は俺を綺麗だって言ってくれるけど、俺にしてみれば、お前のほうが何倍も綺麗だ。お前を綺麗で、健康なままにしておきたい」

 そのまま、スラックスの上から陽の性器に口付けて、ジッパーを下ろして下着の上からも同様に触れた。勃起し始めたそこが、じわじわ濡れてきて染みを作っている。身につけていた服を全て剥がしてしまって、脚の間に顔をうずめた。

「陽、もっと脚開いて」

 言うと、陽は照れ臭そうにしながらもそろりと膝の力を緩めた。自分の脚の付け根に舌と唇を滑らせる三月を、顎を引いて見ようとする。

 それから三月は陽のペニスを口と指でたっぷり愛撫して、陽の体から余計な力が抜けて声も漏れ出すと、腰にクッションを敷いてさらに開脚させた。下半身が溶けてしまいそうなほど、執拗に快感を与えられる。

「んん……っ、ぅ……、ん、」

 下の階に瑛次がいることが気になっていたので、陽は手の甲で口を押さえた。

「ここ持って。自分で広げて見せて」

 と、三月が尻を押さえるよう陽の手を誘導する。陽は自分の臀部をふたつ両手で持って、左右にぐっと広げて固定した。恥はもうなかった。首に力を入れて三月を見ると、彼はべろっと舌を出して唾液を下に垂らし、陽のアナルをじっくり濡らしているところだった。官能的すぎる光景にくらくらする。

「んんっ……!」

 唇を噛んで声を抑えるが、もう限界に近かった。顎が上がる。

 口呼吸を許してしまうと制御できなくなり、嬌声が勝手に漏れ出した。一瞬にして全てがどうでもよくなった。久々に受ける全身への愛撫はたまらなくて、気が遠くなりそうだ。今、この人と抱き合うことしか考えられない。

 ローションとコンドームのぬるつきで散々に解されて、焦らされて、陽が「入れてください」と懇願するとやっと、三月が奥まで挿入された。

 以前、三月に「お前の体はドラッグみたいだ」と言われたことがあったが、陽にとっては三月の体こそがドラッグだった。初めて行為をしたときからそうだった。正気なんてすぐに溶けてしまう。毒。

 正面から突かれながら手を伸ばして、シーツに手をつく三月の腕を握った。

「先輩……っ、きもち、きもちぃ……っ」

「っは、うん、きもちいな? 陽……」

 腰を止めないまま、三月が口の片端を持ち上げて妖艶に微笑む。

「あーやばい、陽ぉ、もうイっちゃいそ」

「っだめ、だめ、せんぱいお願い、気絶、させないで」

「ん……? 今イったら飛んじゃいそう?」

 陽はこくこく頷いた。

「そう。じゃあ……」

 三月はスピードを落として腰を止めると、陽の背中を抱えて体を起こした。

「陽が動いて」

 よろつきながら、陽は前髪を掻き上げて、座る三月に跨がるとゆっくり腰を落とした。

 最初はゆるゆると動いていたものの、徐々に、陽の首元に顔を埋めて息を荒げていた三月の様子が普段と違うことに気付き、陽は動きを止めた。

 三月の頬に触れる。見上げてくる瞳は燃えるように真っ赤で、薄く開いた唇から上の牙がチラと光っていた。いつの間にこうなっていたのだろう。首がずっと傍にあったから、その皮膚の下の太い血管に魅せられたのだろうか。

 三月は物欲しそうな表情を隠せていなかった。眉根を寄せて切ない表情をしているのがどうしようもなく愛おしく見えて、陽は迷わず囁いた。

「飲みたいんですね? 僕の血を」

 一度知った味を、舌は忘れられない。

 陽は悟った。

 多分、この人の中で僕はもう、餌になった。

「いいですよ」

 いつかこうなることはわかってはいた。わかっていたし、それなりに怖かった。しかし、それでも微笑んでみせることはできた。

 本能が全面に顔を出している赤い瞳の三月には、もう、陽の手が恐怖で震えていることや、緊張で息が上がっていることは、届かなかった。

 首筋に吐息がかかる。陽はぎゅっと目をつむった。

 ぶつ、と、肌が切れた音を聞いた気がした。

「――…っ」

 膝ががくがく震えて、堪えているのがやっとだった。目眩が襲ってきて、一瞬の急な吐き気を乗り越えると、今度は声を我慢できないほどの性的快楽が全身に走り渡った。オーガスムに今にも達しそうで達しないギリギリの快感がずっと続いて、耐えられなくて体が震える。

