しじまの指(2024)

 家を建てる場所について相談しているとき、二人同時に「山のてっぺん」「海のそば」と言ったものだから、中間を取って林に囲まれた湖の畔に平屋を構えた。

 インテリアはおまえに任せるよ、おまえのほうがこういうのセンスあるだろうし、と言っていたはずのソラだったが、ハヌルが決断する瞬間になぜかいつも隣にひょっこり現れて、その材料はアレルギー反応がうんたらだとか、経年劣化が綺麗なのはそっちだとか、あれやこれやと口を出すものだから、結局いつも通り中間を取ることになった。

 はたして完成した家は、黒やグレーを基調としたシックな雰囲気の中二階つき平屋一戸建てで、フィリップ・ジョンソンのグラスハウスを彷彿させるガラス張りの造りをしており、ハヌルは「映画『メッセージ』に出てくる家みたい」と嬉しそうだった。

 車を持っていないと少々不便な、市街地から離れた軽い丘のうえに、その家は建っている。車庫は家とは別棟に建っていて、二車線道路から入ってそのまま駐車できるよう、余裕を持った造りになっている。

 道路側に面した玄関は小振りで、中へ入ると、そのままひらけたリビングへ繋がっている。背丈以上ある窓からはいつでも湖を眺めることができて、部屋中の明るさが天気に大きく左右される、自然と共存しているような建物だった。

 奥へ移動すると、静かに炎を揺らす電気暖炉がある。それさえも真っ黒で、ほとんどの調度品が黒かグレー、ソファーからベッドまで黒で揃えていた。

 玄関の正反対に位置する大窓から外に出ると、湖をぐるりと囲む木々から、葉のこすれるさやさやという音が響いてきて、読書や昼寝にもってこいの環境がある。波のない水面は常に穏やかに揺れていて、ときおり葉を浮かべて、エメラルドブルーだったりグレーだったり様々な色に染まりながら、たおやかに佇んでいた。遠くには山々のゆるやかな峰が低くあり、空との境界をぼかしていた。林の行く先には森がある。雲が太陽を覆いがちなせいで、風景には大体ざらりとした灰色のフィルターがかけられていて、切ない情景になっていた。

 静かな家だった。見た目も音も。ソウルの喧騒に疲れた自分たちには、休息の場として申し分なかった。

 三十代に突入して、二十代の頃同様しゃかりきに働き続けている。

 ソラは基本的に在宅で仕事をこなしていて、作詞作曲プロデュースときには指導、あるいは執筆をし、インタビューや対談や講演など、まれに現場に赴くこともあるものの、ほとんどインターネット経由のコミュニケーションで全うしていた。

 音楽領域を専門とする芸能事務所に所属していて、現在はそこお抱えの音楽家、プロデューサーを務めているが、外部からの依頼を個人的に受けることも当然あるので、仕事の種類は多岐に渡った。しかし出不精な性格もあり、人前にはまず出ない。

 ハヌルは真逆だった。世界中を飛び回っているという表現がこんなに合うアーティストも他にいないくらい、地球の端から端まで飛んで歌とダンスを届けている。だからあまり家には帰ってこない。

 関わる形は違うものの、音楽は二人の強い共通点だった。

 思えば、出会いだって音楽の場だったのだ。

 ソラが曲を提供した歌手が、フィーチャリング相手にハヌルを抜擢したことが発端だった。その頃のハヌルはまだ世に見つかっていなかったから、さすがのソラも彼を知らず、どれどれとなんの武装もなく収録現場へ顔を出し、無防備に歌声を聞いてしまったのだ。

 後悔という言葉が最もしっくりきた。この声帯を知らずに生きてきてしまったこれまでの人生への後悔だ。

 走馬灯のようなものがあった。あの曲はこいつにあげるべきだった。あのサビは泣く泣くキーを下げてあの歌手にあげたりせずに、あのままこいつに歌わせるべきだった。あの歌詞はこいつに叫ばせればよかった。……。

 次にソラを襲ったのは焦りだった。

 こいつはなんでこんなところで燻っている? 大衆はなぜ今この瞬間も、このとんでもないものを知らずにのうのうと安い音楽を聞いている? この才能を羽ばたかせるべきプロデューサーはどこにいる?

 ――俺か。

 ソラは一介のレコーディング室で雷に打たれた。

 ここにいる。

 俺だ。俺しかいない。

 当時のハヌルはまだ幼く、つい先日まで小さなアイドルグループの練習生だったこともあり、緊張しいで人見知りをよくした。だからなんだかぶっきらぼうな初対面のプロデューサーに見初められて名前を聞かれても、ボソボソと本名を名乗るくらいが関の山だった。

 ソラはまるで、狙った獲物を見る目をしたネコ科の動物のようにじっくりと、おまえ、歌い始めて何年だ。と聞いた。

 ハヌルはまんまるの目だ。に、二年くらいです。二年? ソラの眉間が迫る。ボイストレーナーは誰だ? 誰もいません、独学です。嘘だろ、じゃあ、おまえなんでこんなところで歌ってる、おまえ、自分がどれだけなのか自覚してるのか。な、なんのことでしょうか。ああもどかしい、事務所はどこだ、おまえさえ良ければおまえのために曲を書きたい。

 それはプロポーズに等しかった。ソラを知る者なら誰だってそう言っただろう。ワンフレーズだけでも書いてほしくて毎日世界中から連絡がくるのに、無名の若者にそんなたいそうな宣言をしてしまって、もう世間は後には引けない。

 そうしてハヌルは、当時構想されていたアイドルグループから一人抜け、ソロの歌手としてデビューが決まった。事務所も移籍することとなった。

 ソラは、いつか歌える誰かが現れたときのためにと眠らせておいた曲のストックの中から、とっておきの秘蔵っ子を引っ張り出してきて、その荒削りのメロディーラインとビートを丁寧に磨き上げて、ハヌル本人と会話を重ねながら生の歌詞を書いて、レコーディング時にはずっと現場にいて、なにからなにまでプロデュースした。最高の音楽を韓国のみならず、米国のチャートにまでランクインさせた。

 幸いにしてハヌルは、声帯以外の多くの部分にもカリスマ性があった。世間は彗星のごとく現れた歌手に度肝を抜かれた。

 そこからの数年間はハヌル当人にとっても、ハヌルにずっと曲を書いてきたソラにとっても、電光石火の出来事だった。

 ふと気がついたら、韓国へ移住してから十年もの月日が経過していた。

 人生の転機はそんな節目に訪れたのだ。ソラは十八歳の頃に母国を去ってきたから、そう、あの夜にはほとんど三十歳になっていた。あの晩は家でひとり、ホットワインをのんびり楽しんでいたのだった。

 零時に近かった。ハヌルが急に電話をしてきて、今すぐ会いたいですと静かに言った。彼が突然連絡を寄こしてくること自体は珍しくなかったものの、時間が時間だったので、何事かと身構える。

 彼はそれからすぐに、ソラが当時住んでいたソウルは聖水洞のマンションにやって来た。外は雨だった。玄関先に出たソラはシャワーを浴びたばかりだったので、ほかほかに清潔な体で湿気を含んだじんわりと水臭い外気を浴びて、早く玄関閉めたい、と思った。

 そのとき、肩を濡らしたハヌルがその場で告げたのだ。

 約束をください。お互いこんなに忙しくて、僕はすぐ不安になります。だから僕があなただけというあかしをください。

 ハヌルはそう言った。あかしという言葉がしっかりケアされた唇の間から漏れ出てきたのを見て、ソラは、こいつもまだまだ子どもだな、と自発的に思った。

 彼がゲイであることは、ずいぶん前に本人からカミングアウトを受けていたので知っていた。ハヌルは「あなたはきっとずっと僕の面倒を見てくれるだろうから、知っておいてほしいんです」と前置きして、ぽつりと告げたのだった。数年前までは彼氏がいたことも聞いていたし、その彼と別れたときに、一大決心をしたかのような目でソラに報告してきたことも覚えていた。

 後になって思えば、あのときの決意の表情は、自分はもうソラしか想わないと心に決めた顔だったのだ。ソラは雨の深夜の玄関先で、静かにそれを納得した。

 なんで俺がおまえを縛る約束をおまえにしなきゃいけないんだよ、そんなものいらないし、おまえが俺だけでありたいのなら勝手にそうあればいい、俺がなにかを約束する必要はない。そう断る返事を聞いてもハヌルはしばらく受け取らず、いじけたような口先でなにかいいふうの返事をねだった。

 かわいかった。ほら、年下過ぎるだろと言い訳をした。自分に。

 正直に言うと少し怖かった。ハヌルを楽器だと思っている自分がどこかにいそうだったからだ。それを見つけてしまうのが怖かった。

 それに、チェ・ハヌルはこの世界にとって、ただのチェ・ハヌルだけではもうなくなっている。グローバルなファンを大量に抱えたスターは、ともすれば、たったひとつのちっちゃい恋愛だけでそのキャリアの崩壊を迎えることすらある。ソラは、自分がそこの部分の責任を持てる自信がなかった。

 たとえハヌルに惹かれていることが事実だと認めるにしても、付随する恐怖は並大抵の重量ではなかった。

 それに、堂々と僕はゲイですと言えるハヌルに対してソラは、自分のセクシュアリティに明確な名前をつけることができずにいたから、ハヌルへのなにか、彼の世界を壊さないためならなんでもしようという忠誠に似た荘厳な気持ちに、好きだとか愛だとかきっぱりとした名前を認めることに、違和感があった。名前をつけようとすると怖くなり、向き合わないことで逃げ続けていた。

 ハヌルの情熱は、ソラのそんな恐怖をずいずい上回ってきて、楽器でもアイドルでもないたったひとりの人間の姿で、あなただけですと何度でも言った。

 鍵盤を叩いていても、ヘッドフォンをしていても、ギターを弾いていてもやって来て、あなただけですと何度でも言った。雛が最初に見た動物を親だと認識するのと同じではないかと言い返した。なんとかという先輩アーティストに心酔しているのとなにが違うんだと言い返した。そもそも俺たちは忙しすぎる、そんな暇なんてないと言い返した。

 そうやってソラがいちいち張る予防線を、ハヌルは指先で一つずつ器用にほぐして、ほどいていって、気付いたときには二人は指を絡めていた。

 許したのはたしかにソラだった。それで、湖畔の約束の地が建ったのだった。

 

 

 

 どこまでも静かな自宅でひとり、音楽作業をしていると、たまに、自分が外界から隔離されてこの国にひとりぼっちになってしまったのではないか、と心から疑う瞬間があった。

 例えば月のない宵、機材に向き合って作曲作業をすることに疲れ、気晴らしにリビングの中央に置いてあるグランドピアノの前に座ると、ぽーんという素直なピアノの音がどこにも、誰にも反射せずにそのままどこかへ消えてしまいそうに思える。

 例えば青く曇った日の日暮れ、四角いこの家が、家ごと湖に沈んで底をただよっているような錯覚に陥る。

 耳元で、ぶくぶく、ごぽごぽと音がする。透き通った輝くブルーに部屋が染まり、ソラの視界の端を、潰れた楕円の泡が次々にのぼっていった。重力が消える。体が椅子ごと浮遊する。見上げた天井には水面に当たって揺らめく太陽光が見えて、その模様が綺麗で切なくて、弱々しく手を伸ばした。

 すると、ピアノの上に置いておいた携帯電話が一瞬震え、通知を光らせた。

 深海の世界だったリビングが、スイッチを切ったように現実に戻った。

「もしもし」

 何事もなかったかのように仕事の電話に出る。そうやってソラは生きている。

 その日は、トイレットペーパーが切れそうだったので、愛車で出かけて買い物をした。

 久しぶりに浴びた外気は空気の層が厚く、重く感じ、一歩進むたびに踵が道に埋まるようだった。日頃から自宅の全館空調に甘えて過ごしているから、余計に全身にずっしりくる。

 買い物途中にファンに遭遇して、彼のスマホケースに油性ペンでサインをしながら、「俺の名前だけじゃなくて顔まで知ってるなんて、通だな」とぼんやり思った。少し音楽の話でもしたかった。

 帰りに映画館に寄ってレイトショーを楽しみ、良い気分で帰宅をしたら、普段はない虹色のスニーカーが、玄関にてんと放り出してあった。

「…………」

 かちん……と数秒固まる。

 それから、ズズズ……と靴の底をコンクリートの床にこすって、もたつきながらクロックスを脱いで、スリッパに履き替えた。

 もしかしてと思った。唾液を飲む音と一緒にゆっくり部屋に入ると、アイランドキッチンの横で、電気もつけずに立ったまま飲み物を煽り、なにかを食べているハヌルがいた。

 数ヶ月ぶりに肉眼で姿を見た。少しふっくら――ふっくらというよりあれは、筋肉か? おおよそ一生懸命トレーニングに励んでいるのだろう。――したように見えた。

 ダンスの練習後なのかスポーティなシャツをゆるく着て、セットされていない髪をくしゃくしゃに跳ねさせていた。

 物音でソラの帰宅に気付いたハヌルが、もぐもぐしながら顔を上げる。

「あー、ヒョン(※1)。このカップ麺にお肉入れたいんですけど、牛ありますか?」

 昨日もここでご飯を食べていましたみたいな感じで話しかけてくる。

「……ちょうど今買ってきた。焼いてあげるよ」

 ソラはそう言ってとぼとぼ近寄った。動揺を見せないのはお手のものだ。

 キッチンテーブルに買い物袋を置いて、底のほうから肉を取る。

 フライパンを握ってIHの前に立つと、ハヌルがふらりと横に来て、ソラの頭を軽く撫でた。

「元気でしたか」

 と、頬に触り、頭を擦りつけてくる。

 犬と思った。

「ん」

「報道、見ました?」

「なんの」

「僕の」

「おまえの? どの?」

 ハヌルは言葉では答えず、ポケットから携帯電話を取り出して、指紋で少し汚れた画面をぐいと見せてきた。

 数日前から世間を賑わせているスキャンダルの記事だった。ハヌルと某女性俳優が付き合っているだの同棲中だの結婚間近だの、うんたらかんたら、見出しだけ見てスマートフォンの端末を手から離したから、ソラは詳細を知らない。

「何も言わないんだ。それが答えってことですか?」

 ハヌルは言い、熱せられて溶けていく肉しか目に入れないようにしていたソラの視界にずいと侵入してきた。伸びた前髪が海面のようにキラキラした深い瞳に重なって、ちょっと刺激を緩和させていた。

 しかし眩しいことには変わりがない。ソラは意識的に肉に集中する。

「ここに来るまでの飛行機で、あなたがどんな反応をするか予想するゲームをひとりでしてました。第三位は、このニュースを小馬鹿にして『ハッ』って笑うヒョン。準優勝は、無表情で『なに、おまえあの役者と結婚すんの』って聞いてくるヒョン。優勝は、全部無視して俺はなにも見なかったみたいにするヒョン」

「残念だったな。どれも当たらなくて」

「優勝のヒョンがなんか言ってる」

「肉が焦げる」

 手でしっしと払うとハヌルはすごすごと退いて、鼻歌をふんふん言わせながら箸を二膳用意した。皿も二枚。

 それからテーブルに並べて麺もよそって、あとは肉を待つだけの格好になると、突然がばりとシャツを脱いで上半身だけ裸になった。暑いらしい。ソラが肉を分けてからチラと見ると、知らないタトゥーがまた増えているのが目に入った。

 どれだけ離れていても、「ちゃんと食べてるかな」とか「ちゃんと眠れてるかな」みたいな心配はない。

 それなのに、今日も無事に生きて彼自身の人生を全うしていることが嬉しくて、というか普段も自分の人生に夢中だから相手が気になって何も手につかない、みたいなことはないけれど、こうして久しぶりに再会するとあーと思うところもあって、今日はここで寝ていくのか少し気になった。ソラは自分の指先をもじりといじる。

 これを伝えるべきか考えていると、焼きたての肉を頬張ったハヌルが、ふは、と笑って鼻の付け根にシワを寄せた。

「疑いもしないんだから。動揺くらいはしましたか?」

 馬鹿か。するか。……したけれど。

「ハヌラ(※2)、ところで」

「今日はここで寝ていきますね」

 こんなやつに敵うわけがなかった。

 

 

 

※1 韓国語で「兄さん、お兄さん、兄貴」の意。男性が兄や親しい年上の男性を呼ぶ際に使用する。

※2 親しい間柄の相手の名前を呼ぶ際、名前の語尾に「ア」や「ヤ」をつける(または音を変化させる)。「ハヌリ」のように「イ」の音をつけ、口語調で言いやすくしたりその場にいない人の名前を言い表したりすることもある。

 

 

 

 その夜は、家のリビングのソファーで、たまたまテレビでやっていた恋愛映画をぼんやり見た。

 ソラはハヌルの隣にだらりと座って、食べていた菓子をむにゃむにゃ噛みながら半分目を閉じていて、起きているのか寝ているのかよくわからない状態だった。

「ヒョン、今日はヒョンの部屋で寝てもいいですか」

 何の脈絡もなくハヌルが聞くと、ソラはやっぱり口をむにゃむにゃさせながらぽっくり頷いた。

「おまえの好きなようにしな」

 ハヌルはさらに質問を重ねた。

「ヒョン、この映画おもしろいですか」

「おもしろいよ」

「今日は抱きしめて寝てもいいですか」

「明日もそうしていいよ」

 たまには拒絶の意思がほしいとハヌルが思っていることを、ソラは知っている。でも肯定しかするつもりはない。

 ハヌルはソラにとっていつまでもかわいいダイヤモンドの原石で、甘やかされるべき存在なのだ。

「そのお菓子少しください」

「ん」

 と、迷わず袋の口をハヌルに向ける。

 ハヌルは下唇を突き出した。

「僕を甘やかし過ぎないでください。もう子どもじゃないんだから」

「子どもだよ。おまえはずーっと、かわいいハヌル」

 映画に集中しているふりをして顔は向けなかったが、視界の端に入っているハヌルの顔が、ぶすくれて丸くなっているのがわかった。

 この男は普段、グループで活動することが多い韓国アイドル業界の中でソロの歌手としてひとりで立って、物怖じしない態度で歌ってはファンに手を振り、根っこに度胸と知性がある回答でインタビュアーを唸らせ、爽やかな笑顔で人々を魅了しているくせに、ソラの前でこのように丸の形になることがある。

 ハヌルはしばらくソラの横顔をぼうっと眺めていたが、やがてテーブルに置いてあった何かの美術展の図録を持ってきてソファーに沈み、パラパラと読み始めた。映画は一定のリズムで進んでいく。ソラは眠い。

 ああ、そういえばあの事務所からのメールに返信しないとなと考えていると、ハヌルが唐突に話題を振ってきた。

「ヒョン、結婚ってどう思いますか」

「……」

 奇妙な沈黙を作ってしまったことを若干悔やみつつ、ソラは慎重に口を開いた。

「どうって」

「うん」

「状態というより現象って感じがする」

「へ? 意味がわからないです」

 うははと誤魔化すように笑うと、横から膝を小突かれた。

「まあ、僕には関係ないけど」

 と、ハヌルがこぼす。

「でも、ああいう風に報道されると、人を異性愛者だと決めつけてインチキなこと書く暇があったら、同性婚ができる社会にするために少しは動いてくれよって思います」

「うん」

「ずっと違う僕を生きろって命令されてるみたいで、気分が悪い……」

 現在の韓国では、同性婚は法制化されていない。ソファーの上で膝を抱えて頭を垂れたハヌルのうなじを撫でてやった。

 そこで言葉が途切れた。

 ハヌルは腰を浮かせて、座るソラに向き合う体勢で太ももを跨いだ。決して軽くはない体重が膝にかかる。

 ハヌルの背中側に映画が流れたままの明るいディスプレイがあったので、その光源の影響で、ソラの顔に淡い影がしんと落ちた。ハヌルを見上げる瞳だけに光の球が浮かんでいて、人形みたいに瞬く。その目の見る先がゆっくり下りていって、ハヌルの顔から首、シャツを着た胴体、そしてソファーの生地についている膝まで移っていった。

