どうしてもになりたい

 友情を友情たらしめるものは一体なんだろう。

 たまに飲みに行ったり遊びに行ったりする友達に旅行のお土産をもらった。旅行先の言葉で書いてある品物の名前が読めずこれは何かと聞くと、「わからない」と笑われた。「なんかお茶みたいなもの?」家に帰ってから開封してみると確かにフレーバーティーだった。ティーパックの小袋が三つ入っていた。その子からはそれと、大袋に大量に入っていたであろう雷おこしみたいな菓子の欠片を一袋もらった。そういえば、数年前に同じようにこの子からもらったお土産で、縦三センチくらいの大きさのリップだかノリだかわからない謎の物体があったなとフレーバーティーを飲みながら思い出した。袋にも入っていない丸出しをそのまま渡されたそれは、レジ横に「ご自由にお取りください」と書かれて置いてありそうだなと思った。用途がわからないし愛着も沸かないし、今どこにあるのかわからない。

 昨年までの所属部署は女性が多かったが、今年は男性のほうが圧倒的に多いところにいる。彼らは人をとてもからかって、常に誰か二人くらいを「いじられキャラ」に設定しておいて、すぐに女性の外見や年齢の話をして、つまりそうやって振る舞うことで生きている。独特な空気の中で、まさにホモソーシャル社会の縮図といった世界を築き上げている。私は蚊帳の外からそこって居心地いいですか?と無言で聞いている。

 来週の金曜日に食事に行こうよ、連絡するねと言われて待っていたが、いつまで経っても連絡がこないまま直近になってしまったので私からメッセージを送った。ご飯どうしようか?すると、おととい腰をやってしまったので行けないという返事がきた。私はお大事にと伝えて「またの機会にね」と打ちながら、またの機会っていつだろうと誰かの脳で思った。おととい腰を痛めたのならそのときに「金曜日無理かも」と一言もらえれば、とか考えはした。でも私の脳じゃないみたいだった。

 誰かと真剣に向き合うことには体力がいる。

 昨年度末、大好きだった同僚の退職が寂しくて、店頭で四十分くらい悩んで耐熱ガラスのグラスとティーセットを買った。彼女は職場で毎日紅茶を飲んでいて、最近ティーポットの蓋を割ってしまってコースターで塞いで代用していたので、よければ次の職場で新品を使ってほしいと思って選んだ。それと手紙を六枚書いた。へとへとになった。

 楽しそうに話している最中に「それは言っちゃだめだよ」と水を差すのは緊張する。気も遣う。心がしなしなになる。

 絶対に次を逃したくない相手との予定は、その場で仮でもいいからスケジュールを合わせてしまう。迷惑がられていないかなとか、断るチャンス奪っちゃったかなとか、そういう思考の循環に寝る前に陥る。もう一人で勝手にボコボコだ。

 相手と同じ熱度で、同じ姿勢で、同じ持久力で、じょうろの水を傾け続けられる友情は多くないのだろう。少なくとも私は友達が少ない。体力がない諦念と期待を裏切られる恐怖を言い訳に、いつも諦めてしまうから。友情のみならず、人との関係性を良好なものにしていくには連続したたゆまぬ努力が必要だ。同じ重量になりたくてがんばれるのは誠意だろうか。意地だろうか。センスか。はたまた愛か。

 ただ、こちらのことを尊重せず向こうの都合のいいように扱ってくる輩には、時間を割いてはならない。その拒絶は理性的であったほうがいい気がするが、悲しいかな、人はそういう場面でこそ感情的になる。でも大丈夫だ。その人の感情はその人だけのものだから。

 

 ところで、昨夜、好きなピアニストが夏に横浜でステージに立つという告知を見たので、深夜で眠くて薄目だったがインターネット先行販売のチケットを買った。これがなかなかうまく繋がらなくて、十回くらいやり直した。どうしても行きたい一心だった。後半の三回はいったん時間をおいてから接続し直した。買えた途端、寝た。

 どうしてもという根性は一種の激情だ。私は誰かのどうしてもになりたい。しかし誰かのどうしてもになれたら満たされるのか?それはわからない。