 声にならない声が脳天を直撃した。掴まっていた三月の肩に爪が食い込む感覚がした。全身から汗が吹き出して、マグマが血管を走っているかのよう。

 直接吸血されると、こうなるのか。壱依に採血されたときは、病院や健康診断などでよく見る注射器のようなもので採られたから、このような感覚は当然なかった。

 ああ。こんな風に死ねるなら、これでいい。愛する人に見つめられながら、命を摘まれる。愛する人の血肉となって現世を一緒に歩めるのなら、それ以上の幸せがあるだろうか?

 譫言のように三月の名を呟く陽の体をそっとシーツに倒しながらも、三月は血を飲むことをやめなかった。喉仏が何度も何度も上下する。

 やがて、陽は息絶えたようにふっと意識を手放した。

 しばらく三月の上がった呼吸だけが寝室に響いていた。

「陽」

 気絶した陽を前にしてやっと正気を取り戻した三月は、慌てて止血してしゃがみこむと、彼の首筋に指を当てて脈を確認した。正常だった。

 どっと安心して、へなりと座り込む。

 三月は額を抱えた。

 こんなことが、これから何度もあるのか。

 こんなことに、これからずっと耐えなければいけないのか。

 しかし本能は誠に正直で、体が、細胞のひとつひとつが、満たされて喜んでいるのがわかった。みるみるうちに頭が軽くなり、視界が晴れ、聴覚も冴えて遠くを走る車のタイヤの音も聞こえる。嗅覚は、もっともっととこちらを誘ってくる陽の血液の甘い香りを捉えて、離さない。

 三月は、自分の手のひらに目を落とした。皮膚を透視して血管が見えるようにさえ感じる。今なら電車に轢かれようが、地上五階から飛び降りようが、へっちゃらでいられる気がする。宇宙の法則を計算できる気がする。

 陽の血の威力は計り知れなかった。これまで百年間、このような人間の血液に巡り会ったことは一度だってなかった。

 だからか、前提や過程を通り越して瞬時に理解してしまったことがあった。自分はもうこの血以外の血は、本当に飲めない。この血しか欲せない。次に陽の肌に口をつけるとき、それをただのキスで終えられるとはとても思えない。

 耐えられるのだろうか。

 静かに目を閉じる陽の横顔を見つめる。

 殺してから我に返ったのでは遅い。

 

 

 

   七  ユダ

 

 

「陽」

 ゆさゆさと肩を揺らされ、陽は眠りから浮上した。

「陽。起きてくれ」

 瑛次だった。

 彼は、陽がまだ寝ぼけているうちに早口で続けた。

「今すぐ来てほしいんだ」

 起こされた場所は三月のベッドだったが、隣には誰も寝ていなかった。状況が理解できないまま、とりあえず服を着て寝室を後にする。瑛次と一緒にタクシーに乗り込んでやっと気付いたが、まだ深夜だった。

 連れて来られたのは、いつか三月や瑛次と一緒に来たクラブだった。まだ人の姿はあり、泥酔した様子の若者が道に座り込んでいたり、歌ったり踊ったりしている集団もいたが、店舗自体は閉店に近付いているようだった。

 正面から入り、瑛次の後に続いて、陽も階段を下りていった。そして、地下二階のクロークの目の前を通り過ぎ、スタッフオンリーと書かれた扉をくぐり抜ける。入っていいものか迷ったが、瑛次に手招きされたので先に進んだ。

 奥へ行くと、人知れないVIPルームの扉があった。そこが開き、部屋の中が見えた。暗く、赤い照明が点っていた。

 陽は、部屋へ入ったすぐの場所で立ち止まった。思わず口元を手で覆う。そこには数人の姿があったが、意識がありそうなのは二人だけだった。ソファーに座ってぐったり咳き込む三月と、心配そうに彼の背中をさするヒスンだ。