「触ってもいい?」

 ソラが小さく言う。はいと答える代わりに、ハヌルは、ソラの手首をそっと掴んで手のひらを脇腹に触れさせた。手首を持ったハヌルの手が震えていたことに気がついた、そのソラの手も震えていた。

 ソラの手のひらが、ハヌルのシャツを捲り上げながら背中を上がっていく。ハヌルは見上げてくるソラの瞳から目をそらさないまま、背中を撫でられる感覚に集中して静かに呼吸した。背骨のでこぼこのひとつひとつを、ソラの指が下から順に撫で上げていって、両方の小指が一番上の凸に触れたとき、本日初めてのキスをした。ハヌルはソラの髪ごと頭を腕で抱え込んだ。つむじから爪先まで、全身がぴりぴりして、炭酸の汗がにじみ出てくるようだった。

 このままセックスをしてもよかったが、結婚の言葉がまだ脳裏に残っている状況だと、少し気が引けた。湿度のある息を鼻から漏らし始めたハヌルを受け止めながら、ソラは体を強張らせる。

 どうして突然結婚がどうなんて、そんな話をしてきたのだろうか。あのスキャンダルのせいだろうか。

 ……。軽い気持ちで指をほどいてはいけなかったのではないか、と思うことがあった。

 もちろん、適当な思いで応えたわけではない。あんなに切羽詰まって何度もあなただけですと告げるハヌルに、軽い返事で応じたわけでは決してない。立場も立場だし、会社の権力関係で言えばどうしてもソラのほうが上になってしまうから、暴力にならないよう細心の注意を払う必要があった。それに年齢も上で、自分が「ヒョン」だった。

 それでもと思ったから今、こうして二人でいるが、例えば男性と女性のカップルの場合には最初から無条件に与えられている結婚という「ゴール」が、同性同士にはない。帰るべき家が同じであっても、家族とは認められない。

 では、結婚できない二人が、最終的に目指すべき「ゴール」はどこなのだろう。わからない。

 なぜそれがわからない世の中なのだろう。こんな風に行き先もわからないまま進む関係性に、ハヌルを巻き込んでしまってよかったのだろうか。

 指をほどいた決意に意味はあったのだろうか。

「ハヌラ」

 シャツを脱ぎ始めたハヌルを、ソラは静かに止めた。

「ごめん。今日はちょっと、気分じゃない」

「あ……そうでしたか。ごめんなさい」

「いや」

 脳みそがぐわんぐわんと鳴ってくる。

 ソラはこめかみを揉んだ。

「いや、俺こそごめん」

 呟くように続けた。

「ごめん」

「なんでヒョンが謝るんですか」

「ごめん、ごめんハヌリ。本当にすまなかった。俺のせいだ。全部俺の――」

「謝りすぎですけど、一体……?」

 ハヌルにも思うものがあったのかもしれなかった。

 こめかみを押さえながら歯を食いしばるソラを見て、彼ははたと口をつぐんだ。

 ソファーに座り直す。

「僕、結婚したいなんて言ってませんからね」

「わかってる」

「それに、例え同性婚ができるようになったとしても、僕達の場合は現実的に難しいでしょう。お互い仕事に夢中すぎるし、僕はまだ兵役にも行ってないのに」

「わかってる」

「じゃあ一体どうしたんですか」

「いや、ただ、……なんでもない」

「なんでもなくてそんな顔しますか?」

「……。たまに思うんだ。おまえと付き合ったこと、俺はちょっと軽率だったかもしれないって」

「え?」

 発言に失敗したことに気付くまでタイムラグがあった。

 はっとして慌ててハヌルを見ると、怒っているような、しかし悲しんでいるような、複雑な表情をして静かにソラを見つめていた。

「後悔してるってことですか? 僕とこういう関係になったことを」

「違う、そうじゃなくて。どこまでいったらいいかわからない状態で進むべきじゃなかったかもって思って」

「どこまでいったらいいか?」

「結婚もできないのに、どこにいけばいいのか。なんのためにって……」

「ヒョン、もしかして、僕が結婚にこだわってるとでも思ってるんですか? 結婚したがってるって?」

「そうじゃない。そうじゃ……」

「そうじゃないなら、なに?」

「ハヌラ、落ち着いてくれ」

「じゃあ教えてあげます、ヒョン!」

 ハヌルは勢いよく立ち上がった。

「僕はヒョンと結婚したいとは思ってません! だってできないんですから! 当たり前じゃないですか? 同性婚もできない社会で、カミングアウトもさせてもらえない会社で、世界中に彼女がいると思われながら、それでもこうやってヒョンと内々でお付き合いしてるのに、馬鹿みたいにあなたにプロポーズすると思ったんですか? 最初からそれをゴールにして付き合うべきだったって? それとも、僕がかわいく結婚を望むのを期待していましたか? それは僕を見くびりすぎです!」

 ハヌルの怒りは正しい雷鳴だった。

 部屋から一切の音が消え失せた。

 ハヌルは動けないでいるソラに背を向け、思い出したように部屋のカーテンを閉め、ふらふらと肩を揺らしながら振り返って額をこすった。何度も。今にも泣き出しそうな表情だった。

 ソラは四肢の感覚を失い、言語を忘れた。唇を動かす力さえない。足の裏が異常に痛いことだけはわかった。軋む関節でなんとか立ち上がると、目眩がして口の中に唾が溜まった。違う。そうじゃないんだと言いたくても、言えなかった。

 額をこする腕の下で、ハヌルの両の目がソラを見たり見なかったりする。その拒絶の空気にソラは足が竦んだ。

「僕がどんな気持ちであなたに思いを伝え続けたかなんて、あなたにはきっと、わからないんでしょうね」

「……え?」

 徐々に距離を詰めてくるハヌルから、もう逃れられない。

 ソラは指一本動かすことも出来ないまま、ただそこに突っ立っていた。

 気が付いたときにはハヌルの顔がすぐ鼻先にあって、シワの寄った眉間が、睫毛の一本一本が、暗く深い裸眼が、全てが見えた。

「僕は僕の思いを伝えただけなんですよ。ヒョン」

 やっとハヌルが笑ってくれた。

 しかしその笑みは胸が締め付けられるほど悲しく、取り返しのつかない濁ったシャドウブルー色だった。

 耳元で、ぶくぶく、ごぼごぼと音がした。透き通った輝くブルーに部屋が染まり、ソラの視界の端を、潰れた楕円の泡が次々にのぼっていった。重力が消える。体が、髪や服だけ浮遊する。見つめる先のハヌルの虹彩に、頭上の水面から降り注ぐ帯状の太陽光が優しく触れていた。

 唇が一秒だけ触れて、すぐに離れた。

 その瞬間、深海の世界だった二人の部屋が、世界ごと抹殺されたように現実に戻った。

 ハヌルが後退し、スローモーションでこちらに背中を向け、音もなく家から出て行く。

「ハヌラ、待っ……」

 カチャ、と扉が閉まると、今度は部屋中が血の色の炎に包まれた。

 ソラは頭の中で、目の前に転がっているクッションをビリビリに破いて思い切り蹴った。照明器具を床に叩きつけた。髪を掻きむしり、ソファーの生地をぐしゃぐしゃに引き裂いて、マットレスに顔面を押し付けて腹の底から大声を上げた。

 違う、違うんだ。

 待ってくれ。ゆっくり話を聞いてほしい。

 結婚もできない社会が気付いたときにはすでにあって、それはどう考えても俺一人のせいではないのに、どうしても、俺のせいでおまえを「ゴール」に連れて行けないのではないかと考えてしまって、それで勝手に反省してしまうことがあるんだ。

 軽率だったかもしれない。どこまでいったらいいかわからない状態で進むべきじゃなかったかもしれない。

 そう迷いながらおまえと一緒にいることが、おまえにふさわしいのかどうかわからないんだ。

 最初から俺たちにも結婚の「ゴール」が用意されていたらよかったのに。

 結婚ができたらよかったのに!

「……」

 身勝手な怒りととめどない後悔に追い立てられて、本当に叫びを上げてしまいそうだった。ハヌルが去ってから微動だにしない部屋を、力なく見渡す。震えの止まらない指を、もう片方の自分の指で押さえた。

 ソラはハヌルのように瞬発的に言葉を使えない。じっと考えてぐっと堪えて、相手が去ってからやっと声が出てくることもある。扉が閉まって数分経過してから「待ってくれ」と言えた。

 この世界にはいくつもの分岐点が転がっていて、ひとつ違う選択肢を選べば全く異なる未来が待っている。

 翌日、珍しく事務所から今すぐ来てくれと連絡が入ったので、ソラは何かあったのかと焦り、高速鉄道を使って急いで駆けつけた。

 会社の廊下を進んでいると、小綺麗にしたハヌルがそこにいて、なにかの打ち合わせを終えて横のミーティングルームから出てきたタイミングだった。傍のスタッフらが揃って神妙な顔つきだったので、これは、とソラは訝る。

 ハヌルはサングラスとマスクで顔を覆っていたので、表情はわからなかった。

 彼はすれ違いざま、スタッフ達からの死角を狙い、ソラの空いた手の指を軽くすくっていった。ソラは触れられた指を一瞬見たあとすぐに振り向き、去って行くその後ろ姿を目で捉えた。

 凛と、細い背中が人影に消えていく。なんでもいいから俺と一緒にいてくれと伝えるならこの瞬間だった。だがソラは何もしなかった。ただ、焦がれる背中が去りゆくのを眺めていただけだ。

 ソラはこのあと数年間、このときに正直になれなかった自分の臆病さを、何度も何度も後悔することになる。

 翌週、ハヌルが韓国陸軍への入隊に向けた手続きを開始したと報道があった。

 

 

 

 どこまでも続く海面に、透き通った歌声が響いていた。

 歌声の主の耳には、ストリングスの合奏が聞こえていた。柔らかいギターの旋律、そして時計の針が進んだ瞬間のような、地面をノックする音が鳴る、深く、ハープをはじくように優しく丁寧に弾む、ピアノの音が踊る、続いて小刻みに八分音符を引っかけるヴァイオリン、北アメリカの乾燥した大地を這うような重いバスドラムの鼓動がビートを刻んで、巫女のように天から舞い降りてくるオクターブ上のコーラスが重なる。

 ソラは飛行機の中で、額を窓に押しつけながらハヌルの歌を聞き、ハヌルのことを考えていた。

 ここは華やかな世界だ。

 顔を上げればグリッターが舞っているし、微笑みが浮かべば億の金が動く。今やKポップは世界中の音楽シーンを魅了していて、韓国でデビューしたいと言ってわざわざ外国から渡韓してくる若者も多い。

 これまでソラが曲を提供してきたシンガーは数え切れないし、共に作業をして意気投合したミュージシャンも少なくない。みな、心身ともに成熟していて魅力的な人たちだ。

 それでも、その中で彼だけ異質に映るのはなぜだろうか。

 ソラ自身が見つけた原石だったからだろうか。デビュー以降ずっと、専属プロデューサーのように一緒に音楽を作り続けてきたからだろうか。練習室の廊下で、前につんのめった格好のまま寝ていた彼のクマを見かけたことがあるからだろうか。過酷なパフォーマンスの直後に救急車で搬送されていった姿を知っているからだろうか。歌詞が浮かばなくて大泣きしている背中も、インターネット上の誹謗中傷に深く傷ついて放心している横顔も、マスコミのでっちあげに怒り狂っている拳も、彼の全部を知っているからだろうか。

 煌めくグリッターの裏の、柔らかい微笑みの裏の、血と汗と涙が滲むどこよりも残酷な底を。

 それとも、まっすぐにこちらを見つめてヒョンと呼ぶあの瞳を、ひとりで浴びすぎたからだろうか。

 兵役の話をどうしてソラにしなかったのか、理由は想像に容易い。ソラが韓国人ではないからだ。もっと言えば、ソラが日本人だからだ。膝の上でパスポートを開き、自分の名前を指でなぞった。

 しばらく休暇をもらって帰省したいと話すと、事務所はあっさり承諾してくれた。ただまあ、それもそのはず、ここ数年のソラの仕事の三分の一はハヌルのプロデュースだったから、彼が入隊したことでソラの手も空くのは自然な流れだった。

 だから抱えていた仕事を片付けて、必要に応じて各所へ休暇を知らせる連絡も投げておいてから、ソラは日本へ行く準備を始めた。

 韓国人の成人男性が国防の責務を果たす任期に就くことは、韓国では法律上必ずしなくてはならないことだ。

 憲法に国民の四大義務があり、そのひとつとして「国防の義務」が定められている。韓国人男性は、十九歳になる年に徴兵検査を受け、身体の健康状態や精神状態の確認を受けた後、遅くとも満三十歳までに軍隊に入隊しなければならない。身体に特定の疾患がある、オリンピックのメダリストであるなどの理由がない限りその義務が免除されることはないため、当然果たすものとなっており、徴兵制が敷かれる社会でその義務から逃れようとすると世間からの目はかなり厳しくなる。

 注目度が高い分、有名なアーティストや著名人が入隊するニュースは毎度さかんに報道され、話題になる。Kポップアイドルとして活動している男性や、ネットフリックスで有名なドラマに出演するような役者の男性は、注目元が国内にとどまらないから特にそうなる。

 歌手・ハヌルの場合も同様だった。

 彼にとってはいわゆる「軍白期」だ。

 たまに与えられる休暇以外は、基本的に同じ部隊の人達と配属先で一緒に宿泊し、毎日起床から就寝まで決められた日課を遂行する暮らしになるから、アーティストとしての活動はもちろんできない。外部との接触も最低限になり、貴重な休日を使って出かけるか、相手に来てもらって面会をしない限り、軍の外の人と直接話すこともできない。

 およそ一年半から二年の「軍白期」、入隊によるキャリアの断絶期間となる。

「ハヌル 陸軍部隊配属へ 兵役中も笑顔の写真」

「入隊中のハヌルに世界中から応援の声」

「ハヌル、ファンに元気ですとのメッセージ」

 手元のタブレットの画面の中で、報道記事の見出しが次から次へと現れては流れる。

 ソラは画面に指を滑らせてスワイプしていき、記事のコメント欄に連なっている読者の書き込みを流し読みした。どれもハヌルの無事と健康を祈ったり、応援したりするコメントばかりで、使われている言語は韓国語を筆頭に英語、日本語、フランス語など多種類に渡った。

 彼が一言の報告も相談もなしに入隊を決断するなんて、そして喧嘩別れのような形のまま行ってしまうなんて、さすがに想定していなかった事態だった。

 ソラの中で、ハヌルと最後に会ったあの日以来ずっと、細かく長い動揺が続いていた。

 ハヌルは子どもでなくなっていくのと同時にどんどんハヌル自身になっていって、ソラの真似事をしなくなっていった。

 出会った頃はまだまだあどけなくて、歌い方や表現方法の指導をするソラの言うこと為すこと全てを飲み込んで、器用に真似て、褒められると花の蕾が開くようにほわりと笑顔になった。音楽的知識が豊富なソラに対する憧れもあったのだろう、キラキラに揺れる瞳でソラの後をついてまわって、使う音楽用語や機材を真似るだけでなく、服を真似たりもしていた。

 それもすっかり昔の話だ。

 いつの間にか、ハヌルはソラに憧れて吸い始めた煙草もやめていたし、ソラがいい顔をしなくても彼自身がときめくファッションを選ぶようになって、ソラがひとつもしていないタトゥーを自分の肌にはどんどん彫る。ソラのよく知らないアーティストの音楽を「とてもいい」と興奮して聞いて、ソラのあまり好きではないメーカーの機材を自分の耳で評価して買って、最近は作曲にも取り組んでいる。

 六歳年下の彼を、必要以上に年下に見るのはよしたかった。

 それでも韓国社会の文化や風土に馴染んでいると、どうしても、年上が年下の面倒をよくよくみて猫かわいがりしたくなってしまう。そりゃあ年齢差があろうと同級生みたいに仲の良い人達も当然いるが、ソラ達の場合、ソラが少年ハヌルを見つけたという出会いの経緯もあって、いつまでも「子離れ」できない状態だった。

 だからこそ、ハヌルがソラの知らないところでものを考えて、決断して、ひとりでさっさと入隊したことについて余計に動揺が深いのだろう。自分の内面を俯瞰して客観的に観察し、そう考察する偉そうな自分がいた。

 いつの間にか、そう、先ほどから「いつの間にか」ばかり言っているが、いつの間にか、ハヌルはソラの関しないところで大人になったのだ。きっと。

 東京は暖かかった。羽田空港の国際線ターミナルに到着すると、長期休暇の時期で人がごった返すエントランスの中、数年ぶりに会う顔がにこやかに出迎えてくれた。

「藤枝!」

 おーいと手を振っているのは牧野だ。

 空(ソラ)はひょいと片手だけ挙げてみせた。藤枝と呼ばれるのが久しぶりすぎて、自分の名字がしっくりこない。

「やあ。あー、こんばんは」

 日本語すら危うい。大変だ。

「はは、君、ほんと韓国人みたいなファッションしてるなあ」

「え?」

「久しぶり」

 牧野はにっかり笑い、空の荷物をひとつ持ってくれた。

 彼は仕事を通して知り合った友人で、大手ファッション雑誌を発行している会社に勤める同年代の男性だ。ファッションウィークの時期などの繁忙期には慌ただしく世界を飛び回っているが、現在は日本で落ち着いており、妻や子とともに赤坂のマンションに住んでいる。

 仕事帰りだったのか、彼はジャケット姿だった。

 ピッと背筋を伸ばし、革靴の踵を鳴らしながら大股で歩く牧野の隣で、空は自分の手足が急にやたらと鈍くさくなったように感じた。意識して背中を立ててみるが長くは続かない。まあいいかと諦めるまで早かった。

「最近どう? 仕事は相変わらず忙しいの?」

 予約していたレストランに座るなり、牧野はそう聞いた。

「うーん、まあ」

 空は釈然としない返事をする。

「今ちょうど、うちに所属してるアーティストがひとり入隊して、比較的手薄なんだ」

「あ。俺、その人知ってる。娘が前に騒いでたよ」

 牧野は片手で器用にスマートフォンをいじり、ラインのトーク画面を見返した。

「あったあった。チェ・ハヌルくんって人?」

 名を聞いてどっきりした。

 ぽっくり頷く。

「娘の周りでも人気らしいよ。入隊って聞いて泣いちゃったファンもいたって」

「へえ……」

「ハヌルくん、二十六歳か。みんなこのくらいの年齢で入隊するの?」

「いや、普通はもっと早いな」

「ふうん。有名人は大変だよね。でも、娘、兵役行ったアイドルはみんなムキムキにかっこよくなって帰ってくるから寂しくはないって言ってたけど、そう考えれば泣くほどではないのかな」

「そ、それはちょっと」

 空はぎょっとしてフォークを置いた。

「かっこよくなって帰ってくるって、それはちょっと残酷すぎないか」

「ん?」

「彼らは戦争のやり方を学びに行くんだ。死ぬほどきつい思いをして訓練して、銃の使い方とかを学んで、兵士になる。戦時には実際に前線に立たされるし、いつ駆り出されるかわからない。それをムキムキだとかなんとかって……」

「……そっか」

 牧野は料理を咀嚼しながら目を見開いた。

「そうだな。そのとおりだ。ひどいことを言った。娘にも言っておくよ」

「うん」

「君はすごいな。あっちに住んでるからかもしれないけど、そういう考え方はこっちじゃあんまりしない気がする」

「でも――」

 牧野の携帯電話のコール音が鳴り、空の発言は遮られた。

 喋りすぎたかもしれない。ごめんのポーズをしながら電話を取って捌けていく牧野を目で追ったあと、空は首の裏を掻いた。

 自分は両親とも日本人で日本出身で、さらには国籍も日本にあるのに、韓国に住んでいるだけでなにを知ったようなことを言っているのかと気後れした。

 これまでの人生の二分の一を韓国で過ごしてきて、生活リズムも生活範囲ももう固まってきているので、韓国での日常で自分が日本人だと思い知らされるシーンは実はそこまで多くない。日頃からほとんど自宅にこもっているし、よく顔を出す場所があるとしたら職場である会社か音楽現場だから、空のルーツをよく知っている顔ぶれしかいない。おや、日本人ですか、みたいな反応をされるのは、それこそ年に何度あるかという誰かとの初対面で名乗ったときくらいで、会社でも、親しい友人らも、今さら何も言ってこない。

 むしろ日本人と一緒にいるときのほうが、自分が日本人だということを意識する。

「ごめんごめん、彼氏からだったよ」

 牧野は席に戻ると、後ろに流して固めている髪を数回撫でつけた。

「彼氏?」

「そう、これからご飯でもどうかって。普段韓国に住んでる友達と食事してるから難しいって言っておいたよ」

「じゃあ、うまくいってるんだ」

「うん」

 牧野には妻公認の彼氏がいる。

 彼はバイセクシュアルで、学生時代からずっと付き合っていた男性がいた。本当はその人と結婚したかったそうだが、日本では同性婚が法制化されていないこともあり、仲の良い女性の友人と家族になる決意をしたそうだ。

 妻も牧野に恋愛感情を抱いていたわけではなかったそうだが、様々な利害の一致があり、今のような関係性に落ち着いたらしい。

 運ばれてきた前菜に視線を落とし、牧野は軽く腹をさすった。

「今、こっちでは同性婚の話題が熱くてさ」

「え。認められそうなの?」

「いや、そういうわけじゃないけど。韓国もでしょ」

「うん。全然」

「アジアだと台湾とネパールだけだったよな、同性婚できるの。あとタイもそろそろ実現しそうみたいだけど」

「あぁ、ニュースで読んだ。もしかして日本もそろそろ?」

「うーん」

 牧野はいったんナイフとフォークを置き、考えながら口元を拭いた。

「与党が消極的だからすぐには認められないだろうけど、世論はだいぶ賛同に傾いてるよ。パートナーシップ宣誓制度を導入する自治体もどんどん増えて、国より地方のほうが積極的な感じがする」

「へえ……」

 空は、自分の出身地のことをふと思った。

 あの日本列島のはしっこの保守的な田舎でも、同様に積極的になってきているのだろうか? 同性同士の婚姻に?

