勤勉さを解放する

 仕事を生活の中心にしないように生きている。

 組織に属して労働をしていると痛感するが、労働者の中には働くために生きている人がいる。自分の労働の意味について何も考えず単調に仕事をこなしている人もいる。労働以外の拠り所がない人もいる。しかし私は、あくまで主体は自分だと意識を持って、ただひとつの労働力として搾取されるだけの存在にはなりたくないと思いながら日々働いている。ここ最近の話だ。

 社会に出てからようやくまともに勉強をしているような身だが、自分が資本主義のシステム構造の一部であることを自覚したときに、思考の先が、ではそのシステムは妥当なのか? これで人民は平等に尊厳を守られるのか? と再考に向かうのは当然だった。私がいま最も関心を高くしているのは人権問題だ。だから、貧困や経済格差、ひいては人権の観点に懸念を抱えたままこの資本主義社会が存続していくのであれば、その中にいる自分の人生はじゃあどうなのかと考える。せめて自分だけは自分に向き合っていたい。でないとそれは物だ。私は人間である。人権も感情もある。人とは何か、世界とは、と哲学的な考えを常に腹の中に抱えている人間である。

 労働社会の中の、勤勉さ、というものにいま、懐疑的な――いや、忌避的な視線を送っている。人は、特に日本社会で育った人は、「他人に迷惑をかけてはならない」という点を自身の行動の判断基準として重視しすぎてはいないか。今日休んだら同僚に迷惑がかかるとか、これを断ったら上司の気分を害するとか。権力への忖度が話にならないのは当然のこと、「自分が休んだら周りに迷惑が」や「自分がやらなかったら全体の仕事が止まってしまう」「代わりがいない」などの部類のものは、まず被雇用者にそう思わせている時点で組織が機能しておらず、労働者は組織で働いている意味がないだろう。そしてそのような組織になっている要因には、この社会構造が、政治が強く影響している。私は常にそう思いながら働いているのだが、知り合いにはそこに懐疑的な目線を持つ者は少ない。「今は休めない」「早く帰れない」と苦言を呈しながらも、残念で悲しいことだが、それをどうにかしようと働きかける人は本当に全くいない。自分だけの問題だと、自分の勤勉さが足りないのだと自己解決してしまう人も多いのかもしれない。

 毎日思考の暇さえなく働かなければならない環境がある、ということは理解できる。ただ、問題はその環境を強いている構造にあるのであって、その構造の問題点を洗い出して根本的に解決していかないと、自分も自分以降に働く人も同じ労働人生を強制され続けることになる。もっとも、これに気付くには自分の労働の範疇を超えたマクロな視点を持つことが必要で、そのいとまさえない多くの現代人にとって道は限られているのだが。だからいつまで経ってもこうなのだろう。だから日本の子どもは大人を見て大きな夢を抱けず、「大人になったらがむしゃらに働かなくちゃならない」と暗い思いを抱く。だから学生に向かって「今のうちに遊んでおけよ」なんて無責任に言い放つ社会人が多い。

 私の勤勉さへの忌避的な思いは、なにも労働環境に限った話ではない。私達は知らず知らずのうちに、自分の中の根強い「他人に迷惑をかけてはならない」を基準にして行動や言葉を選び過ぎてはいないか。自分基準の勤勉さではなく、他人基準の勤勉さになり過ぎてはいないか。例えば、映画館の座席を誰かと交換するシーン、ライブで大声で声援を送るシーン、自分より先に後輩が退勤するシーン、目上の人からの誘いを断るシーン、学校に好きなメイクや髪色をして行くシーン、同僚が産休育休で長期休業を取得するシーン、……。誰がなにを理由に作ったのかもわからない規範を、他人と一緒に守ることに必死になって、自ら窮屈な人生を歩んではいないか。排他的な思考に囚われて、規範を少しでも破る他人を見ると「迷惑だ」と攻撃的になってはいないか。

 どうだろう。今一度、その勤勉さを解放してみては。

 少なくとも、自分の真面目さや完璧主義にそれが育った環境も含めて向き合い始めた私はいま、昔のように、突然エネルギーが切れてベッドから起き上がれなくなることがなくなった。力を抜く。自己責任の罠から抜け出して、抜け出そうとして、そもそもこの社会構造自体がおかしくないか? 政治家の対策もおかしくないか? と批判の矛先を修正することは、弱さではない。

 勤勉さ自体を批判しているわけではない。「他人に迷惑をかけない」ことを基準にした勤勉さを解放し、他人に多少迷惑をかけて自分も他人にかけられる迷惑に寛容になって、問題が生じるならばそもそもはどうなのかと構造から見直していって、そうやって共存していけたら良いのではないだろうか。自分を認めて、他人を許して、私達はもっと身軽に気楽に生きていける。