 吸血鬼二人の手は真っ赤だった。彼らの足元に転がる人間には、手首や首筋に新しい噛み痕があった。

 ヒスンは瑛次達の到着に気が付くと、急いで駆け寄ってきた。

「なんで連れて来た!」

 と、瑛次に詰め寄りながら、陽を外に出そうとする。

「三月から陽を連れて来るように連絡があった。一体何が」

「いいから今すぐ帰ってくれ。あいつは――」

「陽?」

 部屋の入り口で揉み合っていた動きが止まり、声がツンと抜けてくる。

 三月は、数時間前に陽の血を飲んだことで満たされて、嗅覚や聴覚が冴え渡っていた。

「そこにいるの? 陽の血のにおいがする」

 ヒスンが止めようと伸ばした手をするりとかわし、陽は部屋の奥へと入っていった。ぼんやり赤い暗がりの部屋だったのでわからなかったが、三月はよく見ると、すっかり憔悴した様子だった。髪が乱れて真っ青な顔をしている。

 ついさっきまでの、あんなに溌剌としていた彼はどこへいったのか。この短時間で一体なにがあったのか。

 気を失っている誰かの体を怖々避けながら、陽は三月に近付いていった。近寄ると、三月は弱った笑顔で陽の手を引いて、血で汚れたソファーの隣に座らせた。

 そして、そのまま首に噛みついた。

「先輩……!」

 たった数時間前、愛されながら飲まれたときとは、具合が全然違った。ただ体中の血管がビリビリ痛くて、呼吸困難になりそうなほど苦しい。視界が緑や黄色にチカチカ光って、吐きそうになった。

 ヒスンが駆け寄ってきて、物凄い力で三月を引き剥がした。

「そんな飲み方したんじゃ、この人間が死ぬぞ」

 さすがに、助かった、と思った。どくどく血液が流れ出る首を押さえて、陽は驚いたままよろよろと、三月から距離を取る。

 ヒスンが止血してくれた。彼は陽を離れた場所にあった椅子に座らせると、自身は三月の向かいのソファーに座り、重苦しく口を開いた。

「三月、もしかして」

 と、額を抱えている三月に言う。

「こいつの血しか飲めなくなったのか?」

 こいつと言って差す指が自分に向いていたので、陽は狼狽した。

「えっ?」

「……」

 三月には聞こえていないようだった。頭痛に苦しんでいるかのように、額とこめかみを抱えて動かない。

「閉店直前に急に来たと思ったら、手当たり次第代わる代わる血を飲んで、全部吐いて、それでこいつに対してはそれって。こいつの血しか飲めなくなったから、抵抗してこんなことを? だったらもう手遅れだぞ。いくら他の血を飲もうとしたって飲めない。余計に弱るだけだ」

「僕の血しか飲めないって、どういう……?」

「吸血鬼は」

 ヒスンは、陽のほうを見ようともしないまま、戸惑う陽の声にかぶせて言った。

「人間を愛してしまうと、その人の血しか飲めなくなるんだ」

 つん、と、空気が痛むような沈黙が流れた。

 瑛次でさえも動揺して、目を丸く見開いてぽかんとしていた。

 三月が、頭を抱えたまま力なく短く笑い、

「壱依兄さんの入れ知恵かよ?」

 と言う。

 ヒスンは思い詰めた表情でしばらく黙っていたが、やがて、そっと口を開いた。

「俺も人間を愛してたことがあるから、わかるんだ」

 その瞳はかつての深い情熱を取り戻したかのように、一心に三月を見つめていた。

「もっとも、俺はその誘惑に耐えられなくて、月に一回くらいこっそり血をもらってた。その子が寝てる間に、痛みがないほど細い針を指先に刺して数滴だけ採ってたんだ。飲み干す誘惑に耐えるのはすげーきつくて、理性を保つために自分で自分の腕を噛みちぎったこともあったけど……たった数滴でもすごいんだ、愛する人間の血って。一ヶ月ほかの血を飲まなくてもピンピンしていられた」

 三月がゆっくり顔を持ち上げると、ヒスンと目が合った。

 ヒスンは複雑な表情筋の使い方をして微笑んだ。

「気付かなかっただろ? 指先の小さい傷なんて」

「……は」

 三月が低く掠れた声で言う。

「今さら俺の味方ぶるのはやめてくれ。ヒスン兄さん」

「三月、」

「俺はお前が、俺を食うために人間だった俺を育ててたのを知ってる」

「それは違う。確かに口ではそう言ったけど、俺は――」

「だったら殺してくれればよかった!」

 三月が勢い良く立ち上がったので、ソファーの前に転がっていた人間の形をした影が少し飛び上がった。

「人間のうちにさっさと飲み干して、殺せばよかったんだ。なんでそうしなかったんだよ。俺を愛してたから殺せなかったとか言うなら、俺が刺されて死にそうになるまで待たずに、とっとと吸血鬼にしてくれればよかった。俺の意思を確認する時間はたっぷりあっただろ? 俺はお前を本当の兄みたいに思ってたのに、お前が裏切ったんだ」