 牧野は自嘲的に続けた。

「俺としてはまあ、時期を逃しちゃったから? ちょーっと複雑だけど、これからの若者がいろんな形の結婚を選べるようになるなら良いことだよなあ」

 ハヌルの話になって、おまけに同性婚が話題にもあがって、空は少々胃が沈んだ。

 空腹のはずなのにさほど食も進まない。

 レストランを出たあと、牧野とはまた日本にいるうちに会う口約束をして、まっすぐ宿泊予定の場所へ向かった。

 ホテルは六本木に予約していた。会社が取ると申し出たところが豪奢すぎるホテルで気が引けたので、自分で場所を探し、長期滞在することになるので一泊一万円くらいの簡易的なシティホテルを選んでいた。

 チェックインして荷物を放り出し、まず横になった。体よりも感情面が疲れていた。

 そのまま数分間ぼうっとしてから、よたよたと起き上がってシャワーを浴びた。頭から湯に当たりながら、今回が一体何年ぶりの帰省なのか頭の中で数えたが、何度やってみても正解はわからなかった。

 浴室を後にすると電話が鳴っていた。仕事の連絡だった。現在作業中の楽曲に関するアーティストからの相談で、歌詞について教えを請いたいとの内容だった。快諾する。しかし韓国へ帰ってからの話になるとだけ伝え、電話を切った。

 ひとりになると沈黙に救われる。

 別に、牧野と食事をしたりアーティストからの相談を受けたりすること自体が嫌なわけではないが、それでもひとりきりの空間と時間を持って全身の力を抜ける瞬間は、拘束されていた魂を伸ばすようで呼吸が楽になった。

 空は夜が好きだった。寝ているのが好きで、ベッドに横になって力を抜いているのが好きで、誰もが無防備になっている気配がするひんやり静かな時間帯が、好きだった。

 重力のない黒い空間に星が瞬いて、体が浮かんでふわふわして、別世界に行ったみたいに落ち着いた旅の気持ちになれる。全部の輪郭とか、境目とかがあやふやになって、攻撃とか、離別とかが遠のいていく。

 夜は夜だけの世界だ。それ以外の雑音はない。

 

 

 

 ソラの制作スタイルとして、歌詞は歌うその人に根ざしたものにしたい思いが強いので、毎回できる限りアーティスト本人と会話を重ねて歌詞を書いていた。

 ハヌルの曲の場合もそれに漏れず、歌詞は必ず会話をして考えたいから、アルバム制作作業の期間などは数週間ずっと一緒にいてひたすら話をしまくる、なんてこともよくあった。

 ハヌルはその、歌詞を書いていく作業が苦手だった。

 数ヶ月前のことだ。ソウルの会社にあるソラの作業室での仕事中、歌詞に悩むハヌルはいつものようにだらけていた。

「二番の三行目から直したいんだけど」

 ソラの持つボールペンの先が紙面を叩いてパシパシいう。

「このシーンでおまえがどんな気持ちだったのかいまいち掴めない。悲しい? それとも悔しいとか、腹が立つとか?」

「うーん……」

 ハヌルはL字ソファーの辺の長いほうに横になって抱き枕を膝に挟み、力なく伸びていた。

 現在プロモーション中の新曲のコンセプトに合わせてピンク色に染めた髪が、セットもなにもしていない髪が、くしゃくしゃになって方々に跳ねている。

「なんだろう……」

「そのとき感じたこととか思ったことをそのまま言ってくれていい。いい風に書き直すのは俺の仕事だから」

「そのまま言うのが難しいんですよ」

 ハヌルはぼんやりソラを見た。

「こうやってヒョンと歌詞作業をして、僕の感情とか思考を洗いざらい話そうとすると、ヒョンに僕が溶けていくみたいで怖いです」

「俺におまえが溶ける?」

 いい言葉運びだなと思い、ソラはメモを取った。

「溶けるくらい打ち明けてくれたほうがありがたいけどな」

「そうしようとずっとしてますけど、それって結構怖いですよ」

「どうして? 俺が誰かに、ハヌルは本当はこんなことを考えてるんですよ、なんてベラベラお喋りするわけでもないし」

「そういう問題じゃなくて。僕とヒョンの間の話です」

「なら、なおさら何が怖いのかわからない。全部言ってくれていいよ」

「……はい。んー」

 ハヌルは歌詞に向き合う作業を続けた。

「悲しい……そうだなあ。悲しいよりは不甲斐ないとか、諦めがつかないとか、そういう感じのが近いです」

「不甲斐ない。諦めがつかない」

「そう。ファンの皆さんは待ってくれているのに、それに応えられない自分が情けないというか」

「情けない」

「うん……。うーん、このモヤモヤする感じを何て言ったらいいのかわからないですけど」

「そうだな。そういうのを、この曲のモチーフにしてる映画の内容に絡められるといいけど」

 複数あるディスプレイのうちのひとつをユーチューブに繋げ、ソラは映画を流し始めた。

 苦悩しているハヌルの空気を背中に感じる。

 うんうん唸りながらも全てを打ち明け、自分の内面をどうにか言語化して伝えてくれる安心感があった。仕事といえど、ビジネスパートナーとして信頼関係がないとできない作業だ。

「これはファンソングだから、聞いたファンがネガティブな感情にならないほうがいい。おまえが普段思ってる、よく言ってる感謝の気持ちを中心に書いて、そこにさっきみたいな率直な思いも乗せよう」

「はい」

 椅子の上であぐらをかいて映画を流し見るソラの背中をぼうっと眺め、ハヌルが意を決したように言った。

「ヒョン」

「ん?」

「僕、そろそろ恋愛ソングを歌ってみたいです」

 ソラは言葉に詰まった。

 歌手ハヌルはラブソングを歌わないことで有名でもあった。ソラがソラの希望で恋愛をテーマにした曲を書いてこなかったのではなく、ハヌル自身の希望だった。

 女性ファンが多い中、自分がゲイだということもあってか、俗にいうアイドルに求められる「ファンの恋人」のような売り方を望まず、ファンの皆さんは僕の友達というスタンスでずっと活動してきた。楽曲は日頃の生活の中で考えていることや、赤裸々な不安や葛藤、この社会のこと、感謝と愛を伝えるファンソングなどが主だった。彼のそんな姿勢に共感して応援しているファンも非常に多い。

 彼の要望を汲んで、ソラもそういった曲を作り続けてきたのだ。

「それは、俺に曲を書けと言ってるのか? 歌詞も?」

 ラブソングを作ることは当然できる。これまでも、ハヌルではないアーティスト用にだが、何曲も書いてきた。

 しかし彼用に書く歌となると話は別だ。

 背を向けたまま聞くと、背後でハヌルがソファーの上で起き上がる気配がして、彼は慎重に続けた。

「歌詞は自分で書いてみます。曲は、僕が今作っているものを使えればと思って」

「……」

「今回のアルバムの最後に入れてみたいんです。それが間に合わなければ、入隊前にデジタルシングルで発表したいです」

「……そっか」

「やめたほうがいいですか」

「おまえが歌う曲だろ。おまえのやりたいようにしたらいい」

「はい。そしたらやっぱり歌ってみたいです」

「うん」

「あなたへの気持ちを歌うことになりますけど、いいんですね」

「俺に止める権限はないだろ……」

 耳が熱くなる感覚がした。

「よかった」

 と、ハヌルは笑う。

「でも、一曲だけクレジットにヒョンの名前がなかったらおかしいかな」

 何があっても絶対に混合してこなかった仕事とプライベートの事情が、じわじわと交差しようとしている。ソラはハヌルと目を合わせることができず、手元の紙に視線を落としたままでいた。

 他人事のように映画は進んでいく。今日が他のプロデューサーのいない作業日でよかったと思う自分と、誰かがいてくれたほうがよかったのではないかと思う自分が同時にいた。

 ハヌルはソラが目をつけた新人としてデビューして、それ以来、ソラがずっとハヌルに曲を提供しているのは、ファンの間では周知の事実だった。ソラは表に出る歌手でもタレントでもないから、インターネットで「藤枝空」と画像検索しても、ハヌルのドキュメンタリードラマに映り込んでいた姿とか、大賞の作詞作曲分野でなにかの賞を受賞した際の授賞式の写真とか、そういった切り抜きがぼやっと出てくるだけだが、熱心なファンはソラの活動情報をよく追っている。

 気付く人はすぐに気付くだろう。ハヌルの作品に必ずといっていいほど関わってきたソラが、ハヌル自作の初の恋愛曲だけになぜか携わっていないことに。

 編曲くらいはしてやりたいと思ったが、それを提案したところで断られるのは目に見えていた。

「譲れないところがあって」

 ハヌルが静かに続けた。

「僕が恋愛の曲を歌うときは、『彼女』とか『she』とは言いたくないです。相手を言い表す言葉は『彼』にしたい。ファンの皆さんに嘘はつきたくありません」

「おまえがそう歌いたいならそうするべきだよ」

「でも、代表はどう言うか」

「反対されたら俺が説得する」

 ハヌルは性的指向について世間に公表はしていないが、事務所の上層部やレーベルの代表にはすでに話してあった。本人としてはファンにも公表したいとずっと言っているが、許可を出さないのはその上層部だった。

 特にレーベルの代表は頑なで、ハヌルがよく身につけているLGBTQ+を象徴するレインボーフラッグをモチーフにした靴やグッズなどにも良い顔をせず、そういったものをカメラに写るところに持ってくるのはやめなさいと命じてきたことすらある。

 ソラとしては、ハヌルの希望を第一にしてやりたいため、事務所上層部や代表に対して、盾になりつつ戦うこともよくあった。最近だと、女性アーティストとコラボレーションの案件が舞い込んできたときに、ミュージックビデオ内で過剰にスキンシップを取らせて視聴数を稼ごうとする代表に断固反対したのもソラだった。ハヌルがファンに嘘をつくようで嫌だと言ったからだ。

 ソラはペンを置いた。

 振り向き、目を上げ、不安げな表情のハヌルを見る。

「やってみるか?」

 ハヌルは少々迷っているようだった。

 しかしやがて深く頷き、決意の瞳を見せた。

「はい」

 

 

 

 今回の帰省では、出身地である秋田県へ行き、実家に顔を出そうと思っていた。

 気は乗らないが、先日、名古屋にいる兄から「父さんの体調あんまり良くないから、死ぬ前に一度くらい顔見せてやりなよ」と連絡がきたため、半ば渋々そうしようと考えていたのだ。都内では仕事もしたが、秋田ではそういった予定は全くない。本当にただ実家に行くだけだ。気が重い。

 日本に到着してから数週間後、東京駅から新幹線に乗って仙台まで向かい、駅構内にある牛タン専門店で定食を食べて空腹を満たしてから、秋田駅を目指した。

 幸い、雪の季節まではまだ数ヶ月あったから、真っ白な道に足を取られて立ち往生したり吹雪に殴られたりすることなく、スムーズに秋田駅前までたどり着いた。大荷物は六本木に置いてきたから、身軽な鞄だけ身につけていた。

 実家に長く滞在するつもりは毛頭なかったので、秋田市内のビジネスホテルに泊まることにした。

 ほぼ十年ぶりの秋田市だ。道路は整備が進み、壁の綺麗な建物も増え、さすがに記憶上の風景とは違う部分が多かったが、それでも懐かしいと強く感じるくらいにはおもかげがあった。

 駅周辺の居酒屋へ入り、ひとりでゆっくり夕食を食べたあと、九時になる頃を見計らって会計を済ませた。その後、駅前通りから一、二本奥に入った道沿いにある、すっきりした外観のバーに入った。

 扉が軽い鈴の音を鳴らした。コツ、と踵を響かせながら中へ入ると、オレンジがかった照明がほの暗く降り注ぐ店内のカウンターで店主が顔を向け、いらっしゃいと穏やかに声をかけてきた。

 店主は入ってきた馴染みのない顔を眼鏡のレンズの上から観察しながら、直線形をしたカウンターの一番奥の席を勧めてきた。空は勧められるまま奥へ進み、腰の少し下ほどまで高さのある椅子に腰掛け、カクテルをひとつ注文した。店主は微笑むと浅く頭を下げ、さっそく基酒に向かい始めた。

 バーは狭く落ち着いた雰囲気だった。木造のアイリッシュなショットバーで、音符の走りが静かなピアノの楽曲が流れている。

 店内には数人の先客がいた。空から数席離れたカウンター席には仕事帰りの営業職のような風貌の男性が一人、テーブル席には三つほどのグループが飲んでいて、誰もが楽しそうだった。

 カウンターには初老のバーテンダーともう一人、胸元ほどまである長い髪を揺らした女性がいた。彼女は、今やって来た客にマスター同様「いらっしゃい」と声をかけると、声をかけたポーズで数秒固まった。口が「い」の形のまま数秒経ち、とたんに息を吸い込む。

「空?」

 空は深くかぶっていたバケットハットを脱ぎ、マスクを外した。

「うっそ。信じられない」

 彼女はヒールを鳴らしながら目の前まで飛んでくると、空の顔を覗き込んで肩を揺らした。

「空! 帰ってきてたの?」

「ちょっと前に」

「びっくりした! 久しぶり!」

 興味ありげにこちらを見ていたマスターに、彼女、佐月は空を紹介した。

「マスター、この人は藤枝空。昔ずっと一緒にバンドやってた私の幼馴染みなんです」

 空は改めてマスターに会釈をした。

「といってもこの人、高校卒業した次の日に韓国に行っちゃって、それ以来全然こっちに帰ってこないんで、私もめちゃくちゃ久しぶりに会うんですけど。何年ぶりの帰国?」

「十くらい」

「十年? やば!」

 佐月は、紅潮した自分の頬を手の甲で冷やした。

「マスター、見てくださいよ。十年ぶりの帰国なのにこうやって涼しい顔しちゃって。この人、昔っからそうなんです。クールぶってるっていうか」

「韓国に住んでいらっしゃるんですか」

 マスターの口ぶりは上品だった。

 空に注文のカクテルを差し出しながら、のんびり聞いてくる。

「はい。あっちで仕事をしてるので」

「失礼でなければ、どういったご職業を?」

「音楽プロデューサーを」

「マスター、チェ・ハヌルって知ってます? Kポップアイドルの」

 佐月が言う。

「世界中で大人気の歌手なんですけど、その人の歌を作詞作曲して、おまけにプロデュースしてるのがこの人なんです」

「それは素敵ですね。Kポップって、いま若い子達にすごく人気でしょう」

 ハヌルの名前に反応して空のほうを窺ってきた若者がいて、若干気まずくなった。

 佐月は気を遣って声を落としてくれているものの、落ち着いた雰囲気のこのバーでは会話は筒抜け状態だ。

 佐月は慌てて話題をそらした。

「それより、なんで急に来たの? 来るならそう言ってくれればよかったじゃん。ついこないだもラインしてたのに」

「帰国自体急に決まったから。突然来てごめん」

「いいけどさあ」

 佐月はカウンターを挟んだ向かい側に座り、空と目を合わせた。

「元気そうだね」

「うん」

「私が韓国旅行に行ったときに飲んだ日、以来?」

「そう……かな?」

「絶対そう!」

「まあ、相変わらず元気そうでなによりだよ」

「うん、なにも変わらないよ。私もここも」

 佐月は髪を片耳にかけた。

 薬指に小さなハートマークのタトゥーがあるのが、チラと見えた。あれは高校生最後の夏、佐月が当時の彼女と一緒に彫ったものだった。

 視線の先に気付いたように、彼女は話し出した。

「去年、彼女ができたんだ」

「それはおめでとう」

「ありがとう。彼女、この東北の田舎で東京みたいなレインボープライドパレードとか主催しちゃう活動家でさ。ビアンだってこと全然隠さないで堂々としてて、頭良くてハキハキしてて超いい子で、すぐ好きになっちゃった」

「よかったじゃん」

「うん」

 釈然としない佐月の表情に、空が目線で先を促すと、彼女は長いため息をついてから続けた。

「親にカミングアウトしないことに決めたんだ。一生」

 佐月は、両親含めた家族が全員、性的マイノリティへの理解がないことに長らく悩んでいた。

 彼女自身は中学生の頃から自分がレズビアンだと自覚していて、当時から仲の良かった友人(空を含む)には打ち明けていたが、一番言いたい家族にだけはどうしても言えず、苦しんでいた。

 間接的にLGBTQ+の話題を振ってみたり、同性愛者の出てくる映画を一緒に見てみたりしたものの、両親は頑として理解も興味も示さず、日常的な会話の中で差別発言さえ出てくる始末だった。それで、数年前に韓国で空と会ったときにも、いつかは言いたい、いつかはわかってほしいと悲しそうにしていた。

 それを、もう一生告げないことにしたと言った。

「私、結構頑張ったんだけどね。でもこれはもう絶対、言ったら勘当されると思って。彼女は家族にもきょうだいにもカムア済みで、彼女の家族は私にも本当に良くしてくれるんだけど、それ見てたらもういいかなってなっちゃった。十分だなって。私は自分の親のこと好きだし、今後介護もするつもりだから、だったらもうさ……、親ももう年だから、打ち明けて変にこじれるより、知らないまま墓場までいってくれたほうがお互い疲れないじゃん」

 さっぱり未練ないように話そうとしているのを見て、たくさん考え抜いたのだろうことが皮膚に痛いほど伝わってきた。

 左手の薬指に浮かぶ小さなハートマークが、右手の親指と人差し指で神経質にこすられて上に下に伸びる。油性ペンの細いほうで悪戯書きしたみたいな線だった。

 空は、口に運んでいたアイリッシュコーヒーをテーブルに置き直した。

「実は今、男と付き合ってて」

「え!」

 佐月は大声を出してしまった口を自分で塞いだ。

「ほんとに?」

「ほんとに」

「今日びっくりすることだらけなんだけど。私、空はアロマなのかと思ってた」

「多分そうだった。けど、変わった」

「そっか。変化があったんだね」

「うん。ゲイになったのか、女性と付き合ったこともあるからバイセクシュアルなのか、他のなにか、パンセクシュアルとか別のものなのか、自分でもよくわかんないんだけど……、わかんないままでいいっていうか、決める必要もないかなと思ってる」

「クエスチョニングなんだ」

「ああ、そう。そう」

「相手は韓国の人?」

 頷く。

「そいつは堂々とゲイでいるんだけど、立場上、人に打ち明けられなくて不満に思ってて、ずっと悩んでるんだ。俺は家族なんていないようなものだし、友達も別に少ないし、正直カミングアウトしようがしまいがって感じだけど、そいつのこと見てると、言いたいのに言える環境がないことに腹が立つよ」

「うん」

 佐月は頬杖をついた手の甲に頬を滑らせて、微笑んだ。

「そうだよね」

「いや、まあ、根本的なことを言えばわざわざカミングアウトしなきゃならないのがおかしいんだけど」

「うん」

「でも周りがみんな異性を好きで当然で、結婚して当然で、親と仲良くて当然で……ってなると、わざわざこんな奴もいますよって言わないと俺らがいないことになる。社会が異性愛者用にできあがってるから、そうじゃないんですけどってわざわざ訂正しないと嘘をついてることになる。俺のパートナーはゲイだって言いたいのに言わせてもらえなくて、嘘をつき続けてることになってて……。おまえだってそうだろ、佐月の親が佐月だと思ってる奴は本当は佐月じゃないのに、佐月は本当の自分を隠して、嘘のほうの佐月のふりをして親と一緒にいなきゃならない」

「うん。わかるよ」

 佐月が言う。

「でも、それももういいやって思うの。嘘の私でいることでお母さんたちが残りの人生を安らかに過ごせるなら、それでいいよ、もう。もう私、疲れちゃった、理解してもらおうって望んで戦うことに」

「……おまえの親だって、理解したくなくて理解できないわけじゃないよ」

「わかるよ。全部、わかってんだ。親が理解してくれないのは、生きてきたのがそういう時代じゃなかったからだとか、受けてきた教育のせいだとか、見てきた社会のせいだとか、そういうこと全部わかってる」

 佐月は鼻から大きく息を吸い込んだ。

「そりゃあ本当は、私を誤解したまま穏やかに死ぬくらいなら、少しくらい一緒に戦ってほしかったよ。理解はしてくれなくたっていいから、せめてそういうものだと放っておいてほしかった。家で差別発言を聞くたび傷付いてた私の存在を、そこにあったんだねってただ思ってくれれば、それでよかったのに」

「うん。……そうだよな」

「でも、もういいんだ。私はすっきりしてる。カムアウトしないことに決めてから、心がすーっと軽いの! 拒絶される不安も消えたわけだしね!」

 佐月は泣かなかった。

 昔は泣き虫だった彼女の涙は、いつから理性に負けるようになったのだろう。十八の夏、「彼女ができたの」と報告してくれながら、しゃっくりが止まらなくなるくらい号泣していた彼女の制服姿を思い出した。

 今、目の前の佐月は、諦念をやさしい色で包んで甘んじて受け入れて、赦しを授ける女神のように微笑んでいた。

 なぜハートマークを左手の薬指に刻んだかなんて、理由を問わなくてもわかる。

 最後に思い切り泣いたのはいつだ。そのとき隣に誰かはいたか。

 空は何も言わず佐月の笑顔を眺め、少しだけ頬を緩めた。

 

 

 

 幼い頃から、何を考えているのかわからない子だと言われてきた。

 秋田駅前でレンタカーに乗り、男鹿半島へ向かう道中、空は車内でまたハヌルの曲を聞いていた。

 ハヌルがやりたいと申し出た初の恋愛曲はいったん完成したものの、結局、最新アルバムに収録はされず、単発のデジタルシングルでのリリースも見送られた。それを出したいなら除隊後か、せめて入隊してからだ、とレーベルの代表に指示されたからだった。

 代表は曲自体の評価こそしていたが、歌詞を受け取った女性ファンが離れることを過剰に危惧したようだった。

 空はその曲を一度も聞いていなかった。歌詞も知らない。総プロデューサーとしてそれはどうなんだと代表にも言われたが、こればかりはどんなに気をつけても無意識に私情が入ってしまいそうで、自らやりませんと宣言していた。

 空はハンドルを切った。市街地から外れて海のほうへ走るにつれ、建物はまばらになり緑と土が増え、人の姿は減り、風が強まってきた。

 幼い頃から、何を考えているのかわからない子だと言われてきた。

 幼少期からずっと、父親からは「おまえは一体何を考えているんだ」と怒鳴られ、母親からは「何を思っているのかわからなくて怖い」と突き放され、同級生からは距離を取られ、通知表にも「何をどうしたいのかもっと主張するといいでしょう」と書かれてきた。ぴゅんぴゅんと往来する友人らの言葉のキャッチボールが空にとっては非常に早く、鋭利なようで、あるときには怖いほどだった。そのように人と会話をすることに苦手意識があり、感情や思いを打ち明けることに抵抗感があった。

 話すよりも、文字に書いたり絵で表現したり、音楽に乗せたりしたほうが心地良く、濁りなく伝えられるようだと気付いてからは苦しみも減り、自分の対話の方法はこれなんだなあと思っていた。

 だから、

「ヒョンって何考えてるかわかりやすいですよね」

とハヌルに言われたときほど、ぎょっとして怖じ気づいた瞬間もなかった。

「わかりやすい……?」

「はい。すんごく」

 ハヌルはそのときキムチをボリボリ頬張っていた。

 新曲のビルボードチャートイン記念に、そのとき事務所にいたチームのメンバーで焼き肉に行った夜のことだった。

「正直、言葉にしなくても顔を見ればよくわかりますよ。あ、ヒョン嬉しそうだなーとか、これはヒョンちょっと怒ってるぞーとか」

「……初めて言われた」

「ほんとですか? あなたほどわかりやすい人もそういないと思いますけど」

 それはハヌルだからじゃないの、と横からスタイリストが言ってくる。

 ハヌルはずっとソラと一緒に音楽やってるから、染みついちゃったんだよ。

「そういうものですかね」

 ハヌルは納得いかない表情で箸を伸ばし、こんがり焼けた肉をソラの手元の皿に乗せた。

「今、このお肉取りたいと思ってましたよね?」

 図星だった。

「あ、図星と思った」

 それもまた図星。

 ビーニーの下のハヌルの目がキラキラ輝き、頬に持ち上げられてにゅっと丸くなる。

 そういう関係性だったからこそ、普段から喧嘩をせずにいられたのだと思う。ハヌルは空に洗いざらいなんでも話したし、空の話さないことは全てハヌルに見抜かれたし、意見が割れれば間を取るか、どちらかが譲るかしてうまくやってきた。

 だから、喧嘩したまま、しかも兵役のへの字も話さずに入隊していったハヌルのことは、空はよく理解できないでいた。

 実家は男鹿半島のすぐ横の村にある。今は農業を営む父親と母親しか住んでいないが、かつては空自身もそこに住んで、自転車と電車を乗り継いで通学したりしていた。懐かしい話だ。

 高速道路をひたすら西へ進み、下道におりてしばらくすると、田と畑の中に急に民家がぽつぽつ現れる。そのうちのひとつがかつての家だった。実家の駐車場は乗用車二台と軽トラックで埋まっていたので、近くの寺のガラガラの駐車場にレンタカーを停め、歩いて向かった。

 兄はたまに帰ってきているようだが、空は、韓国で音楽がやりたいと言って両親の反対する声も聞かずに家を出てからというもの、一度も帰ってきていなかった。つまり高校生以来の帰省だ。

 庭に敷き詰められた砂利を重く踏みしめながら、玄関へ近付いていった。靴の底が急に厚く、ねっとりした質感になったようだ。人の気配を感じたのか、横の小屋で飼っている鶏がけたたましく鳴いて、それに触発されたように犬も鳴いた。大きすぎるゴールデンレトリバーだった。扉横の外壁に泥のついたシャベルと熊手が立てかけてあり、濡れた長靴も並べてあった。

 大抵の田舎の家屋がいつもそうであるように、玄関に鍵はかかっていなかった。

 引き戸を二枚開けて家の中に首を突っ込んだ。中は暗くしんと静まり返っていた。

 帰りますとも何とも連絡はしていないから、両親はもしかしたら留守にしているのかもしれなかった。買い物なら秋田市内まで行っているだろう。まあいい、祖父母の墓参りだけでもして戻るかと諦めたとき、廊下の奥から声がした。

「どなた?」

 のっそりと出てきたのは母だった。

 母はすっかり腰が曲がっていて、空気の抜けた浮き輪のようにしおしおと縮み、背が空よりもずいぶん低くなっていた。

 最初、バケットハットを後ろにずらしてマスクも外し、顔をよく見せても息子を認識できなかったようで、しばらくぼんやり突っ立っていたが、空だよと言うとようやく目の前の男が誰なのかわかり、驚き、とにかくといったように中へ招き入れた。

 廊下奥の座敷の部屋には、父親の姿もあった。

 父のほうは、杖の支えがないと容易に歩けないようになっていた。今は低いテーブルを前に脚を放り出し、座椅子に座っていた。仏頂面を空に向けて一瞬目を見開いたものの、すぐに動じていないような表情になってそっぽを向いた。

 二人とも老いたものの、拍子抜けするくらい変わっていなかった。

 現在、農業の仕事をしているのは母だけらしく、あとは年金で暮らしているとのことだ。家出したきり電話の一本もよこさなかった親不孝ものの次男が突然やって来ても追い返したりはせず、息子として迎えてくれた。

「お兄ちゃん、こないだのお盆のときに帰って来たの」

 母が、甲斐甲斐しくお茶を運んできながら話す。

「娘のリコちゃんと一緒にね。それで、おまえは元気だったの? 空」

 にこにこと微笑みかけてくる母は寛容で愛情深いように見えて、空は戸惑う。

 頷くと、母は心底安心したようにほうと息をつき、胸をなで下ろした。

「よかった。心配したんだから。おまえが卒業したあとにね、ほら、佐月さんちの娘さんがおまえの荷物を届けてくれて、そのまま二階の部屋に置いてあるから。部活のものとかいろいろ」

「うん」

「ベッドだってそのままにしてあるから。今日は泊まっていくでしょ?」

「いや、ホテルに泊まるから大丈夫」

「そうなの? せっかく帰って来たのに」

 母がしゅんと小さくなる。

「ご飯は食べて行くでしょ? 今日はね、お寿司を頼もうと思ってたの」

「母さん」

 また立ち上がって台所へ向かおうとした母を引き止め、座らせた。

「何もしなくていいから。座ってて」

「でもねえ」

 母は聞かず、その場でうろうろした。

「ホテルにシャワーはあるの? お風呂は入っていく? ここからだと銭湯はちょっと遠いから、さっと浴びていったら?」

「いや、いいよ」

「空」

 父がようやく口を開いた。

「おまえ、なんだ。いくつになったんだ」

「三十二」

「仕事は何をやってるんだ」

「音楽プロデューサーをやってる」

「どこに住んでるんだ」

「ソウル。韓国の」

「韓国?」

 父はわなわなと口元を震わせた。まるで韓国と発音すると口が痛むとでもいうように、耐えられないような苦い表情をする。

 空は肋骨の奥のほうがチクリとするのを感じ、咄嗟に胸を押さえた。

「突然帰ってきて、なんだっていうんだ? え? 家出の謝罪はないのか」

「ないよ。悪いと思ってない」

「ええ?」

 そうだ。この感じだ。

思い出してきた。

 この骨の痛みに十八年間耐え忍んできたんだ、俺は。

「おまえ、あれは。結婚はまだなのか」

 チクチクの痛みがヒリヒリとした焼ける感じになってくる。

 奥歯を噛みしめた。

「結婚はしない」

「結婚しない?」

「しない」

「勝手に出ていって朝鮮なんかに行ったうえに、三十過ぎても結婚しないなんて、おまえ、この先どうするんだ」

「どうするって」

「北朝鮮がミサイル撃ってきてること、おまえ知らないのか? 朝鮮なんか二度と行くんじゃない。南の韓国だってな、反日で危ないじゃないか。日本より経済も遅れてる。なんであんなところに行ったんだ? え?」

 空は、家を出た夜のことを鮮明に思い返していた。

 両親と兄が寝静まった深夜、韓国行きの航空券を強く握りしめて、持てるだけの荷物を持って、音を立てないように息を潜めて玄関を開けた。庭に出た途端、まだ小さかったゴールデンレトリバーが吠えて、心臓が飛び上がった。

月の明るい宵だった。

 寺の駐車場で佐月が待ってくれていて、駅までバイクに乗せてくれた。韓国に着いたら連絡してよと叫ぶ彼女の声を背に熱く感じながら、人生で一番高揚して泣き出しそうになっていた。

神秘的な夜だった。空気は澄んでいて光り、吐いた息が上気した頬を撫でて上へのぼり、夜空と一体化していく。初めて深呼吸に成功した。

 もうこの家にはいられないと決断するのに、十八という年齢は若すぎただろうか。

 どうしても韓国で音楽がやりたいという話を、何度もした。何度しても父は聞き入れなかった。

本気を見せろと言うので、高校の勉強と並行しながら半年で韓国語を身につけ、自分から音楽関係者にアポイントを取り、自作のトラックをいくつも聞いてもらった。

 ぜひ一緒に仕事がしたいという返事をもらっても、それを実際の文面とともに報告しても、父は見て見ぬふりをした。そればかりか毎日のように息子を「反日だ」「親不孝者め」と責め、なじった。母は父の言いなりだった。

 空という確固たるアイデンティティが毎秒ごとに削られていく苦痛を、この家族は、そればかりを教えてきた。父の絶対王政下に敷かれた家も、父の下僕のような母の猫背も、都合の良いときだけ関与してくる兄も、みんなみんな尊敬できなかった。

 それでも何度も歩み寄ろうとした。きちんと話せばわかり合えるのではないかと期待した。

 しかし、それらの努力は全て無駄だった。

 愛せるものなら愛したかったのだ。だって家族だったから。

「結婚はしない。ていうかできない。男と付き合ってるから」

 唾を飲み込んだ。膝の上で祈るように組んだ指が小刻みに震えて、首裏に汗が滲んできた。

 別に今さら両親にわかってもらおうとか、拒絶されたくないとか思っているわけではないはずなのに、それでもどうしても恐怖があった。

 こんなに心臓の存在を意識したことなど、これまで一度だってなかった。どく、どく、どく、と肌を蹴る鼓動がうるさくて、耳が真っ赤になって、全身の穴という穴から汗が滲んで、目眩がして気が遠くなりそうだった。

 一体どのくらいの沈黙が続いたかわからない。両親の顔が見られなくて、ただ自分の拳を見つめていた。力を入れすぎて白くなっていた。口の中がパサパサだった。

「どういうことだ」

 父が言う。

 空はすぐに返した。

「だから、俺は男が好きなんだって言ってる。韓国人の男性と付き合ってる」

「韓国人?」

 父はまずそこに突っかかった。

「韓国人? また馬鹿馬鹿しい」

「韓国人だよ。韓国人の男だよ。どこが馬鹿馬鹿しいんだ?」

「馬鹿馬鹿しくてかなわない。どこの馬の骨か知れない奴と……男だって?」

「男だ」

「どういうことだ? え? オカマなのかおまえは? ホモなのか?」

「父さん、それは差別用語だ。使うべきじゃない」

「なんだって?」

「ゲイかもしれないし、そうじゃないかもしれない。わからない。ただ、今は男性のことが好きだ」

「どういう意味だ。気味が悪い」

 どうしてわからないんだ?

 どうしてわかろうともしないんだ?

 興奮なのか恐怖なのか憤怒なのか、手が震えて仕方なかった。

「空」

 母だった。

 眉を下げ、神妙な顔つきで、そうっと話しかけてくる。

「男の人と付き合ってるっていう意味?」

「そうだよ」

「けど男の人とじゃ、結婚できないでしょ?」

 は、と、息だけが出た。

「結婚もできないのに好きになって、付き合うなんて、なんのために? 好きになっても意味がないんじゃないの?」

「意味がない?」

 意味がない?

 そのとき、縁側の向こうがぴしゃりと光り、雷鳴が轟いた。

――僕はヒョンと結婚したいとは思ってません! だってできないんですから! 当たり前じゃないですか? 同性婚もできない社会で、カミングアウトもさせてもらえない会社で、世界中に彼女がいると思われながら、それでもこうやってヒョンと内々でお付き合いしてるのに、馬鹿みたいにあなたにプロポーズすると思ったんですか? 最初からそれをゴールにして付き合うべきだったって?

 ハヌルの最後の言葉がよみがえってきて、空は息を止めた。

 立ち上がり、両親が何かを言ってくる全てに背を向けて、体当たりするように玄関を開け、勢いよく外へ出て行った。

 ゴールデンレトリバーと鶏の鳴き声がした。砂利で躓き、よろけそうになりながら、バケットハットとマスクを直してしっかり顔を覆った。

 レンタカーを停めておいた寺へ急ぐ。駆け足で駐車場へ行くと、コンクリートの地面を箒で掃いていた住職にペコリと頭を下げられた。車のてっぺんには葉が何枚も落ちてきていた。震える手で扉を開けて、飛び込むように車に乗り込んだ。すぐにエンジンをかけて出発した。

 カミングアウトは祈りだ。

 空は思った。膝の上でまだ指が絡み合っている。

 こんな祈りを捧げないと自分を証明できないなんて、この世界は試練が過ぎる。

 時速六十キロメートルで過ぎ去る故郷を横目で見ながら、エンジンを踏み直し、もしかしたらもう二度と見ることはない実家からぐんぐん離れていった。

 このまちのことは愛しているが、家族とはわかりあえない、もう。もう話せない。もう戦えない。もう戻りたくないと思うことをどうか許してほしい。

 しょせん他人なのだった。しょせん俺じゃない。俺を産んだ人であろうと俺を育てた人であろうと、他人なのだ。俺と同じように感じてくれ、なんて最初から無理な話だったのだ。

 でも、わからない。上っ面の体裁だけでもいいから、俺を俺として見る努力を少しでも見せてほしかった。

 そう願うことさえ間違っていたとしたのなら、家出を決心した十八の俺も間違っていたのだろうか。その後の人生がどんなに満ち足りたものだったとしても?