「三月、落ち着け」

 瑛次が三月の震える肩を支え、もう一度ソファーに座らせた。そして隣に腰かけ、背中をさする。

「そう単純な話じゃないのは、お前もわかってるはずだよ。ずっと一人で生きてきたお前とは違って、ヒスンは仲間に助けられながら生きてきたんだ。それも異国の地で。大切な仲間と愛する人間との間で苦しんでたのは、簡単に想像つくだろ」

「……っ違う……。そんなことはどうでもいい……終わったことだ……」

 三月は憔悴しきっていた。必死に、陽を視界に入れないようにしている様子だった。

 しかし、口では陽の名前を呟いたり、意識が朦朧としているのか、幻覚でも見ているのか、「俺が、俺が悪かったんだ」とか「陽を連れてきてくれ」とか「もうやりたくない、もういやだ……」などと支離滅裂なことを言っていた。

 蹲って苦しんでいる三月をただ見ていることに耐えられなくて、介抱したくて、陽が一歩近寄ると、瑛次がそっと首を横に振って見せてきた。

 そして、彼は親友に向かっていっそ優しげに言う。

「三月。お前、もう無理だろ」

「……」

「どこかで観念しないと、お前も陽もだめになる」

「……」

「三月」

「……」

「俺が陽を吸血鬼にしようか」

「瑛次」

 静かに呼ばれた声に瑛次が振り向くと、いつの間にか、部屋には壱依の姿があった。

 彼は重そうなブラックのコートを着込んで、すっかり外出用の準備が整った姿をしていた。腕を組んで、扉を背中で閉めながら、ゆっくりと首を横に振る。

 しかし今回ばかりは、壱依相手とはいえ瑛次も折れなかった。

「無害な人間が一人死ぬより、吸血鬼が一人生まれるほうがましです。こんな状態の三月に陽を近付けたら、すぐ飲み干すに決まってます。だったら俺が」

「お前らしくないね、瑛次。あんなに人間を吸血鬼にすることを嫌がってたのに」

「今回の話は別です。このままじゃ三月が陽を殺すか、陽を食うのを我慢した三月が死ぬことになる。それに、陽も仲間になることを望んでるんです。それならどっちかが死ぬ前に……」

 瑛次が言葉を止めた。

 何かに気付いたように、目を見張る。

「……待ってください」

 ただでさえ白い顔をさらに青白くして、低く言った。

「もし三月が陽を飲み干して殺したとして、そのあともずっと三月が陽を忘れられなかったら、三月はどうなるんですか。飲める血を持つ人間がいなくなったら」

 沈黙が流れた。どこか遠くで走る救急車の音だけがしている。

 三月も顔を上げて、縋るような目で壱依を見た。

「気付いちゃった?」

 壱依はわざと軽い調子で言った。

「だから人間には近付きすぎるなって散々言ってきたんだよ。どっちにしろ身の破滅なんだ。最悪ふたりとも死ぬんだから」

「でも、僕が吸血鬼になれば、先輩は……僕は……」

 と、陽。

 壱依は頷いた。

「吸血鬼同士で愛し合ってる仲間ならたくさんいる。それと同じになるだけだよ。ヒスンだって同じ立場だったでしょ。三月を人間の頃から思ってたけど、吸血鬼になったあとも何も変わらなかったはずだ」