「――……っ」

 佐月の笑顔を思い出す。空にはまだ涙があった。

 窓をおろし、外気を車内に取り込んだ。髪がハタハタと頬に当たる。マスクを下にずらして口を解放して、深く息を吸い込んだ。風に押された涙が宙に舞い上がっては飛んでいった。

 ハヌルに会いたくなり、運転しながら端末を操作して音楽をかけた。どこまでいったらいいかわからないのは当然だった。

 母の言葉と雷鳴が少し前の自分たちに重なって、今すぐ謝りたくて、ハヌラ、と声に出した。

 

 

 

 ハヌルの入隊前最後となったワールドツアーでシンガポールを訪れた際、チャンギ国際空港に到着してすぐ、一行はヨーロッパ各国との気温差に驚いた。滞在中はずっと晴天で、とても暖かい気候に恵まれた。ハヌルもスタッフのほとんども、みな長袖を脱いでしまっていた。

 シンガポール公演は大盛況の中、無事に終わり、ハヌルも非常に心地よい気持ちでステージを後にすることができたようだった。

 公演後、ソラは与えられたホテルの部屋で横になり、ハヌルがファンのために更新したツイッター等のSNSの投稿内容を眺めた。不意に携帯電話が通知音を上げたのはそのときで、画面上部にポンとポップアップが浮かんだのだった。

「今からマネージャーたちと夜のマーライオンを見に行くんですけど、一緒にどうですか?」

 ハヌルだった。しばらく考えてから、行く、と返事をした。

 外出の準備を整えて、マッハの速度で身支度を整え、愛用のバケットハットを深くかぶって部屋を出た。そしてエレベーターの前で待っていた一行と合流し、なんでもない一般人の格好をしたスタッフ一人と、マネージャー一人、それとしっかり顔を隠したハヌルと一緒に、ホテルを飛び出した。

 四人は車でマーライオン・パークまで送ってもらうと、外へ踏み出した。スタッフは車内で待機して、マネージャーは少し距離を置いた場所から見守っていたいそうで、ハヌルとソラでマーライオンを見てくることになった。

 観光業がさかんな国、その中でも一番の観光スポットといっても、さすがに深夜のそこには人の姿はあまりなかった。二、三人くらいのいくつかの集まりがぽつり、ぽつりと見える程度だ。

 夜だといっても、夏の季節のシンガポールは非常に暖かい。暑いし、人もいないしと、ハヌルは顔面を覆っていたマスクを外した。

 期待して目的地を目指したものの、白いコンクリートで整えられた広場の中心に鎮座する大きなマーライオンは、日中いつも口から吐き出している水をピタリと止めていた。

「夜には止まっちゃうんでしたっけ」

 ハヌルが少し気落ちしたように言う。

「明日、帰りながら見ればいいよ」

 ソラは慰めた。

 水面の向こうには、マリーナベイサンズが見えた。頭に船を乗せたような姿のそのホテルは、三棟分の客室がそれぞれチカチカ輝いていて、ネオンサインのように優美だった。

 二人はゆっくり歩いて話しながら、マーライオン・パークの岬のように突き出した部分へ向かった。ソラはそこの先端にある手すりに肘を置いて、そよ風に身を預け、目を細めた。

 ハヌルが隣で、深く息を吸って伸びをした。

 湾から吹いてくる粘土のような形状をした生あたたかい風が、頬をねっとり撫でて髪をすくっていく。案外気持ちの良い風だった。こういう穏やかで心地良い時間がずっと続けばいいのに、とこっそり思う。

「ヒョン、話したいことがあるんですけど」

 ハヌルが小さく言った。

「仕事の話?」

「いえ、めちゃくちゃプライベートの話です」

 ソラは一応背後を確認してから、うん、と答えた。

「なに?」

「いつでもいいんですけど、いつか一緒に大邱に来てくれませんか」

「大邱に?」

「はい」

 ハヌルはソラのほうを見ようとしなかった。目先の水面を遠く眺めて、海上にあるオブジェを照らす青いライティングに、瞳をきらきらさせている。

 そんな刹那的な瞬きとは裏腹に、横顔は緊張しているように見えた。

「それって」

 大邱はハヌルの故郷だ。

「おまえの実家に、ってこと?」

「……はい」

 ハヌルは慌てて言った。

「ヒョンが嫌だったらいいんです、でも、僕の両親はあんな田舎でも珍しいくらい寛容で、僕がゲイだってことも知ってるし、ていうか応援? してくれてるし……。だから、ヒョンをその、職場の先輩だけじゃなくてパートナーとして紹介できたら嬉しいと思ってて。僕はきょうだいもいないから、案外気楽に顔を出せるんじゃないかなとも思うし、ああ、あと、犬にも会ってほしいです」

「……」

「嫌だったらいいんです。本当に」

 と、重ねて小声で言う。

 目が合わないハヌルは珍しくて、心臓がくすぐったい感覚になった。

「嫌じゃないよ。むしろ嬉しい」

 ソラがそう言うと、ハヌルは手すりに引っかけた自分の腕に隠れるような格好で横を見て、半信半疑の表情を顔中に浮かべた。

「ほんとうに?」

「うん。ていうか、おまえって親にもカムアしてたんだ」

「ああ、はい。上京する直前に、ぶん殴られる覚悟で打ち明けたんですけど、あっさり受け入れられて肩透かしをくらったんです」

「そっか。……いいな」

 丸くなったハヌルの目が、ソラを探るように見つめた。

「ヒョンのご両親は……」

「俺はいつでもいいよ」

「えっ?」

「大邱に行くの」

 ハヌルの目がもっと丸くなって、それからくにゃりとカマボコ型になった。

 照れ隠しのようにソラが咳払いをすると、同じように照れを隠して、ハヌルも反対方向を向いた。

「親に紹介したいなんて生まれて初めて言われた」

「僕も生まれて初めて言いましたよ」

「俺も親に紹介、できるものならしたいんだけど」

 と、ソラが。

「ごめん。紹介したくないわけじゃないのはわかってて」

「……ヒョン」

 遠くから、おーいと声がかかった。

 そろそろ戻りましょうかと言ってきたスタッフの提案に従い、二人はマーライオンに背中を向けて歩き出した。ハヌルが、

「来たときはあんなに暑かったのに、冷えちゃいましたね」

 と背中を丸めて早歩きするのを、ソラはやんわり微笑んで眺めていた。

 

 

 

 空はそのまま車を走らせ、男鹿半島最北端の岬である入道崎を目指した。

 曇天の下の岬はどんよりと灰色がかっていて、雲と海面の境目が曖昧なほど溶け合っていた。芝に覆われた大地も今は影って見え、足元さえグレー色だった。

 車を脇に停めて、コートを羽織って外へ出る。季節や時間帯によっては観光客で溢れるこの場所も、今は人の姿が見えなかった。

 空は岸のほうへと歩いて行った。灯台を越え、「北緯四十度の地 男鹿国定公園 入道崎」と刻まれている石碑を越え、ギザギザした無骨な海岸へとたどり着いた。無心で歩いていたから、踵が痛んでいることにいま気が付いた。

 日本海からの潮風でコートの裾がはためき、音を立てる。飛んでいってしまいそうだったので、バケットハットは脱いでコートのポケットに突っ込んだ。マスクを顎まで下ろして、肺を冷やす空気をめいっぱい吸い込む。潮の匂いにむず痒い感覚がした。

 好き勝手に暴れる髪を放ったままそこに立ち、海原を眺めた。

 きめの荒い白濁色の波がギザギザの岩肌にぶつかっては崩れ、ぶつかっては崩れた。攻撃的にすら見える波の勢いを、びくともしない岩々が受け止め、砕いて、柔らかい水の粒に分解して空中へと飛ばす。伸び上がった水滴の塊はしばらく宙に浮いて、自分の体に染みる空気の甘さを楽しんでから、踊るように海面へと帰っていった。しかしすぐに次の波に押されて飛び上がり、再び外気で遊び、またくるよと言って海中へ潜っていく。

 何度繰り返すのだろう。打ち寄せる波に限りはないのだろうか。

 いつこのリズムは終わって、静寂がきて、やっとひとりになれるのだろう。

 この海の向こうにはハヌルがいるはずだった。もうどれくらい会っていないだろう。面会に行ったこともないまま日本へ来てしまったから、半年近く接触していない。

 空は目を閉じた。灰色の空気を全身に感じる。

 左手の指先を右手の指で握って、かじかまないように揉んだ。

 最後にハヌルに会ったときのことを思い返した。彼はすれ違う瞬間、空の指を軽くすくって触れていった。あの体温を覚えている。

 最後にハヌルと過ごした夜のことも思い返した。濡れた瞳に反射する光も、背骨のでっぱりも、髪から香る淡い熱も、……絡めた指の感覚も、全てをありありと思い出すことができた。

 僕があなただけというあかしをください。と言ったいつかのハヌルが、今はひとりの大人になって立っているという事実が、それだけでソラの全てを満たしていった。

 何をしているとか、何を思っているとか、そんなことはもはや関与してこなかった。きっとそこに彼の存在があるという歴史だけが、空を満たした。それで完結しているはずなのだった。

 しかし、人はどこまでも社会的な存在で、どれだけひとりの中が充実していても、どれだけ完璧なひとりであっても、社会的に認められるという安堵に匹敵する悦びはない。名前がついている、身分証明書を持っている、身分証明書の情報と自分で信じる情報が合致している、公的な場面で難なくそのままを受け入れられる、人と接する場面で嘘をついたりしなくていい、決めつけや勘違いを困難なく訂正できる、本当の自分を打ち明けることに傷が伴わない、……。そういったやすらぎの中にいたいと願う。

――どこまでいったらいいかわからない状態で進むべきじゃなかったかもって思って。結婚もできないのに、どこにいけばいいのか。なんのためにって……。

――結婚もできないのに好きになって、付き合うなんて、なんのために? 好きになっても意味がないんじゃないの?

  どこにいけばいいのかと思わせるのは誰だ。好きになっても意味がないと思わせるのは何だ。空は灰色の息を吐く。

 一体どうして、自分の中の完結だけではだめなのか?

 答えは簡単だった。

 ここが、その人がその人のまま認められるわけではない社会だからだ。

 カミングアウトは祈りだ。自分を受け入れてくれない荒々しい岩肌に対して、今度こそは、今度こそはと、その岩の形を変えようとぶつかる水の粒たちの、決死の祈りでできている。

 かじかまないよう揉んでいた指が、交差して折り重なってくっついていた。祈るように。

 そのとき、尻ポケットが振動して何かの着信を伝えてきた。

 ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見ると、会社のスタッフからのメッセージだった。

「休暇中にすみません。あなたは知っておいたほうがいいと思って。先週、代表宛てに入隊中のハヌルから連絡が入り、例のシングルをリリースしてほしいと要望がありました。審議の結果、代表もオーケーを出したので、明日、つまり今日の零時に各プラットフォームから発表になります。事前事後のプロモーションは一切なしです。異例ですが、きっと話題にはなるでしょう。だってハヌル初のラブソングですからね(歌詞も歌詞だし)。メディア対策はこちらで対応します。この曲にあなたは携わっていませんが、あなたが世話を焼いてきた人の音楽ですから、すごくフジエダソラっぽい感じになってます(笑)。テストページのURLを送るので聞いてみてください、いい曲です。では、日本を楽しんで!」

 空は迷いなく、反対側の尻ポケットで潰れていたワイヤレスイヤホンを探し当てて、それらを両方の耳に押し込み、ポンと送られてきた簡素なURLをタップした。

 それは『true story』という曲名だった。

 ノイズキャンセル機能が働いて、風と波の音がふっと消える。

 聞いたことのない前奏が始まり、慣れないテンポで進んでいき、知らないハヌルの声が知らないメロディを歌い始めた。ハヌルが、空が紡いだのではない言葉で、空が作ったのではない世界を奏でていく。

それは、空が初めてハヌルを自分の外に聞いた瞬間だった。

 スローすぎない早さで進んでいくジャジーなバラードで、全体的に音の種類が少ない、柔らかな印象の曲だった。

 まんまとショックに打たれている自分に狼狽した。彼をどこか楽器だと思っていた部分が、自分の作品だと思っていた部分が、意識外にしろやはりあったのかもしれなかった。

 歌詞は全て韓国語で、敬語で書かれていた。

 彼は僕が本当はこう考えているということを、きっと知らないでしょう。それもそのはず、だって一度も話してこなかったのですから。でも実はこう思っています。彼を愛していて、尊敬しています。と同時に、僕を手の届かないスーパースターではなくただひとりの人間にしてしまう彼が、世界中の誰よりも憎くて、怖くて、許せない。彼と言葉を交わすたび、指を触れ合わせるたび、抱き合うたび、僕は自分の善性を試されているようで緊張します。彼の前で子どものままでいて、全部を許されていたい僕と、彼よりヒョンになって、年上ぶるその顔を崩したい僕が共存しているのです。亀裂を恐れながらもちゃんと彼に向き合いたい僕と、お互いの体に流れる歴史を全て取っ払ってなりふり構わなくなりたい僕が、共存しています。罪悪感もあります。ずっと彼を師匠とだけ思えていたらよかった。対等になろうとしてしまった僕を許してください。黙って去った僕を許してください。一緒にいられて幸せです。でも結婚できたら、もっとよかったのにとも思います。本当の僕を世界に打ち明けて、社会の形をちょっとでも変えて、彼との結婚が認められたらどんなにやすらげるだろうと、彼に恋した頃から思ってきました。ねえ、ハヌル、知らなかったでしょう。僕がずっとあなたと結婚したかったなんて。そうやって思いを告げ続けていたなんて。あの雨の夜を覚えていますか? 僕は、僕があなただけというあかしが欲しかった。言葉では全然足りず、湖畔の家でも全然足りず、プロポーズみたいなあなたの言葉でも全然足りず、今日もこうやって愚かにあなたと結婚することを夢見ています。……。

 強烈なラブソングだった。

 空の知らないハヌルが、空が聞いたことのない言葉を、未知の音符の上に綴っていく。

 彼に、僕はヒョンと結婚したいとは思っていません、と言わせてしまった自分をおおいに恥じた。まっすぐに愛を伝えてくれたぶれないようなハヌルにも、複雑で矛盾した流動的な感情と思いがあることを、全く理解していなかった。

 全部を話してくれていると思っていたし、全部を知っていると思っていた。

 しかし全部を知ることは、未来永劫決してないのだ。ハヌルはハヌルであり、ハヌルの感情や思いはハヌルだけのものであり、空が所有できるものでは決してない。

 歌詞作業であろうとそれ以外であろうと、ハヌルに全部を話すよう望んでおいて、自分はハヌルが汲んでくれることに甘えていた。もっと会話をするべきだった。ハヌルのような瞬発力で言葉を紡げないのであれば、それをまず伝えればよかった。

 それに、全てを話してくれるよう望むべきでは決してなかった。話してくれること、話してくれないこと、それらの全てを尊重して接するべきだった。

 しょせん他人なのだ。しょせん俺じゃない。

 どんなに愛していようと、他人なのだ。

 俺が全てを理解しようだなんて、俺に全てを話してくれだなんて、そして、俺の全てを理解してほしいだなんて、最初から無理な話だったのだ。――ハヌルが空に溶けることはない。同時に、空がハヌルに溶けることも絶対的にあり得ない。

 空は泣いた。岬にひとり突っ立ったまま、泣いた。

 孤独だった。孤独だったが、体の芯がぼんやり丸くあたたまるような孤独だった。

 孤独はひとりでは感じられない。他人は他人であり、自分のこの感情は自分だけのものであること。

 舞う灰色と一緒にたしかに泣いたが、悲しみだけの涙ではなかった。

 視線に呼ばれた気がして、空は首と上半身を捻り、後ろを振り返った。

 誰もいなかった。曇りの日本海がただ広がっているだけだった。

「……。……」

 なんでもない場所で背後を振り返ると、これまでのたくさんの振り向きがその一瞬に重なる。

 濃いオレンジ色に染まる校舎の廊下が足元から伸びていた放課後、聞こえる運動部の声と頬に当たった髪。物を投げる父親の怒号に顔を上げて、実家の踊り場で立ち止まった冷たいつま先。月の綺麗だった夜、韓国に着いたら連絡してよと叫ぶ佐月の声に大きく頷いてみせた視界の揺れ。泊まる場所もない外国人という身分で影もなくショッピングモールをうろついていた日中、誰でもない自分に確かにエレベーターを譲ってくれた人。うまくいかなかった仕事の取引先から靴擦れの徒歩で帰った早朝五時、とがった空気に白い街灯。初めてハヌルと恋人として過ごした日の帰り道、ピンク色から藍色に染みて泣くほど綺麗だったグラデーションの夕暮れ空と、黒い切り絵みたいだった建物の影。

 いつの振り返るという動作にも、数秒の時間の進行の停止がある。

 足を止めて首をぐるりとして後ろを見たり、歩みを遅めて背後を確認したりする、その振り返る、振り向く、首を捻る、これらの行為は、周囲を五次元の世界にして、過去の空と同化し未来の空に繋がる、重なる事象のようだ。その行為をしている一瞬だけ、時空がぐちゃぐちゃになって何人もの空がそこに立っている。どこかを、なにかを振り向いて一人はっとした瞬間を、空はたくさんの時代の空と共有している。

 だから空は今、たくさんの自分と一緒に日本海を眺めては、声も出さずに泣いていた。鼻の奥をツンと痛めながら、孤独のまま、わかりあえないまま大切な人の傍にいるという選択をしたいと思った。

 ハヌルの新曲『true story』は、予定通り午前零時に世に出てから、あっという間に世界中の話題をかっさらっていった。

 SNSで関連するキーワードがトレンドに入るのを、空は日本の秋田駅前のホテルから見ていた。

 曲に対する反応を見ていると、普段韓国の音楽を聞かない層にも響いたようだった。様々な言語に翻訳されていく中で、やはり、曲中のハヌルが思い人のことを始終「彼」と男性を指す三人称で歌っていることへの注目は強かった。

 この曲をハヌル自身の物語だと受け取って、これまでハヌルが身につけていたレインボーを引用しながら、彼こそがアイコンだと沸き立つクィアなファンの連帯もあった。

 しかし、これはハヌルの模索した策略なのか確かではないが、思い人を「彼」と呼びかけるのと同時に「ハヌル」とも呼んでいるうえ、一貫して敬語を使った言い方になっていたので、多くのファンは、ハヌルが未来の自分へ向けて書いたものなのではないかと解釈してもいるようだった。

 空は、「空」という日本語の単語をそのまま韓国語にすると「ハヌル」になるということを、十八の頃から知っている。

 

 

 

 ハヌルは率直な物言いをするタイプの人物だから、ソラに対してもいつも「愛してます」とか「かっこいいです」とかを素直に伝えてきた。隠し事も得意ではなくて、嘘をつくことも苦手だから、何かを言いよどんだり誤魔化したりすることはそうなかった。

 しかしソラには、ハヌルに不自然に話を終わらせられたと感じたことが、幾度かあった。話題は毎回同じだった。

「マリーモンド?」

「そうです」

 首を傾げるソラに、ハヌルが答える。

「韓国発祥のブランドで、人権擁護に力を入れてるんです。児童虐待被害者の支援とか、性暴力被害者の支援とか……もともとは日本軍『慰安婦』問題に取り組む団体なんですけど」

 と、ハヌルは持っていたマグカップをくるくる回して花の柄を眺めて言った。

 まだソラが聖水洞のマンションに住んでいた頃のことで、その日は仕事帰りにハヌルと食事をすることになり、自宅へ招いたのだった。ソラは料理が得意で上手なので、こうして振る舞うことがよくあった。ハヌルも毎回喜んでくれる。

 二つもらったのでひとつあげますと、モクレンの花を模した絵柄のマグカップを、ハヌルは持ってきていた。食事に入る前にざっとキッチンを片付けて、ソラもダイニングテーブルにつく。