 そう言われ、ヒスンはこっくり頷いた。

「俺は三月を吸血鬼にした瞬間、他の人間の血が欲しくなって飲めるようにもなった。多分、同じようになるだろう」

「三月先輩」

 陽は三月のほうに向き直り、必死に言った。

 立ち上がって背後に来ていたヒスンに、これ以上三月に寄らないようがっちり腕を押さえられていたが、どうでもよかった。

「僕を吸血鬼にしてください。僕だって、意味がわからないまま吸血鬼になりたいなんて言ってるわけじゃない。これは僕の意思です」

「そんな意思、聞いてらんねえよ」

 三月は苦渋に満ちた話し方をした。

 陽は言い返した。

「先輩だって、人間だった頃、ヒスンさんの仲間になれるんだったら吸血鬼になりたいと思ってたんでしょう?」

 三月が息を飲んだのが聞こえた。

 陽の声が震える。

「だからさっき、意思を確認する時間はあっただろって言ったんだ。それなら僕の意思だって無視はできないはずです」

「お前が人間の人生を捨ててまでそうする必要がある?」

 今度は陽が息を飲む番だった。

「そういうこと……? 死にたいほど愛してるって、僕を綺麗なままにしておきたいって、そういう意味だったんですか? あなたが僕のために餓死するのを、僕が喜ぶとでも思ったんですか? それで、先輩のいない人間としての人生を、僕が幸せに生きていけるとでも? あなたをすっかり忘れて?」

「それに、吸血鬼にされるのは、血を吸われるのとはわけが違う。毒を全身に回さなきゃならないからすごく痛いし、苦しいし、なにより、俺がお前を飲み干すかもしれない」

「覚悟の上です」

「頼むよ、わかってくれ。陽……。俺の牙を見て、それでも愛してると言ってくれた人間はお前だけだ。同じ思いをさせたくない……」

「でも、同じにしてくれないと、もう傍にいられないんです。あなたが死ぬなんて、僕が耐えられない。そうなったら僕はすぐに後を追います。あなたは僕を吸血鬼にしない限り、どちらにしろ僕を殺すことになるんです」

「人を惑わせて騙して食うたびに人でなくなる、あの苦しみを、お前にも味あわせろと? 俺の手で?」

「だったら苦しまないやり方を、先輩が僕に教えてください。やさしい血の飲み方を」

「……そんな……でも」

「そんなに僕を仲間にしたくないなら、あなたに出会う前の僕に戻してください。それができるならの話ですけど!」

 陽は今にも泣き出しそうだった。悲愴にも聞こえる声でそう言うと、三月はついに、長いため息をついた。

 もう大丈夫だと、陽は思った。ヒスンや瑛次もそう感じたのか、ヒスンは陽を摑まえていた手からすうっと力を抜き、背を軽く押してソファーのほうへ近寄らせ、瑛次は三月の隣のスペースをひとり分、空けた。

 陽はゆっくり、三月の隣に腰を下ろした。

 乾いて固まってきた血液で汚れた三月の手に触れて、顎に一本垂れていた赤色を拭った。すっかり下りている前髪を指先で避けて、目を合わせる。三月のルビーの目は潤んでいた。

「なんで出会っちゃったんだろ」

 三月は笑った。

 細かいシワの寄った目尻から透明の液体がつうっと伝って、頬へ滑った。赤い虹彩から透明な液体があふれ出てくるのが不思議で、呪われたように美しかった。

「ごめんな。陽……」

 謝らないでほしかったが、謝らないでくださいと言うのも違うと思った。

 それなので、されるがままの三月をただ抱き寄せる。

「あなたはもう、僕がいないと生きていけないんですから」

 それは「僕はあなたがいないと生きていけない」に同義だったし、「あなたは僕がいないと生きていけない」だって、何も他人の感情に対して確信を持って言ったわけではもちろん、なかった。

 しかし、背中に回ってきた三月の手はあたたかく血が通っていて、もうそれ以降、彼が動物のように牙を剥いてくることは二度となかった。

 そのとき、バーンと大きな音が響き、扉が勢い良く開いた。

 理人だった。

 前髪を全開にして息を切らし、そこに立っていた。彼は、思っていたより多くの人物が揃っている状況にびっくりした表情をしたものの、すぐに鋭く告げた。

「ここがバレました。朝には警察がここに来ます。証拠を消して逃げてください」

 それを聞くと、ヒスンはすぐさま立ち上がった。そして、すぐに部屋から出て行きどこかへ向かった。

 瑛次はズカズカと部屋の奥に踏み入るなり、壁に埋め込んである冷蔵庫を次々に開けて、中に陳列されていた血液の瓶をひとつ残らず鞄にしまい始めた。

「なんでバレたんだ?」

 慌ただしくしながら瑛次が怒鳴る。

「ヴァンパイアハンターが警察に情報を漏らしたみたいです」

「ハンター? お前……?」

「まさか、違います!」

 理人も手伝いながら声を上げた。

「僕は吸血鬼になりたいんだって、何度も言ってるじゃないですか! この件は、僕を勧誘に来たハンターが話してるのを聞いただけです。あいつら、先輩たちの居場所を突き止めたからって警察にすぐ告げ口したくせに、自分たちはリーダーに知らせたらすぐに突撃するって言ってました。だから知らせるために、僕が急いでここに」

 展開についていけない陽は、ソファーに積み上がっていく鞄を落ちないよう支えながら、瑛次に聞いた。

「どこかへ行くんですか?」

「うん」

 瑛次が答える。

「俺たちは人間に知られちゃいけない存在だからね。こうなったら毎回、ほとぼりが冷めるまでしばらく海外で姿をくらませるんだ」

「海外? しばらくって、どのくらい……」

「数十年かな」

 理人が、壱依のほうを振り向いた。

「警察は朝頃になるでしょうけど、ハンターは今まさに動き出しているはずです。すぐここへ来ます。皆さんは逃げないと」

「逃げないよ」

 壱依はそう言い、立ち上がった。小綺麗に着込んでいた上質なコートを脱いで、なんとも優雅にハンガーに肩部分を通してから、入り口付近に配置されていたラックに引っかける。

「ハンターは人間の警察とは違う。俺たちの種族の根絶のために本気で殺してくるんだ。戦うしかないんだよ」

 部屋を片付け終えた瑛次も、同様に体を動かす準備を始めた。

 ついさっきまで弱り切っていた三月が、いつの間にかしゃんと立って真っ直ぐに陽を見つめていた。

「ちゃんと見てて。陽」

「え……?」

「本気で仲間になろうと思うなら、これから俺たちがすることをちゃんと見てて」

 何を、と思っていると、開け放したままの扉の向こうから、数人の足音が駆けて来るのが聞こえてきた。慌ただしい叫び声。鈍い打撃音と、人の呻き声も伸びてくる。それから銃声さえした。応戦しているのは、まさかヒスンだろうか。

 まず動き出したのは瑛次だった。膝をバネにして力強く走り出す。目にも留まらぬ速さで動くのを必死に視界に捉えようとしていると、横から誰かにぐいと腕を掴まれて、肘掛け椅子の影に隠すように体を押し込まれた。

 三月だった。彼は陽を安全な場所に退避させ、すぐに走り去った。

 慌てて、椅子の影から部屋の中のほうへ目を向けると、そこではすでに死闘が繰り広げられていた。

 ハンターの誰かしらが持って飛びかかった槍のような長い物を、壱依が奪って折り、背中を蹴り落とす。その手前では瑛次が、首を絞めようとしてきたハンターの腕に噛みついていた。心臓を貫こうと振り上げられた杭を、ヒスンが身軽にかわす。陽以外の血を飲めない三月は、脚を回して蹴ってハンターを倒し、攻撃のために噛み付いては肉片をプッと吐き出し、次の獲物に取りかかっていった。部屋の四方の壁が鮮血で汚れていく。人の姿をした物体がいくつも倒れ、床に伸びた。

 息を吸い込んだ喉がひゅうと鳴った。こんな光景は、これまで映画でしか見たことがなかった。映画での表現ですら苦手だった。しかし、目をそらしてはいけないことを、陽は重々わかっていた。これから飛び込もうとしている世界は、まさにこれなのだ。

 恐ろしい。むごい。苦しい。逃げたい。

 叫び出しそうな口を手で押さえて、涙腺が壊れたようにだらだら流れる涙で咽せながら、陽は精一杯呼吸だけをし続けた。隣に来ていた理人も肩で息をしながら、しかし、ひとときも目をそらさなかった。彼の場合は、見慣れている部分もあったのかもしれない。

 永遠に続くかと思われたその時間は、あっという間に終わった。部屋が再び静かになったとき、ハンター側は誰ひとり立っていなかった。

「この死体はどうする?」

 と、飛び散って手についた誰かの血を舐めながら、瑛次が言う。

「血液だけ集めたいけど、時間がないな」

 すると、少しだけ呼吸を乱したヒスンが言った。

「俺が片付けるよ。店があるからどうせここに残るつもりだったし。お前らは警察が来る前に早く逃げろ」

「ヒスン」

 三月が言う。

 ヒスンは、自分の名前を呼んだのが三月だと気付くと、くしゃりと笑って肩を叩いた。

「どうせまた会えるだろ。五十年後くらいかな」

 そしてヒスンは、三月の背後、数メートル離れた壁際で座り込んでいる人間のほうへ視線を投げた。

 促された三月が振り返った。

 陽と視線が絡み合う。

 理人がじっと見上げる中、陽は立ち上がり、血の溜まったほうへ歩き出した。靴の底に、まだあたたかい血液が染みてくる。雨上がりの午後のように、ぴちゃぴちゃと軽快な音が鳴る。このむごすぎる惨状に不釣り合いなその音が、きつく心臓を締め上げるようだった。