ハヌルはマグカップをじっくり眺めて、やわく微笑んでいた。

「そのマグカップがその、マリーモンド? の物なのか?」

「そうです」

「ふうん……」

「前はスマホケースもここの物を使ってたんです。種類がたくさんあるんですよ」

 ハヌルは寂しげに続けた。

「でも最近、活動休止になっちゃったので買えなくて。このマグカップはファンの方が贈ってくださったものなんです。どこで買ったんだろう」

 ソラはカップを受け取り、まじまじと見た。白地の陶器に、クリーム色と赤色、濃い緑色でやわらかな手書きのタッチで模様が描かれていて、あたたかく優しい雰囲気の綺麗なマグカップだった。

使おうと思いながら、ソラは言った。

「これ、日本のファンはいい反応しないんじゃないか」

「え?」

「いや、だって『慰安婦』問題ってデリケートな話題だし」

 ハヌルの周囲だけ時が止まったようになったので、ソラは多少気まずい思いで付け足した。

「反日だなんだってすぐ言われるだろ。おまえには日本人のファンも多いんだから、あんまりこういう物には触れないほうがいいんじゃないかって」

「は、反日」

 そこの単語は日本語で言ったが、ハヌルには伝わったようだった。

「僕が『慰安婦』被害者を支援する企業のものを使ったら反日になるんですか?」

「そう受け取る日本人もいるってことだよ」

「どうして?」

「よく知らないけど、そういう人が多い。それより食べないか? せっかく作りたてなのに冷める……」

「ヒョンも僕を反日だと思うんですか?」

「いや俺は」

「どう思いますか?」

「……」

「ヒョン」

 食べることが大好きなハヌルが箸に手をつけようともせず、切迫した目で訴えてくるので、ソラは参った気持ちになりうーんと唸った。

 この手の話題は苦手だった。

歴史は義務教育のレベルでしか勉強してこなかったし、日韓の関係となるとさらに敬遠してしまう。実際にこの二国間の仲が良いとは思えないし、これまで父親を始めとする多くの大人たちが、韓国のことを反日国だと揶揄しているのを見聞きしてきた。

 どっちがどう悪いとか、良いとか、正直よくわからない。とにかくその具体的な話題を避けるという方法でしか、これまで対処してこられなかった。

「……」

「……」

 何も言えなくなったソラを目の前に、ハヌルも黙った。

 ハヌルはそれ以降、「慰安婦」問題の話もマリーモンドの話も二度としてこなかった。微妙にその話になりそうな気配がすると遠回りして避けて、ソラとの会話の中でそこに触れることがないよう気を回しているようだった。

 今思えば、韓国語話者のハヌルが「反日」なんて日本語を知っていた時点で、立ち止まるべきだったのだ。

 ソラの中に多くの日本人の大人の声ですり込まれていたこの単語が、父親の声ですり込まれていたこの単語が、鋭利なナイフの刃のように腹の底を刺してくる。

 父のようにはなりたくなかった。彼はソラの夢――韓国で音楽がやりたいという夢――を知ってからというもの、なにかにつけて反日と言いソラを貶してきて、まるで反日という言葉自体が殺傷能力を持っているかのように何度も何度も口にしてきたが、ソラは自分がハヌルに対して、父親にされてきたのと同じことをしてしまったのではないかと気にかかっていた。

 だからといって「慰安婦」問題にコミットする理由はよくわからない。

 ハヌルに日本人ファンが多いことは事実だし、日本の風土だって理解しているのだから、わざわざ火事の種になりそうなものを持ち込んでくる必要はないではないか。事実、これまでも、光復節を祝うコメントをしたことで日本のファンから批判され、インターネット上で炎上した韓国アイドルもいた。そうならないよう努めるのはスターとして当然のことだろう。

 それに、韓国人のハヌルと日本人のソラが付き合っていくにあたっては、別にこの部分の不透明さは解消しようがしまいが関係ないはずだった。過去にそれぞれの国で何かがあったとしても、今、穏やかに暮らせているなら問題などない。

 湖畔の新居にもマリーモンドのマグカップは持ってきた。

 ソラは何事もなかったかのように使っているが、ハヌルはソラの前でそれを見ようともしなかった。その態度がずっと引っかかっていて、今回の帰省で父にまた反日と罵られたことで記憶がよみがえり、空はどうしたものかと悩んだ。

 東京へ戻る前日、佐月に連絡をして一緒に夕食を取った。

 佐月は空の韓国人の恋人に興味を示し、どんな人か、いつ知り合ったのかなど聞き込んできたが、それもそのはず、彼女は韓国文学をよく読むため韓国の文化に興味があるのだ。『82年生まれ、キム・ジヨン』の作者を見かけたことがあると話すと、フェミニズムがどうだとか家父長制がどうだ、日韓の政治がうんたらかんたらと捲し立てて大興奮した。

 それで、ずっと引っかかっていたマグカップの件を打ち明けた。相談するなら佐月だと思った。

 佐月は静かに話を聞いていた。空が一部始終を話し終えると、うんうんと頷いてしばらく物思いに耽ったあとに、歴史を学ぼう、と言った。

 

 

 

 新宿へ向かい、佐月が紹介してくれた施設を目指した。

 人通りのまばらな住宅街を進み、ゆるやかな傾斜になっている歩道を背中を丸めながら歩く。大学が近いのか、すれ違ったり道の反対側で集まっていたりする人達はみな若く、活発そうな様子だった。グーグルマップを見ながら歩いたが、教えられた住所に辿り着くまでに道に迷い、何度か行ったり来たりして辺りを見回した。

 目的の施設が収容されている建物は数階ほどのビルで、ぼんやり歩いていると通り過ぎてしまいそうな場所に位置していて、ここかと確信して扉を潜るまでにまたしばらく時間が経過した。

 エレベーターに乗り込み、二階へ行く。出て曲がると、すぐに『アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館』と標識があるのが見えた。

 静かなフロアだった。奥から人の談笑する気配がした。広い廊下の壁一面に女性達の写真がずらりと並んでいて、ぎくりとした。佐月と一緒に来れば良かったと思った。

 彼女には、

「『慰安婦』問題を知りたいならまずここだよ。被害と加害の資料だけじゃなくて、裁判の記録とか当事者の証言とかぜーんぶあるから。韓国に帰る前に絶対に行ってみて」

 と力説され、強く背中を押されたのだった。

 空はいつもの黒いバケットハットを深くかぶり直し、扉を抜けて中へ入った。

 なるほど佐月の言うように、資料がたっぷりあることは入ってすぐにわかった。広くはないスペースに衝立が何枚も立っていて、どの衝立にも、四方どの壁にも、ポートレートや記事、絵画などが展示してあり、奥の場所には書籍がぎっちり詰まった本棚が置いてある。資料を隅から隅まで見たら、とても一日では見終わらないほどの量だった。

「こんにちは」

 右奥の作業机に座っていた婦人が、空に朗らかに声をかけた。

「ご見学でしたら受付をお願いしますね」

 場違いではないかと緊張しながら、言われるがままに受付を済ませる。スタッフのその婦人は、空の様子を見て「初めて?」と聞いた。

「あ、はい」

「私達にはこれを次世代に継承していく義務があるから、若い方が来てくれると嬉しいし安心します。ゆっくりしていってね。荷物はそこのテーブルに置いておいて大丈夫ですから」

 と、空の背後にあった大きな丸テーブルを指差す。空は言われたとおり荷物を置き、端から資料を見ていくことにした。

 館内には、空のほかに三人ほど見学者がいた。

 一人は、大きく重そうなリュックサックを背負った、長いブロンドの髪を三つ編みにしている青い目の若者で、仕草を見ている限り、スマートフォンの翻訳機能を使って展示物を見ているようだった。留学生だろうか。時折端末に向かって独り言を呟いたり、深く頷いたりしている。

 もう一人は途中で帰っていったが、残りの一人はここによく来る人なのか関係者なのか、棚に軽く寄りかかってスタッフ達と親しげに喋っていた。ソヒョンと呼ばれていて、おやと思う。気になってそちらを見ると目が合い、微笑みかけられた。

「じっくり見ていってね」

 ソヒョンは空より一回りほど年上のような雰囲気があった。

 空はこくりと頷く。

「もし良ければ、軽く解説しましょうか? 戸惑うようだったら」

 さっぱりとそう言われたので、空はまたこっくりした。何も分からない状態で来てしまったので、有り難い限りだった。

 ソヒョンは壁伝いに一から説明してくれた。

 そもそも日本軍「慰安婦」とは、日本軍がアジア諸国等の占領地に設けた慰安所において、軍人たちとの性行為を強制された女性たちを指す言葉であること。日本軍は駐屯したほとんどの地域に慰安所を作り、日本や、当時日本の植民地だった朝鮮、台湾などから女性たちを各地に送り出し、占領した各地で暮らす現地の女性たちも含めて「慰安婦」にしていったこと。「慰安婦」にされた被害者の多くが、「稼げる仕事がある」という言葉で騙されて慰安所に送りこまれたり、厳しい労働環境から逃げ出したところを掴まって連行されたりしたと、語っていること。慰安所の生活環境は劣悪で、中には、女性たちを連行して監禁し、部隊の兵士が輪かんをする「強かん所」としか言いようのない状況もあったこと。行為を拒否すれば暴力を振るわれる中で、明るくいることも強要され、中には極端な選択をする女性もいたこと。戦後、連行地に置き去りにされた「慰安婦」の中には、故郷に帰ることができずそのまま亡くなった人もいたこと。生き残っても心身に重い後遺症が残り、苦しんだこと。戦後も、「慰安婦」制度を設置した日本軍と政府の法的責任は問われなかったこと。性暴力の被害女性たちが日本政府に謝罪と賠償を求めた裁判は、全てが棄却されていること。……。

 知らなかった、では済まされないほどの事実を目の当たりにして、空は絶句した。

 ソヒョンはまるで、何度も繰り返してきたから慣れているというような調子で、淡々と説明をしていた。

 展示されているパネルの中には、朝鮮人「慰安婦」たちの生涯の記録もあった。被害者女性の証言の他に、加害者男性の証言を掲載したものもあった。慰安所に並ぶ日本の軍人たちの笑う姿を撮った写真もあった。空は、その写真からしばらく目が離せなかった。

 黄色く色褪せたモノクロの荒い画質の一枚の中に、今の自分とそう変わらない年代の男性が列を作って笑っている。その笑顔から目が離せなかった。先の建物の中にいたのが日本人だったのか、朝鮮人だったのか、また違う国の被害者だったのかはわからない。ただ、笑うその横顔の剥き出しの残虐性と無邪気な無知に面食らい、今の時代じゃこれは許されないはずだ、と思った。

「あなたは日本人?」

 唐突にソヒョンが聞いてくる。

 空は何度か唾を飲み込んだ。

「はい」

 並ぶ軍人の写真から力ずくで視線を外しながら、頷く。

「でも、普段は韓国に住んでます」

「そう」

「あなたは?」

「私は韓国人。でも普段は日本に住んでる」

 それはどうして、と聞こうとしてやめた。

 考えを読んだのか、ソヒョンはからっと付け足した。

「在日ではないの。パートナーが日本人でね、三年前から東京に住んでる」

「……そうですか」

「あなたはどうして韓国に?」

「仕事で。……最初は。今は大切な人が韓国にいるので、向こうに家も建てました」

「それは素敵」

「彼は今、兵役中です」

「そう」

 ソヒョンは余裕を全身にまとったまま、髪をかき上げて悪戯に笑った。

「おおよそ、『慰安婦』関連のことで言い争いでもしたんでしょ? それでここに来たとか?」

「……」

「当たり?」

 ソヒョンはクスクス笑った。

 鼻から深くため息をつき、空は再び目の前のパネルを見上げた。

 慰安所前に並ぶ日本兵たちが笑顔で立っている。いつかの時代の同年代の横顔。

「俺が無知だったんです」

 空は静かに言った。

「彼に言ってはいけないことを言ってしまったと思う。……日本人として。正直、自分が日本人だってことを都合良く忘れてた」

 ソヒョンは近くに置いてあった椅子の背もたれ部分に腰を寄りかけ、タイトスカートの下で脚を交差させて腕を組んだ。

 そして空の横顔を眺めて、そっと言う。

「どう思った? 今日、これを見て」

 空の目線はまた日本兵の笑顔に捉えられていた。

「知りたくなかったです」

「……」

「忘れたい。忘れて彼に会いたいです。あれは俺じゃないし――と言い、空は並ぶ日本兵の写真を顎で指した――、過去に何があろうと関係ないってことを彼に話したい」

「そう。今まで向き合わないでこられたのね」

「え?」

「今まで、日本の朝鮮侵略や植民地支配について何も考えずに生きてこられた特権があったのね、って言ったの」

 ソヒョンは微笑んでこそいたが、もう笑顔ではなかった。

「過去に何があろうと関係ないって、本当にそう思う?」

「……。はい」

 空は言った。

「彼は、『慰安婦』被害者を支援する企業のグッズを使ったりして、支援する姿勢を見せていますけど、俺はその問題に触れないことが一番いいように思います。変に言い争いも起きないし、『慰安婦』問題は過去の話だし、政府は何かできることがあるのかもしれないけど、俺たちはなにもできない」

「なにもできないって、本当にそう思う? あなたも有権者でしょう?」

「それは……そうですけど」

「いつもは韓国に住んでるって言ってたけど、向こうの人達とこういう話題にはならないの?」

 空は韓国での交友関係を思い返した。

「ならないですね……」

「そう」

 ソヒョンは優しげに言った。

「『慰安婦』問題の話題で口論になって、そのまま喧嘩別れしちゃうような大学生とか、よくいるのよ。きっと、あなたが韓国で暮らしてるときの大切な彼や同僚は、あなたに気を遣って歴史の話をしなかったり、話が膨らまないようにその話題を避けたりしてたんじゃないかな。韓国にいるとき、あなたはもしかしたら、自分が日本人だということを意識する機会があまりなかったんじゃない?」

 ソヒョンの言葉がぐさりと胸に突き刺さった。

 この帰省中に、牧野と会って話していたときにもまさに感じたことだった。韓国にいるときに自分が日本人だと思い知ることはあまりないが、牧野相手のときのように、日本にいるときのほうが自分が日本人だと痛感する。

 それは、韓国人の仲間達に気を遣われていたからだというのか?

「あなたの周りの人はとても優しい。あなただって優しい人のはず。でも、あなたがその大切な人をどんなに深く愛して、どんなに大事にしたとしても、日本がした加害の歴史がなくなるわけじゃない。被害者が救われるわけじゃない」

「でも」

 声のボリュームが無意識に大きくなる。

 空はソヒョンの話を遮った。

「でも、それとこれとは話が別ではないですか。俺が彼を愛していることと、俺の国が昔罪を犯したことは、別の話ですよね?」

「そうやって自分の個人的な感情と歴史は別物、と言えることが特権なの。まずはそこを自覚してほしいと、私は思う」

 ソヒョンは、ハヌルのようなまっすぐな瞳で空を見つめた。

「あなたが自分の国の加害の歴史について何も知らずに生きているあいだ、被害者は毎日毎日、日本から被った害や傷について考えて、苦しんで、向き合ってる。向き合わざるを得ないの。

 あなたがここに来るまで『慰安婦』問題についてよく知らなかったように、多くの日本人は自分の国がした加害について全然知らない。見ようともしないし、最悪なことに、『慰安婦』制度なんてなかったなんて言って、自分たちの都合の良いように歴史を変えようとする人だっている。そんな中、被害女性たちはずっと苦しんで、強制的に向き合わされ続けて、謝罪も賠償も受けないまま、暴力があったことすら認められずに亡くなっていっているの」

「……。暴力があったことすら、認められずに……」

 空は呟いた。

 佐月の家庭、空自身の両親、そしてハヌルのことを思い出した。

「そう」

 ソヒョンは続ける。

「いまだに十分な謝罪も補償もしてない日本政府に対して、あなたはちゃんと責任を感じてる? なにもできないってさっき言ってたけど、なにもできないわけはないでしょう? あなたの国の政府なんだから。あなたたちが選んだ政治家なんだから」

「確かに、そうです。そのとおりです」

「うん。なかったことにしないで、きちんと向き合わないとね」

 ソヒョンは静かに言った。

「戦争は終わってない。被害は消えてない。昔の話だから自分は関係ないと思うかもしれないけど、あなたは今、過去の加害行為が生んだ差別構造のある社会をそのままにして生きてるんだから、これは今を生きるあなたの問題でもあるの」

「差別構造のある社会?」

「日本はかつて、朝鮮半島を植民地支配してたでしょう? それなのに罪を認めずにのらりくらり逃れて、今でも……。文大統領の頃、日本の首相が朝鮮戦争終戦宣言案を突っぱねたこと、忘れられないな」

「……」

「知らなかった?」

「はい。これも特権、ですか」

「そうね。何を思って朝鮮戦争を終わらせたくないのか、私は知りたくもないけど、対等な立場の国だと思ってたらこんなこと言える?」

 空は首を左右に振った。

「日本人の多くは、韓国がちょっとでも日本に刃向かうようなことをするとすぐに反日って言うでしょ? なんなんでしょうね、反日って? 植民地支配からの独立を祝うことが反日? 『慰安婦』被害者に寄り添って、性暴力に反対の立場を表明することが反日? いったい、どの立場から私たちの国を見ているのかと思うわ」

「……」

「あなたは、朝鮮半島が北と南で分断されてる理由に向き合ったことがある? 韓国に今でも徴兵制が敷かれている理由を調べたことがある?」

「……朝鮮戦争が理由ですよね。北朝鮮と今でも休戦状態だから、またいつ戦争が始まるかわからないから、それに備えるために」

「そうね。じゃあその朝鮮戦争が起こった原因は? 他の国が介入して韓国が戦場になってたとき、日本は何をしてた? 今、何をしてる? 日本は韓国の声を聞いてる?」

「……それは」

「あなたは今、韓国の声を聞いてる?」

 空は何も言えなかった。

 横の展示物を見ていた三つ編みの留学生が足を止め、翻訳用に端末を翳したままこちらを見ていた。フロアの奥ではまだスタッフ達が喋っていた。目の前のソヒョンはじっと空を見つめ、それ以上は何も言わなかった。

 それでわかった。

 韓国で自分が日本人だと意識せずに暮らせていた傲慢さ、朝鮮戦争や「慰安婦」問題についてなにもできないと放り出していた無責任さ、個人的な感情と歴史は別物となんの疑いもなく考えていた自分の特権を。

 そして、ハヌルが兵役について一言も相談せずに行ってしまったことの必然性を。彼は、空が日本人だから兵役の話をしなかったわけではなかったのだ。空が韓国の声を聞こうとしない、対話をしようとしない日本人だったから、もう何も言わなかったのだ。

 両親にもう何も言えないと悟ったときの自分を思い出して、腹の底が痛み出した。あの灼熱の諦観を。またナイフの刃だった。

 差別を前になにもしてこなかった自分を恥じた。「慰安婦」被害者を前に何も知らずにいた自分を反省した。そして、朝鮮戦争の終結を妨げている要因のひとつに自分の国がある事実を受け止め、噛みしめた。

 全身から力が抜けて、ふらふらと後退した先の椅子にどさりと腰を下ろした。人ひとり座れる大きさのベンチだった。

 最後に優しく微笑んで去って行ったソヒョンの背中を見送り、放心したまま顔を上げると、ベンチの前の壁に大きな世界地図が貼ってあるのが見えた。地図の中に、数え切れないほど大量の赤い丸が点在していた。それは主にアジア圏内に集中していて、朝鮮半島のみならず、中国やタイ、インドネシアの方面にも広く濃く記されていた。

 浅い呼吸で説明文を見やる。

「日本軍『慰安所』マップ」と書かれていた。

 あまりにも多すぎた。それは血の赤だった。かつてこの国が踏みつけてきた人の叫びが、鼓膜を震わせて吐き気を催させる。絶望と、悲しみと、申し訳なさと、怒りと、戸惑いがぐるぐるに混ざり、空は文字通り頭を抱えた。

 そうか。ハヌルに銃を持たせているのは俺だったんだ。

 どうして知らずに生きてこられたのだろう?