 一直線に進む先には三月が、返り血を服の方々に散らした姿で待っていた。

 濃厚な赤色を口元から胸あたりにまで伝わせて、向かってくる陽を静かに見つめたまま、血溜まりの中心に立っている。背中に黒い翼が見えるようだった。もがれて傷になっているはずのそれが、カラスの羽が舞うように周囲に黒色を降らせて、ゆっくり羽ばたいている。

 この悪魔について行ってしまって良いのか、立ち止まって考える時間はあった。いくらでも引き返す機会はあったはずだった。一度落ちてしまったらもう二度と戻れない予感が、ずっとしていたのだ。だってこの人の瞳には毒があった。出会いをなかったことにするには、この因果性の中であまりにも存在が強烈で、寂寥的すぎた。

 陽は足を止めなかった。

 ぼうっと妖しく光るルビーの瞳が見える位置まで近付き、悪魔をぎゅうと強く抱きしめた。

「一緒に行きます」

 しぼり出した声でそう告げる。

 それを聞いた三月は、一度深呼吸をして体を離すと、泣き出しそうな顔で陽にキスをした。

 そのまま唇を下へ滑らせる。三月の唇と歯を汚していた血液が陽の顎に、首筋に伸びて、そこを汚した。陽は目を閉じた。後頭部を後ろに倒し、喉を反り返らせる。三月は牙を立てて、思い切り、陽の動脈に噛みついた。

 陽が大きく息を吸う。

 両肩がびくりと大きく跳ねた。

 瞬時に息が上がる。すぐに痙攣し始めた。

 陽は血管を中から針で刺すような全身の痛みと、悪寒、三半規管が狂ったほどの目眩と、脳が急激に膨張して中から頭蓋骨を割りそうになっているかのような頭痛に襲われた。心音だけがやけに落ち着いているのを感じ、気持ちが悪くて吐き気がした。どくどくどくと鳴っていた鼓動が、次第に、と……、と……、と遅く弱くなっていき、このまま心臓の動きが止まるのではないかという耐えられない恐怖に陥った。指先まで痺れてきて、筋肉に力が入らなくなってくる。自分が叫び声のような呻き声のような、悲痛な声を出しているのはわかったが、何をどうすることもできなかった。

 三月は、立っていられなくなった陽の体を、支えながら床に横たえた。その間も、首に噛みついたまま決して離さなかった。

 真っ赤な髪が汗でぐっしょり濡れる。こめかみから汗がにじみ、垂れる。ぐっと眉間に寄ったシワにも汗が伝い、睫毛に伝った。ごく、ごく、と嚥下音が鳴る。陽の爪が三月の背中に食い込んで、血を流させた。

 やがて、その爪がふっと落ちていった。

 陽は全身から力を失い、失神した。

 十分そうしたと判断した三月は、陽の四肢をゆっくり床に下ろして噛み痕を塞ぎ、止血した。全力疾走してきたかのように、呼吸が荒くなっていた。頭部を金槌で叩かれるような頭痛が引かず、吐き気がする。

 ふらついて仕方ないので、陽の横たわるすぐ傍の床に手をつくと、そこに溜まっていた血液で手の平が濡れた。目眩のひどい視界で見てみれば、陽の髪は血に浸っていて、グラデーションのように先端が血の色に染まっていた。

「あの子は還ってきたんだね」

 遠目に二人を眺めていた壱依が、顎に手を添えてその目を細めながら、隣にいた瑛次にしか聞こえない程度の声量で呟いた。

 瑛次はその横顔を見た。

「あの子は、なんですって?」

「ううん」

 壱依は瑛次に話しているというより、その場にいる見えない誰かに思考の方向性を確認しているかのように話し続けた。

「俺には変化させることも、抵抗することもできないんだ。こうなるのは、もう在ることだったんだから。あの子も感じていたのかもしれないね」

「……壱依兄さん?」

「瑛次」

 壱依は不可解なほどすっきり微笑み、言った。

「あとは理人だね」

「それはつまり、理人のことも仲間にしろと?」

「あの子、もう成人したんでしょ?」

「はい」

「じゃあ早めに。ハンターを殺す手間は少ないほうがいいからねえ。それに、三月は今後しばらく、つきっきりで陽の教育係をやるだろうし、今から日本を離れるとなると人手は多くあって困らないよね」