 どうして反日だなんて言えたのだろう?

 どうして今までこんなにも傲慢に生きてしまったのだろう!

 韓国人の女性であるソヒョンに説明をさせていた自分の態度のグロテスクさにも目眩がした。自分はたしかに、日本人の男性だ。差別構造が目に見えるなら、今、確実に人を踏みつけて立っているはずだった。

 とぐろを巻く黄土色の感情の渦が苦しくて、頭を掻きむしった。誰かのあたたかい手がそっと肩に触れたのを感じた。顔を上げる勇気すらなくて、空はただ数回頷いて問題ないことを知らせた。しかし手は退かず、なかなかそこを離れなかった。

 しばらくするとすぐ耳元で、機械の音声が無感情に日本語を話した。

「あなたは日本人です。しかし、日本はあなたではありません」

 頭から手を離して恐る恐る見上げると、肩に手を置いてくれていたのはあの三つ編みの留学生だった。

 片方の手でスマートフォンを持って、無表情のまま、もう一度翻訳機の読み上げ機能を起動させる。

「私はドイツ人です。しかし、ドイツは私ではありません」

 翻訳機が続ける。

「私は戦争をしていないので、自分を責めることはしません。しかし、ナチスの過ちを繰り返さない責任が、私にはあります」

 陽気にも聞こえる機械の女性の声がそう言い、ぶつりと切れた。

「……。ありがとう」

 かろうじて伝えられた一言に、留学生は大きく頷いてキビキビと歩き去っていった。ついさっきまで見ていた展示物の前に戻り、また粛々と翻訳機を掲げ始める。

 くしゃくしゃになった髪がはらりと落ちてきて、瞼をくすぐった。ずれ落ちていたマスクをしっかり上げて顔を覆い、ハットをしっかりかぶり直す。

 空は立ち上がった。立ち上がるしかなかった。

 それから閉館の時間まで、館内の資料を見てまわった。そこを去るときには空以外の客は誰もいなくなっていて、ソヒョンの姿すらなくて、彼女にきちんと感謝を伝えられなかったことを悔いた。

 受付近くの丸テーブルに置かせてもらっていた荷物を取って、スタッフの婦人に礼を告げ、扉を潜ってエレベーターに乗り込む。

 列に並ぶ日本兵の笑顔が、まだ脳にこびりついていた。

 

 

 

「ハヌルに連絡は取れますか」

「え? 今ですか? 無理ですねえ」

 電波の向こうで、ハヌルのマネージャーがきびきび言う。

 空は六本木のホテルから韓国に電話をかけていた。

「入隊中って、電話できる時間帯が限られてるんですよ。それに他の人と共有の軍の電話しか使えないから、場合によっちゃ自分の番がこないうちに時間切れになったりするし……」

「……そうですか」

「あ、でも今ってもっと緩くなったんだっけ? 携帯も使えるようになったとか聞いたことあります。僕の頃は厳しかったんですけどねー」

「はあ……」

「ハヌルから電話するよう伝えておきましょうか? あなたにだったらすぐ電話してくれるでしょう。親友みたいなものですもんね?」

 親友か。

 とにかく、マネージャーはソラとの電話のあとハヌルに一報入れてくれたようで、数分後、メッセージアプリにその旨の報告が送られてきた。何時に電話がかかってくるかはわからないらしい。ソラはスマートフォンのマナーモードを解除し、念入りに握っておく。

 これは賭けでもあった。おそらく対話を諦めてなにも言わずに入隊してしまった彼が、また空と意思を交わそうと思ってくれるかどうかは、彼の手に委ねられている。

 思い立って新大久保へ向かった。

 ここは、牧野が「行ってみたらおもしろいんじゃない?」と言っていた場所だった。空自身も昔、一度くらいは行ったことがあるような気がするが、着いてみるとそこに空の知る新大久保はもうなかった。

 まず若者が多い。そして随分と賑やかだ。駅から少し歩くと韓国料理店が散見されるようになり、韓国コスメやKポップアイドルのグッズが展示されている店舗が増え、気付くとコリアンタウンの中にいた。

 アイドルたちのポップやポスターが多い店々に目を向けると、ちょうど今日誕生日を迎えたどこかのグループの誰かがいるようで、透明感のある綺麗な写真で作られたグッズが山積みになっていて、その周囲にはカラフルな文字バルーンで「ハッピーバースデー」と象られていた。その他にも様々なアイドルたちで彩られたショーウィンドウがたくさんあり、誕生日だろうとそうではなかろうと、とにかく祝福されているようだった。

 ハヌルのゾーンも当然あった。店の一角を、すべていろいろな種類のハヌルの写真で埋め尽くし、入隊中の無事を願うメッセージが書き込まれていたり、数ヶ月前の誕生日を祝った形跡があったりした。

 こちらに向かって笑いかけてくる大量のハヌルを前に、空は立ち尽くした。

 バケットハットのつばの影で黒くなった顔の中で、瞳だけが生気を帯びて光っている。空の見つめる先のハヌルは動かず、ただ柔らかに微笑み続けている。

 誰かが撮影した、ライブ中のハヌルの写真があった。化粧水の瓶を持っている広告のハヌルもあった。そうだ、あいつはあのメーカーの化粧水を本当に普段使いしていたから、広告の仕事を受けたとき嬉しそうだった。空は思い出す。最新アルバムのコンセプトフォトのポスターもあった。あれを撮影した現場に空はいなかったが、あの衣装で使った暗い銀河のような柄のシャツを彼はいたく気に入って、スタイリストにねだって持ち帰ってきていた。アイスクリームを持っている等身大パネルもあった。等身大のはずが実物より大きく感じた。

 棒立ちの空と紙状のハヌルの間を、若者たちが横切っていく。

 若者たちはみなアイドルのキーリングをつけた鞄を持っていたり、韓国グルメを食べていたり、グッズやライトスティックを抱えていたりした。

「あのー」

 呼びかけられ、バチッと我に返った。

「写真撮らないなら、先に撮ってもいいですか?」

 トートバッグに可愛らしいマスコットをぶら下げた、制服姿の子だった。両手で持ったスマートフォンのケースには花柄が刻まれていて、「ハヌル」と韓国語で書かれた手作りのキーリングが揺れている。

 空が場所を譲ると、その学生はぺこりとお礼をしてから、ハヌルが大量に飾られているゾーンの写真を撮影し始めた。同じポスターや等身大パネルを、あらゆる角度や画角で何枚も撮っていた。

 ハヌルの熱心なファンらしく、よく見たら制服のシャツの上に羽織っているパーカーはハヌルのワールドツアーの時のグッズだったし、トートバッグのマスコットはハヌルが挿入歌を担当した映画に出てくるキャラクターだった。

 様々なポーズのハヌルを撮りまくる目の前の学生を眺め、空は久しぶりに穏やかに口元をゆるめた。

「撮りましょうか、写真」

「えっ?」

「ツーショットで」

 声をかけると、学生は勢いよく振り向き、何度も感謝の言葉を繰り返しながら恥ずかしそうに等身大のハヌルパネルの隣に並び、ピースをした。

「連写で撮ってもらえますか?」

「れん……?」

「あっ、あの、連写で」

 学生は急いで戻ってきて、ぽかんとしている空の手元でスイスイとスマートフォンを操作し、ここを押せば自動で連写になるのでそれで撮ってください、と言った。明るく上気した調子で言うので、いじらしくてつい笑ってしまう。

 動かないハヌルの隣でポーズを取るその子にレンズを向けて、教えてもらった部分を押すと、カシャシャシャシャという確かに連写したような音が鳴った。

 撮り終えて端末を返したとき、学生はありがとうございますの「ざ」あたりで口ごもり、空の顔をまじまじと見た。そしてハッとする。

 バケットハットの下で、あ、これは、と思っていると、ずばり言い当てられてしまった。

「も、もしかして、ソラ……フジエダソラさんですか?」

「……あ、あー」

「違ったらごめんなさい! そうですよね、よく考えたら日本にいるはずないし……」

「ええと」

「そっくりさんですか? え、めっちゃ似てます!」

 そっくりな別人だと思われたままでもよかったが、このときの空はなんとなく間違いを訂正したい思いだった。

 ハットとマスクで顔を隠していて、しかも日本にいるのにすぐにわかるだなんて驚く。どんな姿格好をしていようと、どこにいようと、いつだって自分は自分でしかあり得ないのに、見つけて認めてもらえただけで今は嬉しい。

 本当にハヌルの活動をよく見て応援してくれているのだろうと感じ入ったし、別の観点からも、心からありがとうと思った。

「あの、そっくりさんじゃなくて俺、そうです。藤枝空です」

「へっ?」

「ハヌルのファンでいてくれてるんですね」

「え? え、でも、韓国に住んでるんじゃ……」

「帰省中なんです」

「ほんとうに? ほんとにソラさんなんですか?」

「スタッフ証とか見せれば信じてもらえますか? これ……」

「ぎゃー!」

 その学生は、会社に出入りするための証明証に空の名前と写真を確認すると、文字通り飛び上がって両手で顔を覆った。

「ごめんなさい、私びっくりして! あ! あの、いつも曲聞いてます、私ハヌルが大好きで、でも、ハヌルの歌う曲が最高なのはソラさんがいるからだと思っていて、ええと……」

 学生は手でぱたぱたと顔を煽いだ。

「こ、これからもハヌルをよろしくお願いします! っていや、なんか親みたいなこと言っちゃいましたけど、そうじゃなくて! っあの、最新アルバムも全部最高でした、私ずっと聞いて……今も!」

 と、スマートフォンの画面を明るくし、音楽ストリーミング配信アプリを見せる。

 ハヌルの最も新しいアルバムに収録されている一曲だった。空が作詞作曲してプロデュースしたものだ。

「ありがとうございます。俺というより、ハヌルも感謝してると思います」

「いえ、あの、こちらこそありがとうございますというか、こちらがありがとうございますというか」

 学生はとびきりの笑顔をみせた。

「ソラさんの音楽が大好きです!」

 別れ際、その学生がずっと握りしめていたスマートフォンのケースの柄が何だったかを、不意に思い出した。

 あれはモクレンの花だった。やわらかな手書きのタッチで描かれた、優しい絵だった。

 

 

 

 ハヌルは歌手としての活動のみならず、有名ブランドの顔になったり、モデルをやってみたりと、ファッションに関する仕事に携わることもあり、以前、ファッションウィークの中でも特に注目されているブランドのショーに招かれたことがあった。

 そのブランドのグローバルアンバサダーに新たに任命されたハヌルの名は、あらゆる国のあらゆる世代から人気のKポップ歌手としても知れ渡っているものだったし、彼の持つ気品とあふれる凜々しさ、人柄には、そのブランドの全てが合致していた。

 国境を越えて、様々な場所から主要メディアが集結していた。誰もが、抱えたカメラのレンズにハヌルの姿をとらえることに命を賭けていた。一ミリでもハヌルが、ハヌルの体の一部が画角に収まればそれであっぱれだし、目線なんてもらえた暁にはその場ですぐさまSNSに投稿するようだ。ハヌルの行く先の情報をどうにかして入手して、先回りして構えて、シャッターチャンスを逃すまいとみなが必死だった。

 スポットライトに出ていく前のハヌルは、暗く陰っているレッドカーペット袖の隅で、韓国から一緒に渡仏してきたソラに向き合っていた。

 普段であれば、ハヌルのファッションの仕事にソラが同行することはない。ただそのときは、フランスの歌番組に出演する予定があったうえに、新曲のミュージックビデオの生歌バージョンを収録する予定もあったから、音楽監督として一緒に来ていたのだ。

 ハヌルの顔には緊張が窺えた。

 彼はあくまで歌手であり、ファッションに関する仕事は本業ではないから、不安が大きいのだと前に吐露していた。ステージ裏ではあまり見ない種類の気の張り方が窺える。

 その背後では、ジャケットを羽織った屈強なボディーガードたちが、ハヌルの行く先の安全を念入りに確認していた。

 誰もが、ハヌルがどこへ行くのか知りたがった。これからどこへ向かうのか、その方向の情報を掴みたがった。

 ハヌルは緊張を飲み込みながら深呼吸した。ついさっき車から降り立っただけですでに十年分の写真を撮られたような雰囲気だったが、そんなものでは許さない、と、静寂の中、レンズの数々がハヌルを待っていた。

 腰の前でそっと、自分の体の影で隠すようにして、ハヌルの指がソラの指を引っかける。ソラが黒いサングラス越しに見つめると、目を爛々とさせたハヌルがもう一度深呼吸をしたところだった。

「いっておいで」

 そう言うと、ハヌルは何も言い返さないまま、視線だけで頷いた。

 指がゆっくり離れていく。彼はソラの虹彩の底の意思を見抜くように瞳をじっと見たまま、数歩後退して、やがてくるりと背を向けた。

 ソラの手は、ハヌルの指に触れていたときの格好のまま固まって、しばらく動かなかった。

 鈍い残像を落として動く人々の波々のなか、ハヌルの後頭部が現れては消え、現れては消えながら、どんどん小さくなっていった。

 それがふとした拍子で立ち止まる。どうしたのかと思って目を見開くと、数メートル先で人混みに埋もれるハヌルが、誰かの肩と誰かの肩の間からソラのほうを振り返った。

 時間の流れが止まる。

 やがて照明の届く範囲が徐々に広がっていき、ハヌルが立っている位置を飲み込んで照らし始めた。そのおかげで、そこに立っている人がチェ・ハヌルだと気付いたカメラマンが、鋭いシャッターを切った。同調するようにして、向かいの報道機関もカメラを構える。シャッター音は一瞬にして世界中に広まった。

 ひっきりなしに降る雷光のようにまばゆいフラッシュが炊かれ続けても、ハヌルはいつまでもソラの瞳の底から目を反らさないように思えた。が、ある瞬間にぷつりと視線を外して、一瞬にして人の波の中へ消えていった。

 手を離すことに痛みがあるようではいけないと、理性では思う。その痛みがあるようでは、ハヌルをハヌルとして、自分ではない別の個体として尊重することが難しくなってしまう。

 彼の感情も、言葉も、行動も、全てが彼だけのものであり、他人である空が所有できたりするものでは決してなく、強制しようとしていいものでも決してない。

 空との対話を諦めて黙って去ることも、ハヌルだけの音楽を作って歌うことも、全部がハヌル次第でハヌルの自由だ。空は空だから、そこに干渉してはいけない。彼の離れる自由も、変わる自由も受け入れて、穏やかに指を離しておく。

 シャッター音がけたたましく鳴り響く中、パリにいる空が、ハヌルの指に触れていた手の形をゆっくり崩していく。スタッフのひとりが、ソラさん、とその固まった背中に呼びかけた。空は振り向いた。同時に、六本木のホテルの廊下を歩いていた空も背後を振り返った。たった今閉めた部屋の中から、携帯電話のバイブレーションの音が聞こえたような気がしたからだ。

 ハヌルのマネージャーはすぐに電話がくるだろうと言っていたが、実際に着信があったのは、あれから数ヶ月が経ってからだった。

 慌てて部屋に戻り、ベッドの上に放り投げていた電話を取って着信元を確認する。

 ハヌルの番号だった。明日韓国へ帰ろうというタイミングで、ホテル上階のレストランでひとり夕食を取ろうとしていたときだった。

 小刻みに震える手で耳に当てる。

「もしもし?」

 久しぶりに韓国語を話した。

「……ヒョン?」

 それは本当にハヌルの声だった。

 電話をぎゅっと耳に押しつけた。

 言葉が出なくなり、押し黙る。

「あれ、いま電話しちゃまずいタイミングでした? すみません」

 そんなことないと咄嗟に弁解することもできず、空はベッドの脇に突っ立ったまま耳だけを澄まし、華やかな装飾が施してある照明とオブジェを横に、大きな窓に寄りかかって体重を支えた。

 自分を抱き締めるように腕を掴む。

「ハヌラ」

「……はい」

「元気?」

「はい。死んではいません」

「冗談にならないことを言うな」

「こんな冗談でも言わないとやってられないですよ」

「……そうだよな」

「はは、やだなあ、冗談ですって。普段通り元気です」

「それなら、よかった」

「マネージャーから、ヒョンに電話するように言われたのでかけたんですけど。……すみません、遅くなって。仕事の話ですか?」

「いや、めちゃくちゃプライベートの話」

「なあんだ、そっか。じゃあ遅れてもよかったですね」

「いつだってよかったよ。忙しいんだろ?」

「うーん、電話する時間くらいはありますけど。ただ」

「ただ?」

「僕にも気持ちの整理が必要だったので」

 彼は何も変わらなかった。ソラのよく知るハヌルのままだった。

 この一年半、何度夢に見たかわからない。どれだけ謝りたくて、どれだけ隣に並びたかったか。消えていく指先の温度と一緒に祈り続けた。

 ハヌルは胸を詰まらせる空には気付かず、まるで昨日も電話していましたみたいな調子で、飄々と雑談をし始めた。軍の寝具がどうだとか、訓練がこうだったとか、食事中にファンに会えたとか、云々。最後あんな風に別れたことなどなかったかのように振る舞う彼の話を聞きながら、大人だな、と自然に思った。

「ヒョンは元気でしたか」

 うんと空が応える。

「今、日本にいるんだ。おまえの入隊中、休暇をもらってて。……といっても明日からまた韓国で仕事だけど」

「ヒョンが帰国するなんて珍しいですね。初めて聞きました」

「韓国に渡ってから初めて帰った」

「どうでした?」

 空は、東京の夜景に重なって窓に反射する自分の姿を見つめた。

 バケットハットとマスクで顔を隠していない自分の顔を、久しぶりに見た。健康そうにも見えたし、疲れているようにも見えた。

 ただ紛れもなくそれは空自身で、どこまでも自分の姿だった。

「いい帰省だったと思う」

「それはよかったです」

「ただ、実家にはもう帰らないと思う」

「……そうですか」

「家族の話、全然してなかったよな」

「そうですね。……聞きづらかったです、正直。この手の話題を避けてることには気付いてたので」

「あとで聞いてくれるか」

「もちろん」

「あ、そうだ、おまえにお土産があるんだっけ」

「お土産?」

「こないだマリーモンドのポップアップショップに行ってきて」

「え、……えっ? 何て?」

「マグカップはそこにはなかったけど、違う物をいくつか買ってきた。日本では製造続けてて買えるみたいで」

「……」

「おまえにマグカップ贈ってくれたファン、日本人だったのかもしれないな」

「……ヒョン」

「ハヌリ」

 一瞬、誰かの肩と誰かの肩の間に消えていくハヌルの背中が脳裏に浮かんで、空は口をつぐんだ。

 そして、それが遠くなっていくのを見送ってから、大きく息を吸う。

「ハヌリ、俺はおまえを――」

「待って待って!」

 勢いをつけたところで止められて、空は急ブレーキを踏んだ。

 ハヌルは電話の向こうで声量を抑えた。

「ヒョン、落ち着いて。こんな電話で何を言うつもりなんですか?」

「何って、言いたいことを」

「あとにしてもらえますか?」

「もしかして軍の電話で話してる?」

「いや、自分の携帯ですけど」

「じゃあなにが問題なの」

「だってそんな、ヒョンが僕に話したいことなんて、直接聞きたいじゃないですか。ヒョンの顔を見ながらちゃんと聞きたいです」

「おまえ……」

 空は冷えた窓に額を押し付けた。

「おまえって、俺のことすごく好きなんだな……」

「はあ?」

 ハヌルは素っ頓狂な声を出した。

「まだ伝わってなかったんですか?」

「辛抱強く俺を愛してくれてありがとう」

「……。僕は意外と一途なんですよ。知らなかったでしょう」

「知ってたよ。あの雨の夜に急に俺んちに来て恥ずかしいセリフ言ってたのは、何年前のおまえだったっけ」

「あーもう、意地悪に磨きがかかってますね」

 世界でハヌルだけ全部の正解を知っているような、ハヌルだけ違う色で泳いでいるような、そんな感覚が空の全身を包んだ。

 圧倒されるような出会いがいくつもあったし、忘れたくない孤独もたくさんあった。ごめんと言いたくて、ありがとうとも言いたくて、でもそれよりもずっとハヌルの言葉を聞いていたい。

 消したくないのは、大きな歴史の一部に流れるこの未熟で無知な全身全霊が、愛おしい孤独を抱えたまま、それでも彼の隣に並んでいたいと祈る、この指だった。

「ヒョン、僕、あと三ヶ月で家に帰ります。待っていてくださいますか」

 至極丁寧な敬語だった。

 空の知らない海を泳ぐハヌルの歌が聞こえてきて、窓の外の深い夜空を、プリズムから伸びる多色が満たした。

「新曲、よかったよ。うまく書けてた。いい曲だ」

「……泣いてるの? ヒョン」

 涙が止まらない。

 どうにも喋ることができなくなったので、ぐちゃぐちゃになりながら電話を終えた。ハヌルは最後にソラを呼び止め、音の線が切れる直前にこう言った。

「僕はもう、僕があなただけというあかしなどいりません」

 チェ・ハヌルはチェ・ハヌルであり、藤枝空は藤枝空であることを、二人はようやく噛みしめた。

 しょせん他人だ。しょせん俺じゃない。

 握った誰かの指はいずれ離さなければならない。涙を拭ってくれるのは誰かの指じゃない。自分の指だ。人生の終幕に指を握ってくれるのは、自分の指だ。

 どんなに愛していても溶けられないし、溶け合えない。どうしようもなく個体同士だった。

 結局俺たちは孤独のまま、わかりあえないまま傍にいるしかない。共に戦うことができる相手と、一緒の方向を見つめて、お互い孤独のまま隣に並ぶ。

 

 

 

 愛は消耗品ではない。

 愛はあちらから自発的に芽生えるものだが、それの存在を維持させたいのなら、咲いたらあとは勝手にどうぞとしていいものではなく、日々丁寧に水をやり続けないといけないものだ。相手だけではなく、自分の植木鉢にも自分でじょうろを手向けて懇々と育んでいく、その努力がいる。

 それさえ怠らなければ、きっと距離が開いて相手の姿が見えなくなろうと、すれ違いが起きて相手の感情や思いを見失おうと、何も問題は起こらないはずだ。

 相手の領域を守ること。愛情を行動にした自分を信じること。お互いの自由を保障して、お互いを解放するような関係性でいること。

 枯れぬよう。明日も咲くよう。

 兵役の義務に就いた青年がその期間を終えて、一般社会に復帰することを、転役するという。除隊という言い方もあるが、入隊の期間を終えても軍人としての身分が終わるわけではなく、現役兵から八年間の予備軍に転換されることになるので、転役という言い方を使うことも多い。その後は、四十歳まで平時の兵役義務対象期間が続く。

 ハヌル転役の日、ソラは迎えには行かなかった。

 湖の畔の自宅に帰って、リビングに飾ってある観葉植物の世話をしていた。

 その日は曇りで、昼間だというのにずっと薄暗く、少し肌寒かったから、ソラは薄手のカーディガンを羽織って珍しくココアを飲んでいた。午前中のウェブミーティングを快調に終わらせて、やりたかった作業もひととおり終えて、すっきりした心持ちだった。

 ソラは韓国に戻ってきてから、また自宅を中心に仕事をこなすルーティンを粛々と続けていた。機会に恵まれず、結局、入隊期間中にハヌルに会うことは一度もなかった。そうこうしているうちに満期転役のときがきて、今日、ハヌルが帰ってくる。

 先月からハヌル転役のニュースは世間を騒がせているものの、当日の今日は特にしっかり報道されていた。メディアのライブ映像も、ユーチューブで配信されている。

 ファンもメディアも、人はみんな、ハヌルがどこへ行くのかを知りたがった。しかし空は、ハヌルがどこへ帰るのかがいつも気になる。

 大切なひとのことは縛りつけるより解き放つほうが勇気がいる。どんなに高く飛んでも、どんなに遠く羽ばたいても、地に戻ったときにまた俺を呼んでくれるなら、俺はおまえの家になるためになんだってしよう――空は思う。

 献身ではない。自己犠牲でもない。俺はただ誰とどこにいようと、おまえがその体に抱えている生命の数々がどうか今日もこの世界で呼吸をしていますようにと、そう祈っているだけなのだ。

 満期転役といっても、彼がひとりの兵士になったことには今後も変わりない。有事の際には前線に立ち、実際に戦争の中で戦闘をするのだ。朝鮮半島はいまだ統一されていない。その要因に日本の過ちが大きく関係していることも、今のソラは理解して受け止めていた。昨日も会社に用事があった帰りに、駅前のデモに参加してきた。

 スリッパの底が磨かれたタイルを撫でる。ゆっくり、リビングのひらけた空間の中心に置いてあるグランドピアノに近寄り、白い鍵盤のひとつを唐突に指で跳ねた。ぽーんと音が伸び、溶け、消えた。

 テーブルの上には香りのないキャンドルが灯っていて、ゆらゆら覚束ない雰囲気で光の輪を揺らして、明るかった。ずっと見ていると視線を反らしたときに視界に影の痕ができて、少し目にしみた。痛くはなかったが涙が出た。

 木の葉が触れ合う薄い音の向こうに人の気配を感じた気がして、顔を上げた。湖を囲うように立っている木々が風に踊り、緑の葉を宙に浮かせていた。波のない水面は群青色のゼリーのように、たまに左右にだけ動いていた。

 玄関が開く音が聞こえた。

 ソラは瞼を伏せた。

 次に目を上げたときにはハヌルがそこに立っていて、湖はまだ揺れていた。

「おかえり」

 ソラは笑った。

「おかえり、ハヌラ」

「ただいま。空ヒョン」

 と、ハヌルが微笑む。

 彼はまた身体が立派になったようだった。どれだけ過酷で厳しい訓練を乗り越えてきたのか、空には想像することしかできない。

 どちらともなく歩み寄って、肩を抱き寄せた。ソラはハヌルの肩口に頬をこすりつけて、彼の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。後頭部を優しく手で押されて、もっと深くまで沈んだ。ハヌルのほうも鼻先をソラの髪に埋めてその香りに目をつむっていて、冬の森林の幹のような模様の玄関先で、汚れたままの服を着ていることも忘れて、しばらく黙って抱きしめ合っていた。

 何分が経過しただろうか。ハヌルの手の中でスマートフォンの端末がブー、ブー、と震え出して、二人はやっと現実世界に戻ってきた。

 ハヌルはすぐに離れようと動いたが、ソラがそれをぐっと引き止めた。

「ごめん」

 ソラが言う。

「ごめん。ほんとうに」

 胸の中でハヌルはごそごそ身動きすると、二本の腕をすぽんと引っこ抜いて、流れるような手つきでソラの頬を両手に包んだ。それから顔ごと自分のほうに引き寄せてキスをして、次の言葉を待つようにじっと目を見つめた。

 眠そうに垂れた目尻が、前髪の影でもっと緩んだ。

「おまえだけだよ」

 と、ソラが。

 ハヌルは微笑んだ。

 

 

 

 夢を見ていた。

 いつかの自宅での出来事を復習するような夢だった。どんな音も反響する石壁の部屋に、オーガンジーをそうっと撫でるような、恐ろしいほど緻密で揺れない旋律が響いている。小節の途中でブレスをした唇が呼吸をしてすぐ、次の小節へと未練なく移動していく。長い前髪に隠れている目元はここからでは見えないが、眉がきゅっと寄せられているシルエットは窺えるから、きっと今とても切ない表情をして歌っているのだろう。窓の外は雨だった。

 ハヌラ、と、名前を呼ぶ。

 彼は区切りの良いところまで歌い上げると、喉を会話用の形に整えるかのように儀式的に深く息を吸い、のんびりこちらを振り向いた。なんですか。と、目が言う。

 この人間は、狭い部屋にしまい込んでおくには破壊力がありすぎるが、大衆の面前にひとりで立たせておくには繊細すぎる。

 例えば、あまり人の往来のない秘めた美術館の地下二階、空調が最高質に整えられた展示室で四方をガラスで囲んで立たせておくなど、それなりの扱いで掲示しておけば良いのかもしれない。知る人ぞ知る価値、程度にとどめておけば、いつかやって来る終焉を恐れずに、雑念なく永久に堪能できる。

 なんと残酷な思考だろう。

「歌い方を変えようと思ってるんです」

 話しかけたのはこちらだというのに、ハヌルは構わず勝手に話題を持ち出してきた。

「曲に合わない歌い方になってるし、歌いにくい感じもするし」

 まるで調律の整ったピアノの鍵盤が世界一のピアニストに弾かれるように、周波数がぴったり合ったラジオが音の良いオーディオ機器で再生されるように、彼の喉から突然、不気味なほど音程の合った音楽がまた奏でられ始めた。

 悩んでいるという箇所に到達すると、彼は小首を傾げてオーディオを停止し、同じパートを何度もリピート再生した。

 もったいないと思ったのはどうしてだっただろう。

 声帯は、厳密に言えば確かに消耗品なのかもしれないが、別に充電の残りがパーセンテージになって表示されているわけではない。こすれば消しカスになって角がとれていってしまうわけでもない。それなのにどうしてか、彼のボーカルを聞いていると稀に、「もったいないからもう歌ってくれるな」と言いそうになることがあった。

 何度も再生すれば、CDの表面は削れてしまう。何度も叩けば、ピアノの線は切れる。電池がゼロになれば、携帯端末の電源は入らなくなる。消しゴムは汚れてなくなってしまう。

 顎を上げ、目を伏せ、溺れるように猫背で歌うハヌルが怖くなる。ソラは少し動揺した。

「そのままでいいと思うけど」

「え?」

「歌い方。そのままですごく良いよ」

 ハヌルはうーんと唸った後に、納得いっていない表情でそれでも「わかりました」と言った。

「ヒョンがそう言うなら変えないでいいや」

 ちょこっとだけ微笑んだハヌルは満足そうだった。

 尊敬、という情を向けられることには多少の恐怖がある。複雑だ。

 この、いつの間にか一人で歩けるようになってしまった大きなダイヤモンドの原石に、生活におけるある瞬間で急に尊敬や愛情を向けられると、戸惑うことがある。違う、俺はそんなに立派じゃないんだよと、きっと意味のない弁解をしたくなるし、幻滅させるだろうからごめんねと、背中を向けられるいつかのために予防線を張っておきたくもなる。

 ソラは下を向いて微笑んだ。敵うわけがなかった。

 離れられるときは、そのときはそのときで、失望されることも、離別も、コントロールすることはできない。誰かと生きていくことを決意する瞬間には、その人を失うかもしれない恐怖を受け入れなければならない重さもある。

 初めて、誰かを愛することが怖いと思った。愛するものが増えるたびに発生するリスクのことを、あまり認識していなかった。手放さなければならぬときの絶望も。その終わりがいつかくるという恐怖も。

 人を、自然を、世界を、まごころをもって愛することにこんなにもつらいものが一緒にあったなんて、どうして誰も教えてくれなかったのだろう?

 ソラは、いつかきっと失うであろうハヌルの眼差しに、

「さっきのとこ、もう一回歌ってみて」

 と声をかけた。

 ソラが目を覚ますと、シーツの海の上で、ハヌルの胸が波打つ海面のように上下しながら呼吸を繰り返していた。

 その向こうには、浅瀬のような水色をした空が見えた。不安定な線状になって並ぶ雲は打ち寄せる波だ。ベッドに投げ出されたハヌルの腕の肌には、優しい強度の朝の日光が降り注いでいて、汗でしっとりした素肌に宿る命の輝きを真珠のようにさせていた。

 自宅の寝室だった。

 もう朝か。

 ぐっすり眠れた感覚はずいぶん久々で、すぐに冴える脳に驚いた。視力がよくなった気さえする。なにか夢を見ていた気がするが、何の夢を見ていたのかは思い出せなかった。

 どうやらハヌルのほうを向いて寝ていたようで、目を開けるとすぐ彼の横顔が見えた。

 眠そうな角度で天井を見上げている瞳、細かく震えるまつ毛、力なく薄く開かれた唇、そこから漏れる植物の息吹みたいな呼吸、少し伸びかかった黒の髪。裸の四肢は彫刻のようだが、そこに確かに息づいている生命はまるで、全身を使ってこの星の自然を体現しているかのようではっとする。

 瞼に引っかかっていた毛布のほこりを指先ですくい、引っかかりを取ってやると、ハヌルはゆっくり隣に顔を向けてソラと目を合わせた。潤む虹彩は天然の鉱石だ。ぼうっと、かすれた声でそして、ハヌルは「早起きしちゃいました」と微笑んだ。

 今、俺が見ているこの世界の永遠の光景を、そのままハヌルにも見せてあげられたらいいのに――ソラは思った。

 切なくてたまらなくなって、何も言わないまま抱きしめた。放り出されていた手を手で包む。腕の筋肉の隆起はソラより立派で、胸筋も、太腿も、どこもかしこも生きとし生けるものの生命力の強かさを表していた。

 どんな装飾の語を駆使しても、表現しつくすことなど到底できまい。今や世界中の芸術家が彼を絵画にしたがり、石像に彫りたがり、フィルムに撮影したがり、譜面に落としたがっている。彼の声は天使の賛美歌で、死神の鎮魂歌だ。

 ソラは美術に明るいわけではないし、話術に長けているわけでもない。だから、様々な記事やレビューでハヌルについて熱弁する評論家のように彼のことを言い表すのは難しいが、ハヌルに触れているという事実を前にしては、長けた知識だろうが優れた話術だろうが、他の何もかもが非力だった。

 音楽家にとってハヌルは完成品そのもので、芸術家にとってハヌルはアートそのものなのかもしれない。しかし、今のソラにとってハヌルはハヌルでしかなく、それ以上でもそれ以下でもない、今ただ愛する人を見つめているという事実がここにあるだけだった。

「ヒョン」

 ハヌルが言う。

 ソラは体を離し、彼の話に耳を傾けた。

「今日、ファンの皆さんに転役の挨拶をするんですけど」

「うん。事務所で生放送するんだっけ?」

「はい」

 ハヌルは仰向けに寝て天井を見上げながら、静かに話した。

「そのとき、カミングアウトします」

「……そっか。ついにか」

「代表もさすがに折れてくれました。僕が言いたい、言いたいってあんまりにもしつこいから」

 ハヌルは笑う。

 そしてすぐにすっと表情を落ち着け、続けた。

「それで……、もしヒョンさえよければ、今付き合ってる人がいて、それが藤枝空さんですっていう話も、一緒にしたいんです」

「え?」

「もしよければ、ですけど」

 ハヌルがカミングアウトしたがっていることは知っていたが、恋人を公表したいと思っていたとは全く気付かずにいた。想定外だった。

 驚いて上半身をつい起こす。

「言いたいの?」

「言いたいです」

「どうして? 入隊前にあったあのスキャンダルのことで?」

「それもありますけど……」

 ハヌルは考えるように沈黙し、少し目を泳がせてから、したたかに言った。

「この芸能界も、この社会自体も、個人の恋愛事情や人間関係について調べ上げられたり、探られたりして、それが事実であろうとデタラメであろうと、他の人から騒がれるのって変だと思いませんか?」

「それはたしかに」

「それで、誤解されないようにとか、騒ぎを鎮めたいとかの理由で、恋人の有無や性的指向をわざわざ公表しないといけない風潮ができてしまう。それは間違ってると思います。間違ってると思うから、僕は言います。言って戦わないとなくならないでしょう」

「うん……」

 ソラは再び身を横たえた。

「他人のことは他人のこと、っていう意識があんまりないのかも。自分のようじゃない人が周りにたくさんいて、それぞれがそれぞれの人生を送っているっていう認識が薄いのかもしれないな」

「そうですよね」

 ハヌルは同意する。

「カミングアウトもそうです。性自認も性的指向もみんな同じなわけがないし、限られた型に必ずしも当てはまるわけでもないのに、自分の想定と違うものが現れると拒絶してしまったりする。だから僕のような人がカミングアウトしていかないと、こういう人もいるんですと名乗らないと、何も変わらない」

 それから、ハヌルは付け足した。

「もちろん、言いたくない人や言えない人に、同じようにしろと強制するものではないです。僕がそうしたいだけです。早く誰もカミングアウトする必要のない社会になればいいな……」

 報道機関を通じてとか、スキャンダルを待ってとかではなく、ファンと交流するためのアプリで行なう生放送で発表したいと望んだのはハヌル自身で、ソラも同意した。いや、これに関してはハヌルの問題だから百パーセントハヌルの意見に従うつもりだったが、それでも一番いい方法だと心底思った。

 さすがに緊張気味のハヌルは、生放送開始の直前まで、カメラの前で何度も水を飲んで落ち着こうとがんばっていた。

 カメラの裏には、マネージャーやスタッフらが控えていたが、最低限の人数にしぼられていた。

 ソラは隅のほうにちょこんと座る。普段、ソラがレコーディング室でもない現場にいることはほぼないので、どういう顔で何をしていればいいのかわからなかった。こちらをチラチラ盗み見てくるスタッフもいて落ち着かない。

 放送の準備時間中、かつてハヌルとソラの関係性を親友みたいなものと言ったマネージャーがすすすと近寄ってきて、決めつけてしまってすみませんでした、とこうべを垂れた。

 その胸にレインボーフラッグのピンバッチが光っているのに気が付いて、ああと思った。

 こうやって世界は変わっていくのか。

 こうやって世界はまわっていく。

「あの」

 ソラはマネージャーを呼び止め、部屋の隅に置いておいた物を指差した。自宅から持ってきた段ボール箱だった。

「あれ、なんというか、俺からの差し入れなんですけど」

「差し入れ? うわあ、すみません。ありがとうございます。みんなで美味しくいただきます」

「ああでも、食べ物じゃないんです。マグカップで」

「マグカップ?」

 段ボールには、ソラ宛ての国際郵便の送付票が貼り付けられたままだった。佐月の筆跡だった。

 やがてカメラが回り始めて、ハヌル以外の人物はみな口をしっかり閉じた。

 今日はみなさんに言いたいことがあって放送をつけました。――ハヌルが話し出す。

 それから彼は、胸に手を当てて数回深呼吸をすると、膝の上で指を絡めて祈るようにしながら、胸を張って言った。

「僕はゲイです」

「僕は男性で、好きになるのも男性です」

「それから、僕には今、お付き合いしている男性がいます」

 ソラも、震える指を絡めて太ももの間に挟み、そっと祈りのポーズを取った。

「ソラヒョン。みなさんも名前はご存知ですよね? 藤枝空ヒョンです」

「『true story』は、実はヒョンのことを思って書いた曲でした」

「同性婚ができるようになったら、結婚したいと思ってます」

「はあ……。ずっとこうやって話したかったです」

「やっと本当の僕でいられて、気分がいい……」

 そう言ってハヌルは微笑み、自分の指で涙を拭った。