「あの子は俺がやります」

 瑛次はすぐ応答した。

「理人は俺のせいで吸血鬼になるって決意したんだ。俺が兄になるのが一番理にかなってる。それで、五人で出発しましょう」

 壱依は満足そうに頷いた。

「三月」

 出発の合図を言おうとして三月を振り向いた時には、彼はすでに苦痛の時間を乗り越えたようだった。しかし、さっきまでと同じ格好のまま、倒れている体を見つめ、地面に手を突いていた。

 陽が気がついたのだ。

「陽」

 ゆっくりと、重い瞼が上がる。

 そこから覗いた濡れた陽の虹彩は、じんわりと充血したような赤に染まっていて、何度か瞬きを繰り返すうちにそれはどんどん透き通っていった。燃えるルビーだった。

 彼はしばらくぼんやりと天井を見上げていたが、やがて頭ごと横にずらして、自分を覗き込む姿を捉えた。

「気分はどう?」

 三月が聞く。

 陽は何度か唾液を飲み込み、口内の細胞が何を欲しているのか探るように舌を動かした。

 そして、薄く微笑む。

「喉が渇きました」

 

 

   八  ゴーン

 

 

 電気自動車が音もなく通り過ぎたところに、一台のオープンカーが一時停車していた。どこかの国の車種の真っ赤なボディの運転席には、サングラスをかけた二十代半ばほどに見える青年が座っている。彼は神経質に貧乏揺すりをしながら、まだ買い物から戻ってこない親友を今か今かと待っていた。

 助手席では、彼と同じ年代くらいに見える青年が、リクライニングを倒して脚を上げた格好で、退屈そうに瞼を下ろしていた。薄い唇を少し動かし、何かの曲を小さく口ずさんでいる。彼もサングラスをしていたが、こちらのほうが色が薄かった。

「遅いな」

 運転席のほうが言う。

 すると、助手席で寝転んでいたほうがふっと脚を下げ、軽く体を起こしてにっこりした。

「そんなにイライラしないでください」

 と、ハンドルを叩いていた指の上に手を重ねる。

「東京は三十年ぶりですよ。誰だって観光したくなっちゃいます」

「俺だって見て回りたいんだけど」

「後でゆっくり行けばいいです。夜になったら壱依兄さんも連れて行きますか」

「夜?」

 と、運転席のほうがニヤリとする。

 彼はハンドルに手をかけて少し身を乗り出し、助手席のほうの彼に軽いキスをした。

「夜はだめだろ。お前は俺と一緒にいて一晩中忙しいんだから」

「わかってますよ。そういう意味じゃなくて、日が沈んだらってことです。あの兄さんは日に当たれないから」

 助手席のほうの彼が、爪が少し伸びたままの指で運転席のほうの男性の唇をなぞった。

「それに、夜を一回逃したところで痛くも痒くもないでしょう。僕たちに何度それがあるか」

「何百回、何千回?」

「永遠って言ってください」

 ふふ、と笑って、運転席にいる彼がもう一度口付けようと首を伸ばすと、助手席のほうがさっとそれを避けた。

「ああほら、戻ってきた」

「陽、意地悪するなって」

「意地悪じゃないです。もう行かなきゃならないから」

 助手席のほうの彼はそう言い、やっと姿を見せた男性に向かって手を振った。

「瑛次せんぱーい!」

 買い物袋を大量に引っ下げた、背の高い男性だった。彼は車を目指して歩きながら、呼ばれたことに気付くと、にっと笑って手を挙げた。

 抱えていたたくさんの紙袋を車の後部座席に積み上げる様子を眺めて、運転手の青年がやれやれと首を振る。

「そんなに山ほど、何を買ったんだよ? また片付けの手間が増えるな」

「まあ、正直言うと、三月が片付けを手伝ってくれると見越して買ってるところはある」

 紙袋でぎゅうぎゅうになった座席に無理やり尻を収めながら、彼は笑う。助手席の彼も笑う。そして最後に、運転席の青年も笑った。